短編ミステリ読みかえ史

2009.05.07

短編ミステリ読みかえ史 【第2回】(1/2)  小森収



 リチャード・ハーディング・デーヴィスの「霧の夜」(世界大ロマン全集第4巻『緑のダイヤ』所収)は、霧深いロンドンを舞台に、一触即発の欧州情勢(以後およそ半世紀、欧州はいつも一触即発なのですが)を背景にしながら、奇譚を語り継いでいくという構成で、しかも、その形式それ自体にも、仕掛けが施してあるというものでした。連作短編という形式と、都市の闇には人間を待ち受ける陥穽があるという感覚の二点から、私はR・L・スティーヴンスンの『新アラビア夜話』を想起しました。
 ちょっと、待ってよ。スティーヴンスンは、その名のとおり『千夜一夜物語』を模していて、無名のアラビア人が次々と物語を語るものだけど、「霧の夜」は三人称小説で、その中で3人の登場人物が体験談を話すのでは? そういう反問を用意の方は、頭がよろしい。
 デーヴィスにはデーヴィスで、都合があっての語り口ですが、スティーヴンスンはスティーヴンスンで、単なるエキゾティックなテクニックの流用以上の意味が、私には感じられてなりません。
 そもそも書簡体の小説というものが、19世紀には一種の流行のように存在していて、走りは『危険な関係』になるのでしょうか。ちょっと、そのへんは詳しい人に訊いてください。書簡体を手紙だけでなく、もう少し広く、複数の手記の集成という形まで含めると、ウィルキー・コリンズは、この方法を好んだひとりです。そもそも「人を呪わば」が書簡体だし、『月長石』なんて、この形で書かれていなかったら、現在読めたものではないのではないかな? ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』も同形式で、これはコリンズにならったと訳者平井呈一の解説にあります。
 さて、スティーヴンスンの場合、たとえば『宝島』 はジムの一人称ですが、中盤で医師が語り手になった3章分が挟まりますし、『バラントレーの若殿』 も、部分的に全体とは異なった語り手の個所が入ります。『ジキル博士とハイド氏』のような短い長編でさえ、それまでの章に比べると、異様に長い手記を最後に配することで、三人称の小説に収まりをつけました。スティーヴンスンは私のお気に入りの作家ですが、本当のことを言うと、短編はあまり巧くなくて、本質的には長い小説、それも一人称のものを書く人だと思っています。けれど『新アラビア夜話』は、ちょっと話が違います。

 『新アラビア夜話』という短編集は、最近、光文社文庫から南條竹則・坂本あおい訳で、新訳が出ました。私は河田智雄訳で読みましたが、ここでは、全体の邦訳題名や各編の題名など、すべて南條・坂本訳のもので通すことにします。
 構成は少々複雑です。まず、全体が「自殺クラブ」「ラージャのダイヤモンド」のふたつの話に分かれていて、前者が3編、後者が4編から成る、短編の連作となっています。全体を通じて、ボヘミア王子フロリゼルが、自殺クラブの会長と戦い、これを倒します。集中で一番有名なのは、「自殺クラブ」の最初のエピソード「クリームタルトを持った若者の話」でしょう。私は昔、子ども向けの翻訳で読んで、面白かった記憶があります。クリームタルトと訳されたのは、21世紀に入って訳された今回の光文社文庫版が、初めてではないでしょうか。これまでは「クリームパイ」となっていました。
 40年ぶりくらいで読んだ「クリームタルトを持った若者の話」は、新鮮でスリリングな短編でした。ボヘミア王子フロリゼルというのは、シェイクスピアのロマンス劇「冬物語」 から取られています。シャーロック・ホームズの最初の短編でも、この国の王様が重要な役を果たしていましたが、このころ、ボヘミア国王は存在しても、ボヘミア王国は存在しない(ボヘミア国王は、ハプスブルク家の人間が兼ねる状態、つまりオーストリアの一部ということです)という状態で、さりながら、中央ヨーロッパの要衝にして、文化的香気もある、それほどバカにできない国。拝借して、なにがしかのイメージを喚起できる国であったのでしょう。
 ただし、『新アラビア夜話』のオムニバス形式は、それほど生きていないように、私には思えます。自殺クラブの会長という、稀代の悪役になるはずの人間も、フロリゼル王子のヒーローぶりも、それを描く手だてが不足していて、一方で、巻き込まれる周辺の人物には、それほどの魅力がない。「クリームタルトを持った若者の話」の美点は、大量のクリームタルトを闇雲に人に勧めて自らも平らげる若者という、無邪気でありながら奇妙な冒頭の光景が、一気に自殺願望者の集まるクラブという、異様で邪気あふれる展開をみせる鮮やかさにありました。それに、この最初の話だけが、自殺クラブの会長の不気味さを、いささかなりとも描き出しています。
 さて、問題は、その語り口です。一応の設定はアラビア人の著者が語っているらしいのですが、各エピソードの最後につけ足しがあって、そこでは、「私」が登場人物のその後をつけ加えたり、次の話へ読者を誘導したりします。この「私」は西洋人であるらしい。しかも、各編で中心となる登場人物は、他の話には出てこない構成になっています。つまり、一連の事件の、ある段階で巻き込まれた人々の、それぞれの段階を順に語ることで、全体を語るという趣向なのです。しかも、事件の全貌を知って語っているのは、アラビア人の著者ということなのです。


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