短編ミステリ読みかえ史

2010.11.05

短編ミステリ読みかえ史 【第20回】(1/2)  小森収


 先月触れたロバート・M・コーツについて、少し補足することから始めましょう。
 コーツには邦訳された長編がひとつあって、しかも、早川のポケミスに入っているのです。『狂った殺意』という1948年の作品で、邦訳が出たのが62年です。ヘイクラフトとクイーンの名作表に入っていたというのが、お墨付きになっていて、解説(のタイトルからして「『名作表』の中の一篇」)でも、それで翻訳したかのような書き方をしています。アントニー・バウチャーの強力な推薦で、クイーンが名作表に加えたそうです。同じ48年の作品で選ばれているものは、ジョセフィン・テイ『フランチャイズ事件』、ウィリアム・フォークナー『墓場への闖入者』、スタンリイ・エリン『断崖』となっています。
『狂った殺意』そのものは、冗漫なクライムストーリイで、私は買うことができません。しかし、この作品をめぐっては書いておきたいことがあります。
 坪内祐三の『古本的』第二部「ミステリは嫌いだが古本は好きだからミステリも読んでみた」の最初が「ポケミス686番を探す」という文章で、この686番というのが、『狂った殺意』なのです。この第二部はジャーロに連載されたもので、連載していたのは私も知っていて、読んでいたつもりなのですが、この第一回は読み落としていたらしく、最近になってこの文章の存在を知りました。
 坪内祐三がここで書いていることは、しごくまともで、おそらく、他のジャーロの執筆者の誰が書くよりも、正しく『狂った殺意』を把握していると思います。私とは評価は違うけれど、そんなことは、あまり関係がない。私が問題にしたいのは、その坪内祐三でさえ「面白かった。ただし、ミステリとして読んだら、この作品、つまらなかっただろう」と書いてしまう、そのことです。
 このとき、坪内祐三が書いた「ミステリ」という言葉は、執筆当時の2000年の日本の状況(現状とそんなに変わっていないでしょう)をイメージしているのかもしれません。他の場所では「いくらエラリー・クイーンの名作表に入っていたとはいえ、こんなごりごりの純文学をポケミスに加えるなんて、当時のミステリの範疇はとてもアヴァンギャルドだったわけである」と書いています。確かに、ここは「だった」と過去形で、しかも、ご本人がミステリ嫌いと断っているわけですから、他人ごと他所ごとのような書き方なのも、当然のことでしょう。けれど、ミステリがおしゃれな時期は確実にあったのです。そして、そこではミステリとして読むなどという愚昧な行為は行われていなかったのです。
 いわゆる文学作品をミステリに含めるか否かという問題や、ミステリは文学ないしは純文学たりうるかという議論は、さらにそれ以前からありました。ただし、そういう議論がものの役に立った形跡はあまりありません。
『狂った殺意』に話を戻すと、坪内祐三は「実存主義文学として(中略)味読した」と書いていますが、同時に「『嘔吐』『異邦人』に比べてしまったら、かなり分は悪いけれど」とも書いています。私が分からないのはそこで、『嘔吐』『異邦人』と比べてかなり分の悪い実存主義文学に、どれほどの魅力があるのだろうということです。それに、実存主義者たちが評価したのは、ロバート・M・コーツよりも、たとえばホレス・マッコイだったというのは、事実でもあり、またそうなるのは当然なことのように、私には思えます。ついでに書いておきます。コーツはミステリかもしれない作品も書いた作家ですが、マッコイはミステリ作家です。また、坪内祐三はホレス・マッコイの『彼らは廃馬を撃つ』を文学の側から正当に評価しています。もっとも、『彼らは廃馬を撃つ』をミステリとして評価する場合「いかに、ナチュラルにその『動機』を描けていけるかに、ミステリ作家としての力量がかかっている」と書いていて、そこにだけ成功がかかっていると考えるのは、思考を狭くすると私は考えます。ただし、これは少数意見でしょうし、では、ミステリの側が『彼らは廃馬を撃つ』やホレス・マッコイをどう評価したかとなると、ことは複雑になって、ここで書くには問題が大きすぎます。




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