短編ミステリ読みかえ史

2010.10.05

短編ミステリ読みかえ史 【第19回】(1/2)  小森収


 ラニアン、ラードナーと読み返してきたので、ついでに、もうちょっと都会小説に寄り道してみましょう。都会小説というのは、しっかり定着した言葉ではなくて、常盤新平、大田博(各務三郎)が編集長のころのミステリマガジンに、ラニアンやラードナーが掲載されたとき、肩書きとしてつけられることが多かった言葉です。『ニューヨーカー短篇集』の帯には「都会人のための都会小説集」という惹句がついていました。ニューヨーカーを中心とした雑誌に、都会(おもにニューヨーク)を舞台にして、その街やそこに住む人を描くことに重点をおいた作家の小説を、かなり雑駁にではあるけれど、ひと括りにした言葉です。作家の小説という言葉使いをしたのは、おもに都会のことを書いた作家が、田舎やリゾート地を舞台に書く場合もあるからです。
 都会小説として紹介された作家の中で、日本でもっとも広く受け入れられたのは、アーウィン・ショウということになるでしょう。「夏服を着た女たち」は、常盤新平の大のお気に入りの短編で、これを書名にした短編集は何度も刊行されましたから、読んでいる人も多いはずです。アーウィン・ショウが常盤新平を虜にしたように、田中小実昌を魅了したのがジョン・オハラの『親友・ジョーイ』です。シカゴに流れてきた歌手のジョーイが、ニューヨークの旧友テッドに書く手紙という形式の連作短編です。いい加減でだらしのない都落ちした芸人が、売れていったかつての仲間に、毎回一通の手紙を書く。私はミステリマガジンに載ったものを断片的に読んでいたのですが、今回まとめて読んでみると、むしろ、一連の書簡から成る短い長編小説のように思いました。邦訳の『親友・ジョーイ』(講談社文庫)の目次でも、半分を占める「親友・ジョーイ」という作品として、他のひとつひとつの短編と同格の扱い。14通の手紙が全体としてひとつの小説ということです。この短編集『親友・ジョーイ』は、おそらく日本でのオリジナル編集だと思いますが、田中小実昌の好みなのでしょう、力の抜けた小品が多くて、「テンアイクかパーシングか? パーシングかテンアイクか?」のユーモアや、ヘミングウェイ「殺人者」『世界短編傑作集4』所収)の殺し屋を強盗に変えて、くだけた一人称にしたような「あんなの見たことがない」といった作品が、目をひきます。いずれも、当時のアメリカ人の素描という意味で、都会小説の一典型と言えるかもしれません。けれど、一方でオハラには、『ニューヨーカー短篇集』の第1巻に収められた「河を渡って木立をぬけて」という佳編もあって、こちらに如何なく発揮されている緊密で真面目な悲劇性も、持ち合わせた作家なのです。
 ジョン・コリアのところで書きましたが、『ニューヨーカー短篇集』に収録されたコリアの作品は「雨の土曜日」「死者の悪口を言うな」のふたつで、どちらも間然するところのないクライムストーリイでした。シャーリイ・ジャクスン(彼女については、いずれ、じっくりやる必要があります)の「くじ」も入っていますし、収録はされていませんが、ダールの「女主人」も、ニューヨーカーに発表されたものでした。この雑誌が、短編ミステリの発達に一定の役割を果たしたことは、誰も否定できないでしょう。
 ロバート・M・コーツの短編は、あまり取り上げている人を見ませんし、ミステリとして読まれているとも思えませんが、『ニューヨーカー短篇集』の中に、クライム・ストーリイがいくつか収録されていて、目をやっておくのもいいでしょう。
 「網」は、結婚生活の破綻した男が、それでも妻に未練を持ち、しつこく会いに行きます。妻の態度はつれなくて、愛情が冷めていることがはっきり分かる。それでも、男は妻の部屋に入ろうとし、拒絶され、叫び声をあげられたことから、殺してしまう。その顛末を描いただけの話です。妻の一族で唯一彼に好意的だったらしいフランクのことを思い出し、頼ろうとするというディテイルに、閃きを感じますが、平凡といえば平凡な話です。「怒り」は少女を誘拐しようとした男が、失敗し、追われて高架鉄道に轢かれるまでを描いています。どちらも、犯罪者の心理を行為に即して描いていくところが共通していて、スリックマガジンの短編作家が、犯罪を扱うとこうなるという見本とも言えます。コリアに比べると、結末に意外性がないと感じる人もいるかもしれません。私には、その点よりも、コリアが犯罪の顛末を通して犯人像を描いたのに対して、コーツは行為する人の心理を直接に描こうとしていることに、差を感じます。俗に人間を描くというとき、人がイメージするのは、このコーツの行き方であって、それを犯罪に適用した(ことは悪くありませんが)だけと言えるのではないでしょうか。
 コーツにはごく初期の日本語版EQMMに訳された「道ゆき」という短編があります。これもニューヨーカーに書かれたものですが、公金横領を企んだ男が、犯行以前に念入りに準備をして計画した犯行後の人生が、アイロニカルに崩れていく話でした。こちらは小説に描いている期間が長いせいもあって、よりストーリイ性の高いものになっています。だからこそ、初期の日本語版EQMMに載ったのでしょう。私の読んだ範囲では、コーツはゆったりとしたストーリイ性のあるものの方が、うまくいっているように思います。「ある田舎の冬」は、その好例です。ただし、現代のミステリ読みにアピールしそうなのは「ウェスタリーを過ぎて」という奇妙な話の方かもしれません。
 主人公はセールスマンです。定期的に行く出張先からの帰り、自動車を運転していて、時間が大幅に遅れ、しかも帰途のある部分の記憶が欠落していることに気づきます。次の機会に、何があったかを思い出しながら運転しますが、何があったのか分からない。しばらく経って、思いついて、道を変えてみると、ある町並みの記憶が甦る。その町並みは、なかなか見つかりませんが、この道を来た感覚はある。さらに進んでいくと、記憶はないのに、かつて通った感覚はあったり、問題の町並みを見つけると、それによって、また新たな感覚が呼び覚まされる。こうして、主人公は引きずり込まれるようにして、海辺の別荘地に辿りつきます。そこでは、通りすがりに見た女や、酒場の男が、彼を見覚えているかのような態度をとります。
 小説は主人公を(ということは読者も)宙吊りにしたまま終わりますが、後述するジョン・チーヴァーの「泳ぐ人」とも、また風味の異なる、記憶の欠落をモチーフにした奇妙な作品になっていました。『ニューヨーカー短篇集』に収められたコーツの短編は、矢野浩三郎訳ですが、これだけが伊藤典夫訳です。邦訳の初出が日本語版EQMMという事情もありますが、氏の見つけてきた短編なのかもしれませんね。




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