短編ミステリ読みかえ史

2014.03.05

短編ミステリ読みかえ史 【第60回】(1/2)  小森収


第8回EQMMコンテストの第1席作品「追うものと追われるもの」を書いたスティーヴ・フレイジーは、ミステリをそう多くは書いていないようです。西部小説の作家として、もっとも知られているようですが、SFやファンタジーも書いているらしく、著書には名犬ラッシーのシリーズや、怪傑ゾロまであって(おそらくノヴェライゼーションでしょうね)、なんでも屋のパルプ作家ないしはペーパーバック作家なのでしょう。しかし、西部小説作家としての貌は、「追うものと追われるもの」にもはっきり表れています。
「追うものと追われるもの」は、「残りはあと三人だ」という文章から始まります。4人組の脱獄囚を追いかけて、保安官や刑務所の副所長を中心に追手――ポッシと言ったと思いますが――が編成され、いま、そのうちのひとりを射殺したのです。森あり山ありの風景といい、20世紀も中盤になって自警団を組織するあたり、西部であろうことは、一目瞭然です。しかも、追手の中にはジェーンズという志願した民間人がいて、この男が不穏の種でした。危険な追跡行に志願した(脱獄囚ひとりあたり25ドルの賞金が出るらしい)、射撃の腕が自慢の自動車修理工なのですが、「人狩りがはじまったという知らせがとどくと、いつでもいの一番に保安官のところへかけつける」一方で「ハンターが行方不明になったとか飛行機が墜落したとかで救助隊を繰り出す時には、一度だってかけつけたためしがない」のです。犯罪者を「生死にかかわらず」捕えるという錦の御旗のもと、人間を獲物に狩りがしたいという自己の欲求が、他の人の目にも露わなことに、まったく気づきもしていない。最初のひとりも、半ば嬉々として、この男が撃ち殺したのでした。他のメンバーは、彼に対して、どうしようもない嫌悪感を抱いています。義務として――しかし、そのかぎりにおいて真剣かつ良心的に――この追跡に参加している副保安官のメルビンは、とりわけそうでした。一行は、脱獄囚たちの残した足跡を追って、森に入り、山へ向かいます。
この少々長めの短編は、以後、3人の脱獄囚を追い詰めるメルビンたちの追跡行に終始します。途中、尾根道で無線機を積んだ馬が墜落して、上空から探索と物資の補給をしている飛行機と連絡不能になってからは、鹿や雷鳥を撃って食料を補給しながらの追跡になったり、脱獄囚側の反撃もあったりで、そこをかいくぐったのちは、メルビンとジェーンズのふたりが、ひとり残った最強の敵を追う展開になります。そういう追跡劇のプロットそのものが持つ面白さはあるのですが、それだけでは、この小説の美点を逃してしまいます。
ありの巣のエピソードにもっとも顕著なように、メルビンはジェーンズに反感をつのらせる一方で、それと反比例するかのように、見も知らない殺人犯ケイゴーに親近感を抱くようになります。「舗装道路から五マイルと出外れたことが」ないような刑期180年の賭博常習犯が、闇夜でも森の中を正確に逃げ、自然の恐ろしさとおそらくは素晴らしさを感じ取っている。ケイゴーばかりではありません。追手に反撃を仕掛けたストローザースは、なうての銀行強盗でしたが、捕えられたのち、ジェーンズに面と向かって、自分が人を殺したことがないことを誇り、彼のことを蛇みたいな目をしたろくでなしだと罵りました。そして、メルビンをはじめ他の追手のメンバーたちも、ストローザースのこの言葉に心の中で賛意を表しているにちがいないのです。
「追うものと追われるもの」は、ある意味で単純な話です。法を犯して逃げる脱獄囚よりも、それを追う側に、非人間的な残虐性を見出せることがある。あるいは、法の下に素顔を隠した非人間性こそがタチが悪い。そうした認識をひとつの追跡劇に集約してみせる。しかも、その差が浮き彫りにされるのは、自然の中にひとりの人間として放り出されたときだった。人狩りという物語(広義に犯人追跡を含むなら、かなり間口が広がるでしょう)の中に、ある種の感覚が潜む。これも短編ミステリが洗練したひとつの形だと私は考えますが、その点については、ジョー・ゴアズがMWAの短編賞を獲ったときに、ハメットの処女作とからめて、また考えることにしましょう。ひとつだけ、僅かな瑕を指摘しておけば、このフレイジーの短編で、もっともインパクトが強いのは、結局、冒頭の台詞だったということです。物語の展開とともに、エスカレートしていく感覚、結末で収束する際の力感に乏しいため、最後のケイゴーとの対決に迫力が欠けることでしょう。そのためマンハントの物語としては、いささか盛り上がりに欠けるのです。




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