短編ミステリ読みかえ史

2014.10.07

短編ミステリ読みかえ史 【第67回】(1/2)  小森収


 1970年代に入ってからのアヴラム・デイヴィッドスンは、「トレフォイルCo.」「新道の狙撃者」といった短編が、ミステリマガジンに紹介されました。前者は、ある会社の中で、さまざまなタイプの上司に仕えるにはコツがいる……という話に見せかけて、ホラ話めいたサゲが決まるという、ユーモラスなナンセンス小説でした。後者は「谷間にはしる道路ができるのに、二年かかった。道は、年に一人、人を殺した」という洒落た書き出しです。道が出来るために犠牲者も出たその新道で、道行く自動車を狙った、無目的と思われる狙撃事件が連続します。幸いなことに、何件か続いた狙撃で死傷者は出ませんが、物騒なことこのうえない。病弱な息子、不満屋の妻、働く気のない弟と、家族の厄介ごとを一身にかかえるジョーも、その新道を通勤に使うひとりでした。そして、ついに狙撃は人の生命を奪います。短編のミッシングリンクテーマにしては、狙撃事件をひとつひとつ丁重に描いていって、ジョーが気づく事件の真相は、そう意外なものではありませんが、それと気づくタイミングと段取りの手が込んでいて、おまけに、そこから結末まで一気呵成なのが、展開をドラマティックにしていました。
 しかし、このころのデイヴィッドスンは、すでにミステリ作家とは言えなくなっていたのでしょう。『どんがらがん』に付された殊能将之の文章によれば、69年に「自分が本当に書きたい小説(引用者註The Phoenix and the MirrorとThe Island under the Earthをさす。ともにファンタジーのようです)を発表したとたん、『売れない通好みのカルト作家』になってしまった」とあります。また、78年の短編「ナポリ」で、世界幻想文学大賞を受賞します。そんなデイヴィッドスンですが、もう一冊だけ読んでおきたい短編集があります。おそらく70年代前半のどこかで短期間に集中的に書かれ、75年に発表された『エステルハージ博士の事件簿』です。
 事件簿(原文はThe enquiries)とついているものの、エステルハージ博士は、貴族の末裔(エステルハージは、実在したハンガリーの大貴族の苗字なんですね)で、五つ以上の博士号を持ちますが、名探偵というよりは狂言まわしに近い。もっと言えば、デイヴィッドスンが書きたかったのは、そこで起こる事件や、その解決――しないこともありますし――よりも、事件の起こる(あるいは、起きる事件を通して)スキタイ=パンノニア=トランスバルカニア三重帝国という、20世紀初頭の東欧に設定された、老王が統べる架空の帝国そのものだったのでしょう。
 最初の短編「眠れる童女、ポリー・チャームズ」は、異色作家短篇集のアンソロジーが再編集された折に、アメリカ編『狼の一族』に収録されました。世紀末のチープな見世物を素材にした怪奇譚と、ひとまずは言えるのかもしれませんが、結末のオチがその意外性以上に、秘められた健気さを雄弁に物語るところが、この短編のチャームポイントです。この作品が巻頭というのは、慎重に配慮されていて、ここでは、まだスキタイ=パンノニア=トランスバルカニア三重帝国は、奇妙な背景にすぎません。言いかえれば、この話は、この架空の帝国でなくても成立するでしょう。
 続く「エルサレムの宝冠 または、告げ口頭」あたりから、架空の三重帝国は、単なる設定を超えて、そこに生きる人々や風習、制度、文化を、細密なディテイルをもって描かれていきます。封建制の残照というか、ウェストファリア体制の遺物とでもいうべき社会を、フィクションであるがゆえに自在に描くという壮大な意図の小説です。もっとも、そんなことは読めば分かりますし、そこだけを取り出して、奇妙な想像力の小説と規定しておしまいには出来ません。この小説の凄みは、その先にあるように思います。
 たとえば第3話の「熊と暮らす老女」です。殊能将之が解説で探偵小説とカテゴライズしたのは、この作品だと考えられますが、ここでの解決は、見事に相矛盾するふたつの結末のどちらかという形になっています。しかも、それはストックトンの「女か虎か」のような、リドルストーリイ(どちらでもありうる)ではありません。ありえないほどの途方もない偶然が起きたか、でなければ人狼伝説が事実であることを認めるしかないという、結末なのです。エステルハージはひとりごちます。「(ありえない偶然を)事実と認めるほかはない。人狼伝説を認める方が気楽ではあってもだ」。ここに読み取れるのは、シャーロック・ホームズ以後、多くの名探偵が口にするしないにかかわらず当然の真理と認める「不可能を消去して、最後に残ったものが如何に奇妙なことであっても、それが真実となる」というテーゼに対する挑戦であり批判です。
 私がこの短編集でもっとも魅かれるのは「真珠の擬母」ですが、ひなびたドサまわりの人魚伝説と見えたものが、パズルストーリイそこのけの解決を見ることで、お伽噺のようなハッピーエンドを迎える。そのバックボーンには、たとえば「差別もある明るい都政」というスローガンを掲げてみせた、封建主義者・呉智英を想起させるところさえあります。
「神聖伏魔殿」は、集中でもとりわけ難解な一編ですが、中世このかた強固なキリスト教社会から抑圧されたカルトが、近代社会の陰謀で世に放たれるという、予見に満ちた図式の一編でしょう。「イギリス人魔術師 ジョージ・ペンバートン・スミス卿」のような、肩のこらないコメディでさえ、錬金術と科学のあわいのような世紀末らしさが、その背景にはあります。こうして見てくると、近代化に遅れをとり、貧しさを抱えながら、おそらくは第一次世界大戦によって根絶やしにされるであろう社会の持つ何かを、架空の帝国の中に幻視するというのが、この短編集におけるデイヴィッドスンの一貫した態度でしょう。そうした態度ゆえに、最終話「夢幻泡影 その面差しは王に似て」は、短いながらも、端正な一巻の掉尾を飾るにふさわしい作品となったのでした。
『エステルハージ博士の事件簿』はミステリとは呼べないかもしれません。まして、シャーロック・ホームズのパスティッシュなどではありえませんが、こういう短編集をミステリの範囲に含めないのは、大きな損失であると私は考えています。




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