国内ミステリ出張室

2014.06.05

戸川安宣/東京創元社編集部 編『私がデビューしたころ ミステリ作家51人の始まり』序文(全文)[2014年6月]


戸川安宣 yasunobu TOGAWA


 江戸川乱歩は算え年二十九歳の大正十一(一九二二)年九月初め、団子坂時代に大筋だけはできていた「二銭銅貨」と「一枚の切符」を書き上げて馬場孤蝶のところに送った。当時、そういう原稿を見てもらうのは西洋探偵小説に通じている馬場以外にない、と乱歩は信じていたのである。「サア、どんな返事が来るか。入学試験の成績発表を待つのと似ている。作者にとっては憂慮と期待にドキドキする一週間」と乱歩は『探偵小説四十年』に書いている。尤も、この時は多忙の馬場に見てもらえず、業を煮やした乱歩の督促に詫び状を添えた原稿が返却されてきた。それでは「新青年」に読んでもらおうと、編集長の森下雨村宛に送った。今度はすぐ返事が来たが、多忙のため、すぐには見られない。見ても「新青年」は翻訳物を中心にしているので、活字にするにしても他の雑誌を紹介することになるだろう、という甚だつれない内容だった。怒った乱歩は外国の作品に伍し得ると思ったら載せてくれ、そうでなかったら直ちに返送してくれ、と喧嘩腰の手紙を書き送った。これが功を奏したのだろう、生意気な奴がどんな小説を書いているのか、と興味を掻き立てられたのか、原稿に目を通してみて森下はびっくりした。直ちに掲載を約す手紙を書き送ったほどだったのである。これを受け取ったときの乱歩の気持ちは、「学校の成績が一番と発表されたときの喜びに似て、その晩は興奮のために不眠症になって、あれやこれやと愉しい妄想に耽ったことを覚えている」というものだった。
 これが鮎川哲也になると、そのデビューまでの道のりはもっと壮絶である。「宝石」の百万円懸賞コンクールに応募し見事一席となるが、当時経営的に傾いていた版元は賞金を支払わず、一方、熊本に疎開していた鮎川の一家はその賞金で上京を考えていたため、一日千秋の思いで賞金の到着を待ち望んでいた。結局この金は支払われることはなかった。さらには「黒いトランク」もあちこちを渡り歩いたが、「宝石」との不仲も原因してなかなか出版には至らず、ようやく講談社の『書下し長篇探偵小説全集』の十三番目の椅子を射止め、あわせて鮎川哲也というペンネームで再デビューを果たしたのだが、その間の苦闘は涙ぐましいものである。
 鮎川と「宝石」の関係悪化の原因となった百万円懸賞コンクールで、こちらは「「罪ふかき死」の構図」で一足先に受賞したお蔭で短編部門の賞金五万円(中学教師の給料の凡そ十倍)を手に入れ、別所温泉などで豪遊した(本人談)という土屋隆夫との境遇の差は、それだけで一編のドラマとなろう。
 渡辺啓助の『鴉白書』を読むと、弟、温から頼まれて乱歩の下訳の下訳をしたエドガー・アラン・ポオの翻訳にしても、当時の人気俳優、岡田時彦の代筆をした「偽眼のマドンナ」にしても、格別の感慨があった風には読み取れない。何事も柳に風と受け流す啓助さんの大人ぶりが際立っている。
 かくの如く、作家がデビューするまでの道筋は実に様々で、大変な苦労を重ねた結果、ようやく作家としてスタートを切ることができた人もいれば、案外とあっさり、たとえば人生最初の投稿がいきなり受賞となってすんなりデビューを果たす人もいる。
 といったわけで、作家のデビューに纏わるエピソードにはその作家の作品以上にドラマティックな要素が内包されているものだし、それに対して各作家がどのような感慨を催したかは、その作家の性格を反映していて興味が尽きない。
 現在興隆を極めるわが国のミステリ界を俯瞰する恰好の一冊として、広く江湖の読書子に薦める所以である。 (二〇一四年四月)

(2014年6月)


■戸川安宣(とがわ・やすのぶ)
1947年長野県生まれ。立教大学卒。東京創元社入社後一貫して編集者をつとめ、編集部長、社長を経て現在顧問。鮎川哲也賞、創元推理短編賞、同評論賞を創設。編集者としてミステリ作家を多数育成する傍ら、文庫解説や書評、コラム等の執筆を行う。現在、成蹊大学図書館のミステリ&SFライブラリに蔵書を寄贈、データ整理の日々を送る。


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