短編ミステリ読みかえ史

2015.01.05

短編ミステリ読みかえ史 【第70回】(1/2)  小森収


 まず、前回の訂正をひとつ。F・マリオン・クロフォードを、イギリスの作家としていましたが、正しくはアメリカの作家でした。それでも、イギリス優位であることは動かないと思いますが、間違いは間違いですからね。
 前回、怪奇小説について知りたい方に、参考文献として、風間賢二さんの『ホラー小説大全』をあげておきました。手際よくまとめられたもので、初心者から専門家まで有益な文章です。それに加えて、このたび全三巻が完結した『怪奇文学大山脈』に寄せられた、編纂者である荒俣宏さんの各巻まえがきと作品解説が、さらに詳細な議論を展開していて、はなはだ興味深い内容です。
 さて、前回の文章を「モダンホラーの傑作の登場でした」と、私は結びましたが、にもかかわらず、では、モダンホラーとはどういうものか? と問われると、実は困ってしまうのです。私自身、折にふれて定義めいたものを目にしたときに考える程度で、深く追究したことはないのですが、それにしても、曖昧なままに各人勝手に使っている様子なのは否めない。極端な例になると、スティーヴン・キング以降がモダンホラーだ、みたいな説明も、どこかで読んだような――そして、さすがに暴論のような――気がします。創元推理文庫の『怪奇小説傑作集』とならんで、無視できない怪奇小説のアンソロジーが、ハヤカワのポケミスから出た『幻想と怪奇』全2巻です。選者であり解説を書いているのが都筑道夫ですが、第1巻にはオーソドックスな怪談を、第2巻には、新しい工夫の下に書かれたものを収めたとしています。そして、その新しい工夫をふたつに大別し、ひとつを「小説の上にあらわれる怪異に新工夫をこらしたもの」、他のひとつを「怪奇を多少は犠牲にしても、恐怖を生かそうとした」もので「人間そのものの恐しさを描く」としています。のちに書かれた「怪奇小説の三つの顔」というエッセイを読むと、第1巻のような怪談を、古めかしさを気にせずに書くという行き方を理想としながら、第2巻で示したふたつの行き方を併せて、三つの顔と呼んでいるようです。
 具体的に見ていくと、E・L・ホワイトの「ルクンド」(こびとの呪)の、ウィッチドクターを使うというアイデアや、ラヴクラフト「ダンウィッチの怪」の他の天体からやって来た怪物といったものが、新工夫の例とされています。しかし、「ルクンド」のアイデアは、アイデアは陳腐化する好例ではないか――類似した例で、ハガードの『洞窟の女王』を20世紀に生き返らせるために、ライオネル・デヴィッドスンが『チベットの薔薇』で、どれほどややこしい手続きを踏んだことか!――と思いますし、ラヴクラフトの怪物は実質的に、たとえばF・マリオン・クロフォードの「上段寝台」の怪物と、どれほどの違いがあるのかと考えれば、その新しさははなはだ怪しい。都筑道夫自身、「怪奇小説の三つの顔」では、ラヴクラフトを第一の顔に入れていて「大げさな口調と身ぶりに辟易しながら、いつの間にかその世界にひきずりこまれて、怖がっている」と書いているではないですか。
 私の考えでは「ダンウィッチの怪」の新しさは、三人称他視点で大勢の人々に対する恐怖を描いた――つまり、恐怖体験をマスヒステリアとしてとらえた――ところにあって、単純な話、『怪奇小説傑作集』の中で、もっともスティーヴン・キングに書き方が近いのは「ダンウィッチの怪」でしょう。つまり、素材ではなく書き方が、モダンだったということです。ただし、これは「ダンウィッチの怪」の話であって、すべてのラヴクラフトがそうだというわけではありません。
 では、怪奇は犠牲にしても恐怖を生かした例はどうなのでしょう。こちらの代表はサキの「開いた窓」です。確かに、怪奇小説としてサキから選ぶなら『怪奇小説傑作集』のように「スレドニ・ヴァシュタール」を選ぶのが、順当というものでしょう。「開いた窓」には、スーパーナチュラルなところはかけらもない――正確には、スーパーナチュラルに見えたものが人為だったと判明する。これじゃミステリですね――のですから。にもかかわらず、都筑道夫は、そんな「開いた窓」を怪奇小説として選び、少なからず同じ考えの人は存在する。それはどういうことなのか?

 この連載のサキの回(第3回)を参照してみてください(こんなとき、Webは便利ですね)。サキが好んで用いた結末のパターンと、ジャーナリストから出発したサキが興味を持っていたのは、ある事態そのものよりも、それに対する人々のリアクションであったのではないかと指摘しました。そうした筆法が複雑な余韻を残すという意味で、「セルノグラツの狼」を推奨しています。この小説は怪奇小説ですが、同時に、その怪奇をやり過ごす人々の話でもあります。「セルノグラツの狼」を、E・M・デラフィールドの「帰ってきたソフィ・メイスン」と比べてみてください。どちらが小説として上手か一目瞭然です。
 W・W・ジェイコブズの「猿の手」やJ・D・ベレスフォードの「人間嫌い」といった作品に明らかなのは、スーパーナチュラルな事態を扱いながら、真の怖さや驚きは、スーパーナチュラルな事態そのものにあるのではない、それに相対した人間の側にあるという態度でしょう。もちろん、これらの作品におけるスーパーナチュラルな事態が無意味だとか、恐ろしくないとは言いません。しかし、怪異は人間の外側にあって、それに出会った人間が恐怖するという話から、こういう形に進んでいったのは、ひとつの進歩ではあったかもしれません。『怪奇小説傑作集』の英米編収録作で、もっとも新しい作品が、第二次大戦後に書かれた、L・P・ハートリイの「ポドロ島」であるのは、いかにも象徴的です。ポドロ島の怪物の犠牲になったであろう娘は、彼女の心の内に怪物の似姿を持ち、猫を媒介として相似形に描くという巧妙極まりない方法で、怪物を間接的に描くという綱渡りに成功しているのです。
 その延長線上に、サキの「開いた窓」を置くことが、どうやら、私たちには必要な作業であるようです。ある事態に直面する人間を描くことで、怖さや驚きが描けるのなら、その事態は、必ずしもスーパーナチュラルなものである必要はない。ないしは、スーパーナチュラルに見えたものが、実はそうではなかったという形でも成立しうる。それはひとつの行き方でした。
 猫の手も借りたいと言いますが、猿の手を借りたいとは言いません。まあ、これは日本語の話ですから、冗談ととってください。しかし、干からびた猿の手に祈ることで願いが叶うと言われ、半信半疑で試したところ、想像を絶する形で実現してしまったというのがW・W・ジェイコブスの「猿の手」でした。願った人々は、その実現したという事実に押し流されるように、さらなる願いをかけざるをえなくなる。しかし、猿の手に願うのではなく、猫の手を借りることで、(願うのではなく)強引に実現してしまうのが人間ではないのか? そういう発想で書かれたのかもしれない「猫の手」という作品が存在します。猫の手として選ばれた平凡な人間を主人公にした、都市の怪談とでも言うべきクライムストーリイです。邦題は「お先棒かつぎ」。原題はThe Cat's-Paw。書いたのはスタンリイ・エリンでした。
 怪奇小説がモダンな書き方を模索する過程で、ミステリへ接近していったというのは、こういうことであったのかもしれません。あるいは、ミステリが怪奇小説から行き方を学んだのか。また、先にふれたラヴクラフトの「ダンウィッチの怪」が示した三人称他視点の効用の恩恵を、もっとも蒙ったもののひとつが、現代のミステリであったことは、誰しも否定できないでしょう。
 もっとも、ラヴクラフトとスティーヴン・キングとでは、モダンの質が異なるのは当然で、都筑道夫は両者とも愛読したようですが、ラヴクラフトは辟易しながら、キングは感心しながらだったようです。スティーヴン・キングは巧いと思うものの、私は熱心な読者ではなくて、数もそう読んではいません。しかし、モダンホラー作家としてのキングの面目躍如としているのは『呪われた町』だと考えます。あの冒頭の大人と子どものふたり連れが旅をしていることの持つ重要な意味が、最後に分かる。そこには、とてつもない怪異に直面し、なおかつそれに立ち向かうとき、実際にはどうあるのかの、気づきにくい側面が、ものの見事に抽出されていました。




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