短編ミステリ読みかえ史

2010.12.06

短編ミステリ読みかえ史 【第21回】  小森収


 前回の文章で、言葉が足りなかったのではないかと思った部分があるので、まず、その補足をしておきます。
「ミステリがおしゃれな時期は確実にあったのです。そして、そこではミステリとして読むなどという愚昧な行為は行われていなかったのです」と書きました。そこにつけ加えておいた方がいいと考えたのは、その上で、ミステリとして評価する、あるいは、ミステリではない小説として評価するということです。読んだ上で、これはミステリだろうかと考えることは、無論、あるのです。さらに当然ながら、考えるまでもないという場合が大半ではあります。
 私に関していえば、そもそも、ミステリか小説かという対立項でものを考えることは、どうにも非論理的で不毛と感じています。ミステリは小説の一部であり、小説として成立していないものがミステリとして成立しないのはもちろん、ミステリであることを必要としている小説が、ミステリとして失敗していれば、それは小説としても失敗していると考えます。もっとも、少なくとも日本では、これが少数意見であることは承知していますし、そのことを、あまり強く主張する気もありません。ただし、常々感じるのは、ミステリか小説かと考える人の小説観は、妙に狭苦しいことが多いということです。まあ、ミステリを小説に入れないのだから、狭くて当然ですが。

 もう少し『ニューヨーカー短篇集』から、作品を拾ってみることにしましょう。
 クリストファー・ラ・ファージとオリヴァー・ラ・ファージという、ともに作家である兄弟がいます。それぞれ、第1巻と第3巻に1編ずつが収められています。とくに第1巻に入っている、クリストファーの「プライドの問題」と、オリヴァーの「同窓会悲歌」は、成功した(しつつある)アッパーミドルの一員としての立場があるために、主人公が苦しい立場に追い込まれるという点が、似通っています。前者が中年ないし初老の男で、後者が大学生という違いはありますが。ただ、このふたつを比べただけでも、兄のクリストファーの方が、腕前は上のように思います。けれど、弟のオリヴァーの方には、アイデアストーリイやサスペンスストーリイもあります。
 アイデアストーリイなのは、第3巻に収録された「スキッドモア氏の天賦の才」です。スキッドモア氏は45歳の建築家。生活のために自分の趣味を押し殺した仕事をしています。ある日、ポケットの中に残った1ドル札を、むしのいい期待半分から、2枚あったんじゃなかったかと擦ってみると、確かに2枚ある。これをきっかけに、あらゆるものを倍に出来る能力を、突然、自分が身につけたことを知ります。スキッドモア氏はその能力を試し(間違って冷蔵庫をふたつにしたり、本棚をふやそうとして、蔵書がそっくり2冊ずつになるというギャグあり)、やがて、その先、金に困ることがないと確信すると、仕事も趣味優先のものに変えてしまう。そして、孤独な生活をかこっていた彼は、自分自身をふたりにすることを思いつきます。
 SFの黎明期の作品なら、自分の異様な能力に恐れおののくところかもしれませんが、すんなり受け入れるところが、第一次大戦後、20世紀も最初の三分の一を過ぎたのちの作品です。ただし、自分の能力を慎重に試しながら身につけていくところ、自分を増やすという突飛な試みをする理由を、丁寧に描こうとしているところは、あるいは、若い読者にはまどろっこしいかもしれません。似たような感じは、第2巻に入っているクリストファー・イシャーウッドの「待っている」にもあります。ここがまどろっこしくなるか、手厚くなるかが、実は分かれ道で、作家の巧拙はこういうところに出ると、私は思います。残念ながら、この作家は、ここでこの小説を成功させそこなっていると考えます。主人公が自分を増やそうとした理由を描くところはともかく、彼の能力のメカニズムと彼の失敗を描く段になると、説明的になってしまうのです。この部分がマズいというのは、致命的なことで、アイデアストーリイであることを必要としている小説が、アイデアストーリイとして失敗していれば、それは小説として失敗しているのです。
 ミステリマガジンには「傍観者」という作品が訳出されていて、これはサスペンス小説です。ある事件(おそらくはギャングによる殺人)の証拠品をたまたま拾った主人公が、それに気づかれて、拉致され、ボスのところに連行されます。こういう話を書いて、主人公が生きるか死ぬかにサスペンスが生じないようでは、どんな言い訳(これはミステリではないとか)も通用しません。ウールリッチのところで取り上げた「選ばれた数字」と比較してみてください。サスペンスストーリイであることを必要としている小説が、サスペンスストーリイとして失敗していれば、それは小説として失敗しているのです。
 派手な事件のわりに手に汗握らない「傍観者」に比べて、お兄さんのクリストファーが書いた「メアリ・マルカイ」という小品は、敬虔なカトリックの老家政婦の姿をスケッチしただけの短編ですが、彼女が背中の痛みに苦しみながら、雇い主の家政をこなすところ、『女王陛下のユリシーズ号』のヴァレリー艦長顔負けです。小さくはあっても自分の住処となった家を離れることになる無念を、ささやかな救いで洗い流してくれる結末は、こんなに些細なことが、なぜ、1編のドラマになるのか不思議なくらいです。
 さらに、初めに名前を出しておいた「プライドの問題」が、凡手ではありません。銀行の要職に就き、ある程度休暇が自由にとれるようになっている主人公は、釣りに出かけるのが楽しみですが、年々、その川の共有者の組合が指定しているらしい禁漁区域が広がっていくのを、苦々しく思っています。今年も、友人と日程を組んだところ、奥さんが予定を入れていた、さる名家のパーティの日を失念し、その日に釣りに行くことにしてしまう。パーティを断ろうにも、奥さんが許してくれないので、釣りは早めに切り上げて、夜はパーティという強行日程です。当日、友人とふたり私有の禁漁区に入って釣りをした主人公は、見つかって召喚状を渡されます。召還されれば、いくばくかの罰金です。しかも、夜のパーティのホストは、その組合の有力者なのでした。主人公はホストに「無理なお願い」をします。
 差しさわりがないよう書いたつもり(だから、お願いというのは、あれではありません)ですが、主人公の意図がからまわりする苦さとおかしさは、見事としか言いようがありません。突飛かもしれませんが、菊池寛(この人も短編が巧い)の「忠直卿行状記」を連想しました。

 第1巻のアルバート・マルツの「ある街角の事件」は不気味な迫力があります。これも小品で、ふたりの警官が酔っ払いを見つけたというだけの話なのですが、警官は人ごみに取りまかれる。この緊張感は、日本人には計りかねるものがあります。「カトリック教徒のアイルランド人がおまわりの制服を着れば、そいつはただのおまわりになる」なんて台詞が出てくる。「ただのおまわり」には、原文がイタリックなのか、アマダレが傍点までついています。第2巻に入っているアーウィン・ショウ「ブレーメン号の水夫」は、船乗り同士の暴力沙汰と復讐という、これまた単純な話ですが、ナチと共産党の代理戦争の様相を呈していました。こうした短編の背後には、当然ながら、当時のアメリカ社会が厳然と聳えています。
 ニューヨーカーが地歩を固めた1920年代から30年代にかけては、世界的にも左翼思想の広まった時代でした。直接的には第一次大戦末のロシア革命の成功が大きいのですが、その波は資本主義の牙城であるアメリカにも及んでいました。いや、資本主義の牙城であればこそという方が、いいのかもしれません。なにしろ、日々、資本主義むき出しの資本家に雇用され、対決を余儀なくされていますからね。おまけに共産主義を恐れながら、ファシズムと天秤にかけることで、心ならずも妥協の道を歩んでいく。そもそも、当時の共産主義へのシンパシーは、いまでは考えられないくらい強いものです。欧米の知識層がソヴィエト・ロシアに幻滅し始めるのは、スペイン内戦からで、それは短編小説の隆盛と同時代の内戦でした。第1巻のドロシイ・パーカー「共和軍兵士」を読んでください。あるいはアーウィン・ショウの「アメリカ思想の主潮」です。ラジオの連続ドラマの脚本で、おそらくは並より良い収入を得ている主人公は、しかし、追いまくられるような生活の上に、銀行からは超過引き出しを通告されます。おそらく積ん読に終わるであろう『アメリカ思想の主潮』に二十ドル、スペインに百ドル(カンパなんでしょうね。それを「スペイン、百ドル、ああ、神さま」としか書かないところが、シックな短編のシックたる所以でしょうか)と支出を数え上げていく主人公の、あせりと疲労と後ろめたさ(自分は行動していない)は、30年経って再読しないと、私には分からないことでありました。予告がてらに書いておくと、スペイン内乱への幻滅と挫折が極まったところに咲いたパズルストーリイの名花が、トマス・フラナガンのテナント少佐シリーズです。
 そうした不穏さ、加えて、戦争へと進んでいく不安といったものが、これら荒々しい小説群の背後には感じられてなりません。あるいは、黒人問題なら、第1巻のふたつの作品、アンジェリカ・ギブズ「試験」の、あからさまな軽蔑と、ドロシイ・パーカー「黒と白の配合」の、腫れ物に触るかのような態度の滑稽さを両端にした振れ幅があって、なおかつ、その外に暴力的な差別が存在していました。また、そうしたアメリカ社会でのし上がっていく、恐るべき子どもを描いたのが、第2巻のジェローム・ワイドマン「医者の息子」でした。
 このような、アメリカ社会をヴィヴィッドに反映した短編小説が、クライムストーリイとして形をとった最高の例が、第2巻に収録されている、J・D・サリンジャーの「バナナ魚には理想的な日」「バナナフィッシュにうってつけの日」「バナナ魚日和」)だと、私は考えていますが、この作品については、あとで、たっぷりと時間をかけて読み返すことにしましょう。第二次大戦後の作品ですしね。
 しかし、このころのアメリカで、のちにミステリの大きな流れとなる一群がひしめいていたのは、ニューヨーカーなどのスリックマガジンではありませんでした。スリックマガジンの短編が推し進めていった、ソフィスティケーションとは別の方向を向いた一団がいたのです。偶然なのか必然なのか、両者は、アーネスト・ヘミングウェイという偉大な作家からともに影響を受けていましたが、その道筋も読者も、恐ろしく異なっていたのです。次回からは、そのもう一方の道筋、ブラックマスクに代表されるパルプマガジンのハードボイルドミステリを読み返すことにしましょう。


小森収(こもり・おさむ)
1958年福岡県生まれ。大阪大学人間科学部卒業。編集者、評論家、小説家。著書に 『はじめて話すけど…』 『終の棲家は海に臨んで』『小劇場が燃えていた』、編書に『ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18』 『都筑道夫 ポケミス全解説』等がある。


本格ミステリ小説の月刊Webマガジン|Webミステリーズ! 東京創元社
バックナンバー