短編ミステリ読みかえ史

2014.09.05

短編ミステリ読みかえ史 【第66回】(1/2)  小森収


 アヴラム・デイヴィッドスンのEQMM初登場は、1956年12月号掲載の「エリヤの聖画像」でした。もっとも、この作品が邦訳されたのは1999年のことで、40年以上の時が流れています。アヴラム・デイヴィッドスンは、確かに評価するのが難しい作家なので、時間がかかるのも仕方のないことかもしれません。MWA賞の短篇賞と、EQMMコンテストの第1席の両方を獲得した作家は、コーネル・ウールリッチ、スタンリイ・エリン、アヴラム・デイヴィッドスンの3人しかいませんが、ウールリッチ、エリンに比べて、アヴラム・デイヴィッドスンの日本での評価はないというか、少なくともハッキリしない。ミステリよりはましかもしれませんが、SFや幻想小説の書き手としても、広く定まった評価があるとは思えない。昨年亡くなった殊能将之が2005年に編んだ短編集『どんがらがん』は、そんな状況を変えてやろうという微笑ましい野心を感じさせますが、それでも、再評価とまではいかなかったように思います。『どんがらがん』を奇想天外な短編集と評価する向きも、収録されたデイヴィッドスンのミステリ短編は、敬して遠ざけているように見えました。では、アヴラム・デイヴィッドスンは、どのような短編ミステリを書いたのでしょう?
「エリヤの聖画像」の主人公はキプロス島の古物商で、抜け目のない商売をしています。彼は、無名の小さな修道院からやって来た修道士から、イコンの模写を引き取ります。調べてみると、模写の原画に価値があることが分かり、古物商はその修道院へ向かう……という話で、ヒッチコック劇場の原作になったというだけはあって、皮肉で残酷なオチを持ったアイデアストーリイでした。しかし、そういうオチをもったクライムストーリイという部分が、デイヴィッドスンの特徴というわけではありません。そもそも、ユリウス暦からグレゴリウス歴への移行を拒否――なぜ、一般人と祝日を同じにするという利便性のために、ローマカトリックの暦に合わせなければならないのか――して、東方正教会から異端視されている小さな修道院という設定が、日本人にはもちろん、多くの英語圏の人たちにさえ、エキゾチズムを通り越しているでしょう。そして、そんな設定を用いながらというか、用いたためにというか、まことしやかなディテイルの書き込みぶりが、異彩を放つ。そういうところに、この作家の個性はあります。あるいは、こうも言えるでしょう。そうした意表をついたシチュエーションを除けば、話は存外平凡でもある。
 それは「エリヤの聖画像」だけに限りません。試しに、日本語版EQMMに紹介された短編を、いくつかながめてみましょう。
「聖者」は、どうやら北アフリカを舞台にしていて、素性不明の男が殺されるに到るまでを描いた短い作品ですが、殺される動機が人を喰っていて、それが話のオチになっています。けれど、それだけなら、人を喰ったオチのアイデアストーリイでしかありません。その男の素性が、ムスリムの修道僧に身をやつした、おそらくは共産主義者であるスペイン人を師とあおぐ、コミンテルンの末端の手先だというのが、話を異様にしている――しかも、そのわりに、設定として以上の細部には踏み込まない。スパイ小説的な手触りもありません――上に、そこに到るまでに、「幾つかの人格を脱皮してきた」というのですから、話のオチ以上に人を喰っています。「エジプトからきた旅人」は、1822年のレグホーンすなわちリヴォルノ(かつて栄えた地中海の港で国際都市)で、イギリス人たちが消息を絶った同胞の船の行方を案じています。乗組員の妻たちは心痛に苦しんでいる。しかし、物語が進むうちに、海外で根なし草のように生きるイギリス人社会のうちの乱脈ぶりが、事件の背後にあることが分かってきます。ここでも、確かに、この時代この場所であることを要求する話なのですが、設定そのものの持つ奇抜さに比べれば、話そのものは平凡と言わざるをえない。ただし、この作家の(イギリスの)帝国主義へのこだわりは、のちに大きく開花することになります。
 デイヴィッドスンの短編は、異国を舞台にしたものばかりではありません。「ドヤ街の人々」は、女を渡り歩く作家くずれで呑んだくれのアメリカ人が殺人に到るまでを、少々幻想的な筆致で描いたものでした。「君は未だ汚れなき花嫁」では、結婚当日に花嫁が消息を絶つという謎を設えながら、謎の解決とは別方向へ結末が向かって行きます。「前奏曲の創作者」のように、これまた妻が親戚から相続した遺産で生きているような画家が、妻の両親と折り合えないあげくに、妻殺しの疑いを抱かれる話もあります。とくに、最後の話は、ジョン・コリアのクライムストーリイを連想させますが、それは同時に、コリアならもう少しシャープに書いただろうなと思わせるということでもありました。
 これらの短編――比較的短いものが多い――を読んで感じるのは、人物や設定の作り込みと、そのことから生じるディテイルとその描写に熱心なことでしょう。むしろ、そこを考え書くことが、主目的のようにさえ見えます。プロットやストーリイは類型を類型のままに用いただけ、せいぜい「君は未だ汚れなき花嫁」のように、プロットのパターンを少々だらしなく逸脱してみせるくらいでしょうか。ここまでのデイヴィッドスンは、風変わりな話を書く作家にすぎません。




ミステリ、SF、ファンタジー|東京創元社
バックナンバー