国内ミステリ出張室

2008.02.05

中町信『三幕の殺意』あとがき[2008年2月]

本編は、最後の三行に、
ちょっとしたひねりを加えてあるのだ。

長編デビューを飾る以前に発表された中編を基に、
新たな趣向を盛った7年ぶりの新作長編。
(08年1月刊『三幕の殺意』あとがき[全文])

中町 信 shin NAKAMACHI

 

 本編は今から40年前――昭和43年に双葉社の雑誌〈推理ストーリー〉に掲載された作品を、大幅に加筆、改稿し、長編化したものである。
 その作品のタイトルは、「湖畔に死す」。枚数は200余枚だった。
 3年ほど前に、東京創元社の戸川安宣氏から、この中編を読んでみたいので掲載誌を送ってほしい、という連絡をもらった。なにせかなり昔の雑誌なので、書斎から見つけ出すのに苦労したが、手にした代物は思ったとおりページが黄ばんでいた。おまけに私の作品は四段組みの小活字だったので、さらに読みにくくなっている。
 大ざっぱにページを繰ってみたが、読み返すまでもなく、出来の悪い作品だという記憶は残っていた。だから、作品を一読した戸川氏から、200枚ほど書き足して長編化してほしいと言われたときは、いささか驚き、そして戸惑った。私が長編化にあまり積極的でなかったのは、不備な凡作であるという理由のほかに、そんな作品にメスを入れる多大な労苦に尻込みしてしまったためである。
 戸川氏はその作品を三つの節に分け、きれいにプリントアウトされたが、あの古ぼけた雑誌の読みにくい小活字を思うにつけ、その作業たるや大変なものだったに違いない。とにかく、私は気持ちを新たにし、加筆、改稿にとっかかった。二度にわたり加筆をし、ようやく入稿の運びとなったときには、その内容の良否はともかく、よくぞやったりと、いささか誇らしい気持ちになったものだ。
 かの鮎川哲也氏は、短編を手際よく長編化する達人だったが、私はやはりこの手の仕事は不得手で、戸川氏の大きなご助力と的確なアドバイスがなかったら、おそらく途中で投げ出していたことだろう。
 さて、本編の舞台は、雪降りしきる尾瀬沼畔の山小屋である。だが、私は雪の尾瀬は知らない。知っているのは、さわやかな7月、8月の夏場の尾瀬である。
 私は大学2年のとき――つまり、昭和30年の夏休みの期間、尾瀬沼畔にある長蔵小屋でアルバイトをしたが、それはさらに翌年、翌々年と三年間続いた。三食付きで日給が250円。当時のバイト代としては下(した)のランクだったが、尾瀬という魅惑的なエリアが、それを補って余りあった。
 バイトは男女の大学生、女子高校生ら20人近くいて、女性は主として台所と事務、男性は本館、バンガロー事務所、湖畔の船着場のある休憩所の三つを輪番制で受け持っていた。やはり一番骨が折れたのは本館づとめで、早朝から夜まで大旅館の番頭さん、仲居さんなみの仕事をこなさねばならなかったからだ。
 夏場の本館の宿泊は、すべて予約制で、一階と二階の客室は連日超満員の盛況ぶりだった。予約組が重なったピーク時には、客室の畳一帖に2人――つまり、一枚の敷き蒲団に2人が抱き合って寝てもらうという、痛ましい処置を取らざるを得ない事態が何日か続いた。
 これだけ部屋に詰め込まれたら、蒲団に横になれる頭かずはおのずと限られてくる。そうなれば、蒲団からはみ出したお客は、畳にあぐらをかき、壁に寄りかかって眠るしかなく、私もそんな悲壮な現場を何度か目にしていた。しかし、こんな目にあわされても、かつて一度も苦情を申し出たお客はなかったそうで、まさに信じがたい話である。
 週に一、二度、自由時間がもらえ、私はそんな折、大江湿原や尾瀬ヶ原を散策し、燧ヶ岳には二度も登った。そして最初の年に、手漕(こ)ぎの渡し船(和船)の漕ぎ方を習ったのである。「櫂(かい)は三年 櫓(ろ)は三月(みつき)」というが、和船の漕ぎ方を、私は3か月ではなく、たった3日で習得してしまった。いや、マスターしたものと錯覚していたのである。
 思いあがった私はある日、都合の悪くなった船頭さんに代わって、対岸の沼尻(ぬまじり)小屋の船着場に向けて、定期の渡し舟を勇躍漕ぎ出したのである。乗船客は、わずか5人。船着場をスタートしてしばらくは、まったく順調だった。ところが中間地点近くにさしかかったとき、いきなり全身に痙攣(けいれん)するような疲れを感じ、櫓をあやつる両手の動きが急に緩慢になった。
 無理もない。私はそのとき、未体験の距離とひよわなおのれの体力のことを、まったく念頭に置いていなかったからだ。私は一瞬、冷水を浴びたようになったが、あとへはひき返せない。折悪しく風向きが変わり、にわかに波立ち、船は左右に揺れ動いた。私は狼狽(ろうばい)しながらも、神に祈りつつ、ただただ夢中で櫓を動かした。そして、かなりの時間を要して、やっと沼尻の船着場に辿り着いたとき、私の全身から汗が吹き出し、涙がこぼれ落ちた。「板子(いたご)一枚 下は地獄」という言葉に出合ったのは、その数年後のことだった。
 男性のバイトの寝る部屋は、休憩所の奥にあり、仕事を終えたあとは、部屋でよく酒を飲み交わしたものだったが、実は憩いはもう一つあった。それは沼辺のベンチでの歌教室である。歌の上手な、見目(みめ)うるわしき女子大生に、山の歌や当時流行(はや)りの青年歌集のヒット曲を指導してもらい、7、8人で合唱する集いだった。乳色の夜霧のこめた沼辺での男女の合唱は、実に趣きがあり、学校の授業でしか歌を唄ったことのない音痴の私を、すっかりとりこにした。
 青春の真っただ中にいた、長蔵小屋での3回にわたる夏の日々は、チャーミングな女子大生の歌声を含めて、50余年も経った今でも脳裡に生きており、私の数少ない良き想い出の一つでもある。
 あれから50余年か――。私が気息奄奄(えんえん)たる老骨と化したのも、むべなるかな、である。

 話が前後するが、本編は舞台が雪の山小屋に限定されているせいもあって、私の作品としては珍しくシンプルと言える。読者が犯人の正体に気づくあたりで、その動機もそれなりに予測できるはずである。だがしかし、読者が推理したとおり、そのままに最終行を迎え、そして「終わり」となったのでは、あまりに芸がない。本格推理の書き手としては、ここが踏んばりどころである。
 そこで本編は、最後の三行に、ちょっとしたひねりを加えてあるのだ。読者がこの最後の三行をどう受け取り、どう評価してくれるのか、いささか気がかりではある。

 二〇〇八年一月六日

(2008年2月)

中町信(なかまち・しん)
1935年1月6日、群馬県生まれ。早稲田大学文学部卒。出版社勤務のかたわら、67年から雑誌に作品を発表。第17回江戸川乱歩賞の最終候補に残ったのが、初長編の『模倣の殺意』である。以降、叙述トリックを得意とし、『空白の殺意』『天啓の殺意』(3冊とも創元推理文庫刊)など、大がかりなトリックで読者を唸らせている。

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