短編ミステリ読みかえ史

2014.02.05

短編ミステリ読みかえ史 【第59回】(1/2)  小森収


 第6回コンテストのシャーロット・アームストロング「敵」と、第7回コンテストのトマス・フラナガン「アデスタを吹く冷たい風」の、ふたつの第1席作品で、EQMMコンテストが黄金時代を迎えたと前々回に書きました。そこまでの経緯をもう一度おさらいしておきましょう。
 当初から、クイーンの野心のひとつとして、ミステリの枠を広げる方向で、コンテストは考えられていた(それは、クイーンのミステリに対する基本的な考え方が反映していたと思われます)らしく、それが顕著に表面に出たのが、第2回コンテストで、カーター・ディクスンの「魔の森の家」を押さえて、H・F・ハード「名探偵、合衆国大統領」が第1席を獲ったという事実でしょう。スタンリイ・エリンやQ・パトリックが、クライムストーリイの佳作で連続入賞を果たす一方で、ヘレン・マクロイのような文章や構成に目を配る作家が目立ってきます。アルフレッド・セグレやジョルジュ・シムノンの第1席受賞も、そうした方向から逸れるものではありません。また、エリンの「特別料理」はもちろん、トマス・フラナガン(北イタリア物語)やスティーヴン・バー(ある囚人の回想)といった作家の、最優秀処女作賞受賞は、新人の応募者のレベルが、コンテストの水準についていっているのみならず、その水準を上げる働きもしていることを示していました。
 これは、のちにまとめて触れる予定ですが、ジェイムズ・ヤッフェとハリイ・ケメルマンというふたりの作家が、コンテストにシリーズ作品で顔を出すようになりました。ヤッフェのママシリーズと、ケメルマンのニッキイ・ウェルト教授ものがそれです。両シリーズは、短編ミステリがクライムストーリイの全盛時にあって、なお、良質のパズルストーリイのシリーズが書かれうることを、その存在自体で証明してみせました。しかも、このふたつのシリーズによって、安楽椅子探偵ものは完成を見たといっても過言ではなくて、同時代のイギリスのパズルストーリイ(マイケル・イネスやエドマンド・クリスピン)が歩んだ道を、意識的、先鋭的に推し進めたと見ることが出来ます。
 イギリス作家の名が出たついでに、このころのイギリスの短編ミステリの状況にも目をやっておきましょう。1953年の11月ジョン・クリージーの呼びかけで会合がもたれ、それを契機に、CWAが誕生しました。3年後の56年、CWA編による最初の短編ミステリのアンソロジー『15人の推理小説』が世に出ました。このアンソロジーが編まれる際にも、ディテクティヴストーリイに限るべきか、謎や推理を含んでいない小説も含めるべきか、議論になったといいます。結果は内容を広くとる方向が採択されました。このアンソロジーのまえがきで、5000語ないし10000語の短編ミステリについて「マーケットの可能性はほとんどない」と指摘されています。シャーロック・ホームズとライヴァルたちが、雑誌で鎬をけずっていたのは過去のこととなっていたのです。黄金期以降の作家がEQMM創刊後に短編に手を染めたのは、偶然ではありません。また、エドマンド・クリスピンが代表ですが、短い犯人当てのようなパズルストーリイが量産されたのも、やはり商業的な理由を無視できないでしょう。
 56年に指摘されたこの状態は、その後の半世紀、ほぼ変化することなく続いたと考えられます。しかも、EQMMという大きなマーケットは、EQMMコンテストを重ねるにしたがって、自国の作家によって、短編ミステリを充分供給しうるまでになりました。そもそも、クイーンに、イギリスに追いつけ追いこせの気持ちがあったであろうことも、以前に指摘しておきました。したがって、全体的にはイギリスの短編ミステリは60年代後半に到るまで、冬の時代を迎えます。長い冬を耐え、イギリスの短編ミステリが開花するきっかけとなったのが、EQMMによるCWAコンテストと、「マーケットの可能性はほとんどない」ことをカヴァーするために、息長く続けたアンソロジーの出版、とりわけ、ウィンターズクライムの成功でした。ただし、このふたつについて触れるのは、かなり先のことになりそうです。




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