短編ミステリ読みかえ史

2014.04.07

短編ミステリ読みかえ史 【第61回】(1/2)  小森収


 A・H・Z・カーは、微妙なポジションにいる作家でした。日本では異色作家短篇集の系列と見られていましたが、それともちょっと毛色が異なる。異色作家短篇集に加えられなかったのは、本国で短編集が編まれていなかったことが大きいかもしれませんが、それが絶対的な理由とは言えないでしょう。フレドリック・ブラウンのように、日本オリジナルの短編集が入った例もあるのですから。いわゆる異色作家たちより、ミステリというジャンルに納まってしまうところがあったのは事実で、そこが異色ではなかったのかもしれません。しかし、実力は認められていて、「誰でもない男の裁判」の名はとくに高かったのですが、いかんせん日本語版EQMMのバックナンバーでしか読めない状態が、長く続きました。「黒い小猫」が入った『黄金の13/現代篇』の訳書が出たのが1979年。「誰でもない男の裁判」は、1989年に出たミステリマガジン400号記念のアンソロジー特集に、ようやく収録されました。したがって、2004年に、晶文社から『誰でもない男の裁判』として短編集がまとまったときには、幻の作家がようやく読めるという感慨を持った人もいたことでしょう。
 A・H・Z・カーがEQMMに執筆するきっかけとなったのは、戦前スリックマガジンに書いた短編を、クイーンが発掘再録したことにあるようです。邦訳もある「勘で勝負する男」がそれです。20年代から30年代にかけてのカーは、おもに、ロマンティックな小説を書いていたといいますが、こういうクイーンの目にとまるような作品も、いくつかあったのでしょう。「勘で勝負する男」は、旅先で交通違反の切符をきられた主人公が、地元のギャングとおぼしき男から、うまく話をつけてやると持ちかけられます。少なからず不安を感じながらも、話に乗ってしまう。後日、主人公は、そのギャングが翌日撃ちあいで負傷したことを知ります。といった出だしで、ひょんなことから、ギャングに幸運を呼ぶ男と見込まれた主人公の顛末を描いた話でした。一見ウィン-ウィンの関係に見えながら、相手の期待の高まりについて行けなくなるという心理の面白さが、ミソでした。ただし、構成からして、実話体験談ふうの奇譚になっていて、一応の作品という域を出ません。しかし、これをきっかけに、EQMMコンテストに参加し始めたA・H・Z・カーは、すぐに最重要な作家の仲間入りをします。
 まず、第5回コンテストに「誰でもない男の裁判」で第2席に入ると、翌第6回から「市庁舎の殺人」「虎よ! 虎よ!」「誰かと、誰かが……」と3年連続で、第2席を獲得します。そして、第11回コンテストにおいて「黒い小猫」が第1席に選ばれるに到るのです。
 初めに、A・H・Z・カーのことを、ミステリというジャンルに納まってしまうと書きましたが、事実、これらの第2席の作品群は、いずれもディテクションの小説ばかりです。もっともオーソドックスなのは「市庁舎の殺人」で、人工降雨のエキスパートという被害者の属性が特徴となっていて、謎ときもその点を軸にして動機が絞られていきます。しかしながら、単純にディテクションの小説と呼ばせないだけのなにか――ここでは、探偵役とある人物との関係でした――があるのも事実で、そして、その点がこの作家の株をあげたのも、また事実だったのです。
 たとえば「虎よ! 虎よ!」は、傷痍軍人でもある詩人が探偵役を務めますが、彼は護身用の仕込み杖でかつて人を殺したことがありました。その一件は正当防衛が認められ、また、それを契機に、詩の好きな刑事と友人になり、彼の依頼で、今回の事件に巻き込まれます。しかしながら、犯罪とは無縁に日常を営む人間の心にこそ、虎が潜むのかもしれないという不安を、常々、かれはブレイクの詩とともに反芻しています。数年後にスティーヴ・フレイジーが「追うものと追われるもの」で描いたように、それは錯覚でもなんでもない、単なる真理でした。そして、友人の刑事の捜査の囮を務めている最中に、気を失った彼が、意識を取り戻すと、傍らに刺殺死体がころがっていたのでした。
「誰かと、誰かが……」は、どうやら殺人容疑で逮捕されたらしいヒロインのところへ、面会者が現われるところから、始まります。彼は、弁護士よりも先に、彼女のもとへやって来たばかりか、地方検事との取引さえ持ちかけます。彼女は乗り気になれません。しかも、その後に現われた弁護士は、逆に、彼女に不信感を抱いているように見えます。物語は、面会室を出ることなく終わりますが、その間に、彼女が夫殺しに巻き込まれた状況が明らかになりつつ、彼女と夫との関係が、少しずつ容貌を変えながら明らかになっていきます。
 これらの作品は、ディテクションの小説としては、実は、いまひとつ魅力に欠けます。推理に面白さがないのが、そのおもな理由で、さらに言えば、探偵役に魅力と説得力がない。「虎よ! 虎よ!」の詩人が、いささか大仰に見えるのは、彼の恐れとそれを表わそうとする言葉が、説得力に欠けるからでしょう。もっとも、そこに説得力が出せるなら、小説など書かずに、詩人になっているでしょうが。そして、「誰でもない男の裁判」が、頭ひとつ抜け出しているのも、まさに、その点だと言えるでしょう。

「誰でもない男の裁判」は、どうやら時の人であるらしいミラード神父が、ある目的地に向かう列車の中で、遅れを気にしています。周囲の人々は、彼のことを知っているばかりか、彼に対する好意を隠そうともしません。彼はある裁判が行われている法廷に向かっていて、そのことも、みんなは知っている。彼は少々気がふさいでいるようです。そして、彼の回想として、裁判に到るまでの事件がふり返られます。ある著名な(おまけに売れている)作家でもある無神論者が、講演中に、神が存在するなら、いますぐ自分を殺してみろと、挑発したところ(毎度、おなじみのその瞬間は、大盛況の講演のクライマックスでもありました)、聴衆のひとりが本当に撃ち殺してしまったのです。しかも、その男は自分の名前さえ分からず――したがって、ジョン・ノーボディと名づけられた――神の声を聞いて、気がつくと銃を手にしていたと主張したのです。たまたま、その聴衆のひとりで、事件を目撃した唯一の聖職者だったミラード神父は、どちらかと言えば穏当な神父であったにもかかわらず、あるいは穏当であったがゆえに、地元の(おもに経済的な)実力者たちから、独自の調査委員会の長を引きうけさせられてしまいます。そして、犯人が神託を信じていたことは否定できないという結論を、反対する少数意見もあるとしながら出すと、一種マスヒステリアめいた騒ぎ(ノーボディを守る会が結成され、募金が始まると各地から続々と集まり、おかげで高名な弁護士が雇えてしまう!)が起こり、神父はその中心人物となってしまったのでした。その騒動の決着がつくのが、今日の裁判であり、神父は弁護人側の最重要な証人として、法廷内外から、当然のことのように、注視されていたのでした。けれど、騒ぎの過熱と反比例するかのように、神父の心の内には、ある疑惑が生じていて、彼が列車に乗っていたのは、その疑惑を解消するための小さな旅に出たためだったのです。
「誰でもない男の裁判」は、微かな手がかりが疑いを発生させ、そこから謎が解かれるという意味で、ディテクションの小説としての首尾は整っていますが、それでも、そこに大きな魅力があるとは言えません。真相の大部分がある人物の供述となっているのも、手軽なところです。しかし、探偵役に選ばれたのは、事件の中心にいた、そして、心ならずではあっても、事件を大きなものにした当の神父でした。その神父が、ある意味、自身の信仰を賭けて、法廷に立つ。そのドラマティックな展開と主人公の苦渋が、この短編の魅力であって、その魅力が頂点に達したのが、山口雅也言うところの「作者自身これがミステリであることを忘れてしまっ」た瞬間でしょう。そこまで突っ込んでいるからこそ、異色作家短篇集の系列に擬せられることもあるのです。
 そうは言っても、A・H・Z・カーが、ディテクションの小説を得意としないことは、変わりがありません。そのことはユーモラスな味つけをほどこした「猫探し」にしろ、政界の内幕を上手に取り入れた「ワシントン・パーティの殺人」にしろ、言葉遊びに淫した「姓名判断殺人事件」にしろ、成功しているとは言い難く、むしろ、パズルストーリイ作家としては手際の悪さを露呈していると言った方がいいでしょう。「女心を読む男」がパズルストーリイのパロディになり損ねているのも、謎解きの論理の面白さを、カーが掴んでいないからではないでしょうか。
 そして、本当のことを言うと、「誰でもない男の裁判」も、犯人像の卑俗さと、そのことがアイロニーにすらならない、この作品の持つ基本的な図式性ゆえに、私は完全に満足できているわけではありません。秀作であることは認め、過ぎたる重荷を背負うことになった、この神父の行く末は、ひとつの短編小説の余韻として得難いことも認めた上で、なお、たとえば、グレアム・グリーンが『情事の終わり』で描いたところには、神と信仰そのものの持つ、もういいと言う人間の首根っこを掴まえてでも引きずり込んでしまうかのような、タチの悪さがあって、それに比べると、「誰でもない男の裁判」が根本に持つ、世俗と宗教という構図の単純さと平凡さは、隠しようがないと考えるのです。




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