短編ミステリ読みかえ史

2011.02.07

短編ミステリ読みかえ史 【第23回】(1/2)  小森収


 ブラック・マスクという雑誌については、前回も紹介した、ウィリアム・F・ノーランの「あるパルプ雑誌の歴史」という文章が、簡明にして要領よく解説してくれています。ブラック・マスクは、資金難にあえぐ文芸誌スマート・セットの費用を捻出するために1920年に創刊され、すぐにスマート・セットのオウナーに売却されます。1915年に創刊されていたディテクティヴ・ストーリイの成功が、念頭にあったといいます。「『探偵、ミステリー、冒険、ロマンス、降霊術の絵入り雑誌』と副題がついていた」といいますから、ウケるものなら、なんでもやってやろうという意図が、ありありとしています。ハードボイルドミステリは、ブラック・マスクにキャロル・ジョン・デイリーとダシール・ハメットが登場した、1922年に始まるというのが定説のようです。世界史の受験参考書ではありませんから、年号に細かい意味を求めても仕方ありませんが、デイリーのレース・ウィリアムズとハメットのコンティネンタル・オプが初登場した、翌23年の方が大きな意味を持っていたという考え方もありうるでしょう。
 どちらの年号を採用しようとも、大切なのは、その年がヴァン・ダインの『ベンスン殺人事件』に先立ち、F・W・クロフツはすでにミステリを書いていましたが、フレンチ警部は存在せず、アガサ・クリスティもまだ無名だったということです。まして、エラリー・クイーンもディクスン・カーも世に出る前の話です。すなわち、ハードボイルドミステリはフェアプレイをモットーとするパズルストーリイに対する、なんらかのアンチとして発生したのではありません。黄金期の謎解きミステリとハードボイルドの発生は同時期なのです(早川ポケミスのアンソロジー『名探偵登場』 では、コンティネンタル・オプは第3巻に収められています)。この点をまず押さえておく必要があります。
 クロフツやヴァン・ダインがそうであったように、ハメットも病を得たことをきっかけに、文筆の道に入りました。ハメットがピンカートン探偵社の一員だったことは、有名な事実ですが、実話雑誌の匂いを多分に残していたパルプマガジンに、本物の私立探偵だった人間が、私立探偵が主人公の小説を書くというのは、いささかキワモノの気分さえあります。だからといって、ハメットがキワモノを書いたとか、書こうとしたと言っているのではありません。
 コンティネンタル・オプは、コンティネンタル探偵社の探偵(オプ)の意味で、この一人称の主人公の名前は示されていません。ハメットの勤務したピンカートン探偵社は、探偵に組織の一員として没個性であることを求めたようで、名前のない探偵は、その反映であるとされています。ブラック・マスクに初登場した翌23年の10月「放火罪および……」が、コンティネンタル・オプの第一作となります。そして、その後の2年半で21編という大量のコンティネンタル・オプものを書きました。ハメット作品全体の約半数は、コンティネンタル・オプの短編だったのです。
 26年3月の「うろつくシャム人」「忍び寄るシャム人」)を最後に、ハメットは一時ブラック・マスクから遠ざかります。原稿料の値上げを断られたためだったようです。しかし、その年の秋に転機が訪れます。ジョゼフ・T・ショウが編集長に就いたのです。ショウはハメットこそブラック・マスクの中心作家となる人材だと考えました。そう考えたのは、それまでに同誌にハメットが書いた短編を読んでのことです。そして、もっと長いものを書かないかと持ちかけます。ハメットの一年ぶりの復帰作は「血の報酬」の第一部。三か月後に掲載された第二部と合わせて、中編あるいは短い長編と呼ぶべきものでした。以後、27年から30年にかけて、ハメットはブラック・マスクに立て続けに長編を連載(体裁上は連作短編の形をとることもありました)し、短編の数はめっきり減ります。そして、27年から28年にかけて連載された『血の収穫』『赤い収穫』)は一流の出版社クノップで29年に単行本化され、翌30年の『マルタの鷹』が決定打となり、ハメットは一流の作家となりました。ハリウッドに作家として招かれ、経済的にも成功します。ハメットは最後のオプものの短編「死の会社」を30年11月にブラック・マスクに書き、以後、同誌に登場することはありません。『マルタの鷹』で創造したサム・スペードが短編に登場するのは、その後のことで、掲載されたのは、アメリカン・マガジンやコリアーズといったスリックマガジンでした。



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