短編ミステリ読みかえ史

2010.03.05

短編ミステリ読みかえ史 【第12回】(1/2)  小森収


(編集部注:本稿で言及されている『シャーロック・ホームズの冒険』収録の短編「ぶなの木屋敷の怪」の[ぶな]の字は正しくは[木+無]ですが、お使いのパソコン環境によっては表示されないため、ひらがなで表記しました)

 ウールリッチ=アイリッシュの代表作について書く予定でしたが、急遽、一回寄り道することにしました。来月は必ずやりますからね。
 で、寄り道の前にクイズをひとつ。次の発言は誰のものでしょう?
「犯罪はありふれたもの。だが的確な論理はまれなもの。だから、犯罪そのものより、それを解明する論理のほうにこそ重きをおいて書くべきだ」
 エラリー・クイーン? 都筑道夫? 違います。正解はシャーロック・ホームズでした。「ぶなの木屋敷の怪」の冒頭の台詞です。出題にあたっては、ちょっとばかりインチキをしていて、正確には「だから、きみも、犯罪そのものより」と、ワトスンに向かって言っているのです。引用は深町眞理子訳から。そう。待望の深町訳シャーロック・ホームズ全集の刊行が、ついに始まりました。先陣を切るのは『シャーロック・ホームズの冒険』です。今回の寄り道は、この慶事を寿いでのことなのであります。

『緋色の研究』『四人の署名』の二長編を世に問うたのち、ドイルがストランド・マガジンにシャーロック・ホームズの短編連載を始めたことは、みなさんご存じでしょう。今回の深町訳では、戸川安宣(言わずとしれた、前社長ですね)の解題が、懇切ていねいで、連載開始の経緯にも触れています。コナン・ドイルの代表作をひとつ選ぶとなると、まあ『シャーロック・ホームズの冒険』が妥当なところ。『バスカヴィル家の犬』をあげる長編偏愛の人もいるかもしれませんが、質的な意味でも史的な意味でも、『シャーロック・ホームズの冒険』の方が上だと、私は思うな。
 たいていの人のホームズ体験と同じように、私も小学生の三、四年のころに、子ども向けの訳で読んで、そのままになるところでした。いまでこそ、子ども向けの完訳本もあるようですが、当時は抄訳というか翻案というかリライトというか、これをして読んだうちに入れていいものやらと、いまだに思案している始末です。その後十代後半に、創元推理文庫の阿部知二訳で四長編と『冒険』『回想』を読み返して、現在に至っていて(『冒険』は二十代のときにもう一回読み返したような気もしますが、定かではありません)、なぜ十代の私が、「ちゃんと創元推理文庫で読もう」と思ったのか、いまとなっては不明ですが、きっと、真面目というか殊勝というか、そういう気分だったのでしょう。『犬』より『冒険』が上というのは、当時の判断です。おそらく、深町訳『バスカヴィル家の犬』を読んでも、この判断は変わらないと思います。その後、大久保康雄(早川書房)、小林司・東山あかね(河出書房新社)、小池滋(ちくま)、日暮雅通(光文社)といった人たちの、ホームズ全訳が出ましたが、私は、それらを追いかけるほどの、ホームズファンではなかった。だけど、今回は違う。なんたって深町眞理子です。

 ちょっとドキドキしながら読み始めた『シャーロック・ホームズの冒険』ですが、最初のふたつ「ボヘミアの醜聞」「赤毛組合」を、快適な気分で読めたので嬉しくなりました。どちらもホームズ譚の中で五指に入ろうかという佳品ですが、なにしろ、両作品とも私は手の内や展開をあらかた憶えています。
 まず、ニヤリとさせたられたのは、「ボヘミアの醜聞」の、ホームズが国王に、アイリーン・アドラーが結婚していることを報告するくだり(47ページ)です。ちょっと長くなるけれど引用してみましょう。

「『まさかその男をアイリーンが愛しているとも思えぬが』
『ぼくとしては、愛していることを願いますね』
『それはまたなにゆえに?』
『そうであれば、陛下にとって、将来の憂いが取り除かれるからですよ。あのご婦人が夫を愛しているとすれば、陛下への愛はもはや失われたと見ていいでしょう。陛下への愛情がもうないとなれば、陛下がなにをなされようと、それを妨害する理由もなくなる』
『いかにも。だがそれにしても――なんと言えばよいのか! じっさい、アイリーンがわたしと釣りあう身分に生まれてさえおったら! どれほどすばらしい妃になっていたことか!』それきり王はむっつり黙りこんでしまい(以下略)」

 最後の、いかにも以下の王様の台詞で、アイリーンへの未練を滲ませる巧さには、ブラボーと呟くくらいの価値があります。「なんと言えばよいのか!」と口ごもるのがいい。そして、同じ報告するにしても、もう少し思いやった言い方があるだろうにと考えた人は、この短編(集)の冒頭でワトスンが「こと愛情問題となると、とんでもなく場ちがいな存在になりさがってしまう」と、ホームズのことを書いていたのを思い出すでしょう。その木石ホームズがポートレイトを所望する。この小説の終り方は、これ以外にはありえませんね。コナン・ドイル、小説が巧いぞ。
 もうひとつは、順番は前後しますが、ホームズがアイリーンに罠を仕掛けるクライマックスの場面です。策略でアイリーンの家の前で騒動を起こすのですが、きっかけは、浮浪者が小銭ほしさに馬車の扉を開けようとして(サーヴィスへのチップねらいです)いざこざが起きたところに、周囲でたむろしていた一群が集まってコトを大きくする。当時のイギリスが不況のまっ只中であったことならではの設定であり、直前にあるのは、その忠実な描写です。そもそも、昼間偵察に赴いたホームズが扮していたのが、失業中の馬丁でした。また、アイリーンの家の前で騒ぎを起こしたのは「今夜一晩、雇っただけ」の人たちですが、そのことにも、慢性的な不況という背景が見てとれます。
 こんなにヴィヴィッドにやっていたのかと、私は驚き、正直ドイルを少しなめていましたから、恥ずかしくなりました。映画「スティング」の何度めかを観たときに、冒頭の街頭にたたずむ人々の画面が不況下を表していることに初めて気づき、以下、フッカーが刑事に追われ高架鉄道の駅を逃げる場面の、屋外で煮炊きする人々や、ゴンドルフがロネガンをポーカーでカモっている列車が闇を走る、その窓越しに見える鉄橋足許の灯が、そこに人がいることを暗示していることに気づいた、その遅ればせ加減と同種のものです。
 もう少し補足しましょう。当時のイギリスは不況下とはいえ、労働者の購買力はそれほど落ちてはいなかった。賃金はさほど上がらなかった(それでも下がらなかった背景には、労働組合の隆盛による労使協調があったようです)けれど、それ以上に物価が下落していたのです。30年あまりデフレが続いたといいますから、いま、この時期に、深町眞理子による日本語の新訳が出ることは、案外、時宜を得ているのかもしれない。このあたりの、イギリスの労働者階級が、かねて考えられていたよりは豊かであり、その活力がイギリス帝国主義の末期の輝きと表裏一体を成している様子を、私に教えてくれたのは、井野瀬久美惠の一連の著作でした。とくに中公新書の『子どもたちの大英帝国』(現・中公文庫『フーリガンと呼ばれた少年たち』)は、フーリガンの発生をとっかかりに、当時の青少年の在り方に気づかせてくれます。
 不況下のイギリスで、青少年が安価な労働力となったことは、容易に理解できますが、それが鉱工業などの第二次産業から、サーヴィス業へシフトしていたという指摘には、目から鱗が落ちました。そこには、砂売り、靴磨き、新聞売り、ゴミ収集といった、調査結果の実例があげられていますが、ここまで来れば、探偵の下働きという職種を思いつくのは、シャーロッキアンならずとも簡単です。ベーカーストリート・イレギュラーズとは、そうした非熟練労働青年のアルバイトであったのでしょう。彼らの平均収入額だという週給7~8シリングは「決して高くはないものの、親方にどなられながら徒弟修行に励まねばならない同年齢の少年よりはましであった」ものだそうです。




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