国内ミステリ出張室

2009.07.06

高城高『函館水上警察』あとがき[2009年7月]

生まれ故郷である函館を舞台に書くことはすぐ決めた。
異国趣味溢れる明治の函館を舞台にした、
著者約40年ぶりの新作。
(09年7月刊『函館水上警察』あとがき[全文])

高城 高 koh Kohjo

 

 学生時代から北海道での新聞社勤めまでに書いた旧作が、東京創元社から文庫本4巻の全集として出版されたのは昨年2月から11月のことである。企画段階の一昨年(おととし)春、並行しておよそ37年ぶりに新作をということになり、私はすぐ生まれ故郷である函館を舞台に書くことに決めた。全集でも函館を描いた作品はただ一つ、最後に書いたものだけだったのである。
 ちょうどその頃、私は明治11年に北海道最初の新聞として発刊された函館新聞に興味を持って読んでいた。はっきりしたオピニオン、砕けた文体で綴(つづ)った町ダネなど今の新聞とは違うスタイルで、安政2(1855)年に開港、4年後には外国貿易が始まって早くから西欧文化の波に洗われたこの町の姿を生き生きと伝えていたからである。
 函館は明治5(1872)年開設の測候所、婦人病治療を名目に同13年に始まった海水浴場、さらに市民公園、博物館など日本最初といわれるものに事欠かない。公共施設の建設や新聞、出版などの文化事業、窮民子弟の学校、娼妓の更生施設といった慈善に町の資産家たちが当然のように金を出す習慣があった。それは近代的な市民社会の考え方を根付かせようと、函館に14年間も在勤して実践の先頭に立った当時の英国領事夫妻の影響でもあった。そのころ外国水兵の姿が目立つ街では、フランス料理店が味を競っていたし、英語やロシア語の学校に通うのが不思議ではなく、警察の英語練習所では巡査たちが警備に必要な会話を習っていた。
 こうした町ダネを拾っているうち明治23年、水上警察署に初めて配属される巡回船の試運転、検収をやったという記事が目に留まった。いま函館西警察署では港内を19トンの警備艇「おしま」で巡回しているが、120年近く前すでに水上警察署が13トンの巴丸でポンポン蒸気の音を響かせてパトロールしていたのである。その光景が目に浮かんだ時、翌24年の水上警察署の活躍をシリーズで書いてみようと決めたのだった。
 ところが、6月になって新聞社のかつての同僚だった函館っ子から、森鴎外が明治15年に函館に来ているのを知らないかというメールをもらった。私と同じように函館の古い時代に興味を持って調べていたが、のちの文豪の片鱗も見えない21歳の森林太郎の来函は、北海道文学史でもほとんど無視され、謎に包まれているというのだ。軍医として国内各地に出張していたその年の林太郎の行動から類推するしかないのだが、本人が書いた「日乗」がそうした仕事の内容をちらりとも見せないのが不思議である。だからこそ「補遺」の余地もあるというふうに考えてみた。
 函館新聞には、森林太郎一行の函館滞在を伝える記事も載っている。林太郎の名は最末席の馬医の前という扱いで、緒方惟準軍医監との間には佐官、尉官級の名前がずらりと並んでいる。林太郎が函館でどんな役割を果たしたかはうかがい知れない記事である。しかし、それだけに林太郎を自由に歩かせ、明治の先進的な都市であった函館の案内役とする構想は魅力的であった。こうして水上警察署シリーズの前触れとなる作品が生まれた。三度にわたって幕末の箱館に姿を現わすアーネスト・サトウの名前も、一連のメールのやり取りの中で飛び出したものだが、脇役とはいえないこのキャラクターの登場で、作品は当初予定の枚数をはるかに超え中編ともいうべきものになってしまった。
 萩原延壽氏の「遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄」が朝日新聞に連載されはじめたのは、私がまだ若い記者としてあくせくしていた頃のことである。私は長い連載を関心の濃淡はあったにせよ、ともかくついていって読んだ記憶がある。幕末から明治にかけて動乱の歴史の黒子役だったその人物像は、私にはこの時にイメージされた以上のものはない。この作品発表直後の昨年4月、朝日文庫で全14巻が完結、発行されたのを機会に全巻改めて読んでみた。サトウの研究者には叱られるかもしれないが、自分ではそれほど大きな逸脱はなかったと思っている。
 今回の本でこの作品は時代が古いのに最後に置かれているが、水上警察署シリーズに登場した人物の9年前の姿がちらちらする、という趣向も悪くはないのではと思っている。この「坂の上の対話」で、私は歴史上実在しなかった人物は数人しか登場させていないが、水上警察署シリーズでも函館新聞で報じられた事件やエピソードを相当忠実に追究したつもりだ。
 北洋漁業が函館の街を潤(うるお)す以前、明治時代の函館の経済に大きく貢献したのは西欧列強の艦隊とラッコ・オットセイの密猟船の入港であった。石炭、水、食糧、日用品、クリーニングなどへの支払い、水兵や乗組員の街での飲食やお土産品の購入と、いわば特需ということになろう。
 明治時代に函館に入港したのは英国をはじめドイツ、フランス、ロシア、米国などの軍艦だが、なかでも英国艦は各国の合計数の二倍の数を記録している。英国の東洋艦隊が函館を避暑港と位置付けたのは明治19年からと思われるが、同30年代までに毎夏、5隻から12隻が入港した。函館新聞は毎秋、英国艦隊の各業界への特需額を集計しており、この短編集に描かれた同24年、J・H・トンプソンが納入したパン、肉、野菜の代金1万2500円など総計5万2093円と報じている。同22年、横浜に次いで国内二番目に完成した上水道の総工費23万5000円と比べると、毎年の入港の経済効果の大きさが分かろうというものである。
 水兵が酔って暴れるなど治安、風紀上の問題もあったが、艦隊の入港は函館の市民への文化的な刺激にもなったようだ。函館公園で開かれた英国軍楽隊の演奏会には2000人もの市民が集まったし、フットボール、ボート競漕の見物も賑わった。市民の野球チームが米国艦のチームと試合をしたこともある。明治40年、函館に日本最初の社会人野球チームが誕生したのもこうした背景があったからだろう。
 英国、米国の密猟船は毎年、6月ごろまで金華山や三陸沿岸でオットセイを捕獲、7月に函館に補給のため寄港して千島列島へラッコを狙って出猟した。最盛期の明治20年代には年間数十隻が入港していた。ラッコの毛皮には一枚1000円単位の値がつくだけに乗組員の金遣いも荒く、函館の街にとってお得意さんだったが、政府や北海道庁にしてみれば貴重な資源の密猟を許しておくわけにはいかず頭痛の種だった。明治6年に来函したヘンリー・J・スノーは、日本の軍艦や道庁の取締船に何度も摘発されたが、その度に英国領事に擁護されて逃れ、20年にわたって密猟を重ねたといわれる。
 執筆にあたっては函館に生まれ、40年以上前のこととはいえ3年間も仕事で過ごしたことが、どんなに役立ったことか。土地勘と何よりも人脈に恵まれ、登場人物の子孫の方々も含めて多くの知識豊富な人たちから話を伺うことができた。度重なる大火で一次資料の少ない土地柄だが、函館税関の所蔵する明治時代の公文書を読んで、古い時代の函館について書かれた多くのものがこの記録をベースにしていることに気づいた。貴重な古文書の閲覧に便宜を図ってくれた広報担当者に感謝の念もひとしおである。諸資料の所在を示唆してくれた函館っ子の友人亀谷隆氏には、甘えついでに面倒な地図、イラストもお願いした。スクーナー型帆船と弁才船の図面、スケッチは、私の描写のつたなさを補って読者の理解を助けてくれるはずである。船の中でも特に好きなこの二つが自分の作品に登場してくれたのが嬉しく、執筆そっちのけで船の資料をひねくり回す楽しみを味わったのだった。

   二〇〇九年四月

(2009年7月)

高城高(こうじょう・こう)
1935年北海道函館市生まれ。東北大学文学部在学中の1955年、日本ハードボイルドの嚆矢とされる『宝石』懸賞入選作「X橋付近」でデビュー。大学卒業後は北海道新聞社に勤務するかたわら執筆を続けたが、やがて沈黙。2006年『X橋付近 高城高ハードボイルド傑作選』(荒蝦夷)で復活を遂げ、2008年『墓標なき墓場』を第一巻とする〈高城高全集〉全4巻(創元推理文庫)が刊行された。他の著書に『微かなる弔鐘』(光文社)がある。


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