短編ミステリ読みかえ史

2011.06.06

短編ミステリ読みかえ史 【第27回】(1/2)  小森収


 1930年11月号の「死の会社」を最後に、ブラック・マスクを去ったダシール・ハメットは、約2年の間、短編を書いていません。すでに『ガラスの鍵』の連載を終え、この年出版された『マルタの鷹』は大成功を収めていました。ここは短編ミステリを読みかえす場ですが、『マルタの鷹』については、少しふれておく必要があるでしょう。
 書き出しを見ればわかるように、この小説は、サミュエル・スペイドという探偵を描くことを主たる目的として書かれています。一人称の主人公は魅力的に描きえない。ハメットがそう判断したのかどうかは分かりませんが、少なくとも、コンティネンタル・オプものの書き方では、『マルタの鷹』の冒頭は成立しません。そして、それまでのふたつの長編で、大出版社クノップから、殺戮描写を少なくするよう求められた経験は、ここにおいて奇跡的な効果をもたらします。『マルタの鷹』では、殺人は常に起きたのちの出来事としてあっさりと語られるのです。にもかかわらず、スペイドは鷹の像を狙う連中と渡り合う、タフでハードボイルドなヒーローとして、1世紀近く認知されることになり、今後1世紀それが続いても、さして不思議ではないでしょう。
『マルタの鷹』に描かれたスペイドという男は、ひや汗をかき、からだを震えさせながら、怪しげな連中と相対していきます。他の登場人物でからだが震えるのは、若い殺し屋のウィルマーで、自分が殺人犯として警察に売られると決まる寸前のことです。今回、私は、あまり広く流布していない宇野利泰訳で読み返してみたのですが、クライマックスにおいて、なんと、スペイドはどもるのです。宇野訳は、確かに大胆な意訳が散見され(にもかかわらず、私には宇野訳『マルタの鷹』が憎めないものに思われます。ホンネを言えば、創元推理文庫に入れてほしいくらいです)、この部分は、その最たるもので、結果的には、やりすぎではないかと思うのですが、しかし、スペイドがいわゆる颯爽としたハードボイルドヒーローでないことは、押さえておかねばなりません。ハメットの探偵が警察との良好な関係を築いていることは、以前にも指摘しておきました。『マルタの鷹』のスペイドは、確かに、ダンディや地方検事から殺人容疑の追及を受けます。しかし、それが無理な追及であることは、スペイド本人も承知しており、また、ダンディの部下のトム・ボルハウス刑事も承知しています。そのような状況であっても、警察・司法関係者にたてついてみせるスペイドは、綱渡りでもするような慎重さ(弁護士との連絡を欠かさない)で臨み、そして、汗をかく。そんなスペイドという男が「私と同じ釜の飯を食った探偵たちの多くがかくありたいと願った男、少なからぬ数の探偵たちが時にうぬぼれてそうあり得たと思いこんだ男」なのです。



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