霧と原野へのノスタルジア
幻の長編を初文庫化! 〈高城高全集〉第1巻
(08年2月刊『墓標なき墓場』あとがき[全文])

高城 高 kou KOUJOU

 

 原風景のようなものがある。四歳か五歳の冬、私は小さなスキーをはいて函館の五稜郭の土手に立っていた。そのころ、この城跡の周辺には家が一軒もなく、原野の白い世界が広がっているだけだった。やがて濠端の道をスキーをつけた十数人の若者が走ってくる。先頭にいるのは、当時函館商業の教諭でスキー部長をしていた私の父である。ストックを力強く突いて濠を一周するコースを遠ざかってゆくのを見送ると、私はまた低い土手を滑り降りたり登ったりして待っている。何周も回っているうち、父の厚い木綿のアノラックからも生徒の黒い服からも湯気が立っているのが見えてくる。私はすっかり飽きてしまって、早く終わらないかなと寒さに震えているのだった。
 その後、父の転勤で私は仙台に移転し、小学校から大学まで教育は仙台で受けた。中学生時代から新聞記者を目指していた私は昭和32(1957)年卒業後、世界につながる東京に魅力はあったが、結局は北海道の新聞社に就職を決めた。寒さと雪への志向は函館時代に刷り込まれたのだろうか。今でも北海道を離れられず、都市化で暖かく、雪が少なくなった札幌を嘆きながらも毎年、春が来るとまた次の冬が来るのを楽しみにしているのである。
 入社して最初に配属されたのは釧路支社で、市内ではその夏、五所平之助監督の映画『挽歌』のロケが行われていた。前の年、ベストセラーとなり、新聞広告、ファッションにまで話題が広がった原作の小説を書いた原田康子さんは先輩記者の奥さんであった。
 翌年の春のことだと思うが、旧『宝石』誌の編集長になられた江戸川乱歩氏が、私が三年前の学生時代、同誌の新人賞を受賞したことを思い出されて何か書いてみないかと声をかけられたのだった。本州とは全く違う道東の街や風土に魅力を感じていた私は当然、この地を舞台に書くことになった。
 六月から八月の釧路は霧の季節である。海霧と呼んでいるこの地方の霧は、現在はすっかり都市化で薄くなったというが、普通の霧がコンソメだとするならポタージュといった感じで、外へ出ると上着がじっとり濡れて重くなってしまう。家庭では夏でもストーブを焚いていた。
 当時の釧路を支えていたのは、最新の技術で海底炭を掘っていた炭鉱と、サンマ船、独航船の水揚げであった。夏から秋のサンマの漁期、港のある釧路川河口は二重三重に繋留されたサンマ船に占領される。市内のキャバレーも腹巻に千円札の束を入れた漁船員だけがお客さんで、彼らはテーブルにサントリーオールドのボトルを置いてゴム長姿で女たちと踊っていた。中には、札束とともに鯖裂きマキリを入れているものもいる。釧路は物騒だから、というのである。
 勤務していた支社は一年ほど後に移転新築されるまで、戦前まであった地方新聞の建物に入っていた。煉瓦造り二階建ての社屋には、かつて石川啄木がわずかの間勤務していた。その二階で夜勤をしているとだれかが「またやってるぞ」という。裏の窓からのぞくと、路地裏の暗い街灯の下でにらみ合っている男二人は、霧にかすんで手にしている鯖裂きまでは見えない。と、みる間に二つの影が一つになり、うつ伏せに崩れた一人を残して相手は逃げ去った。「おい、誰か救急車を呼んでやれよ」で、みな仕事に戻る。死んだのは本州の漁船員、犯人は朝になれば船に乗ってしまう。朝刊に入れるほどのものでなく、夕刊で十行足らずの記事だ。
 旧『宝石』誌を中心に道東を舞台とした短編小説を書いていた私が、このたった一つの長編を書いたきっかけは四十数年たった今、どうも思い出せない。当時は東京から北海道は遠く、編集者とのやり取りはすべて手紙だったはずだが、お世話になったはずの編集者の記憶も申し訳ないが定かでないのだ。
 釧路を拠点に、根室、網走、阿寒などを歩き回っていた。つてを頼ってさまざまな人に会ってその土地の自然や開拓の話などを聞き、月賦で買ったオリンパスペンで珍しいと感じた風景などを撮り溜めていた。だから、転勤で釧路を離れてから書かれたこの長編も、ごく自然に釧路、根室の港と船が題材になって生まれたのだろうと思う。
 いま読み返して、推理小説としての自己評価は文字にするも恥ずかしいが、ここに描かれている霧に包まれた海と原野の風景、そしてそこに生きる人たちの必死な営みは、この通りのものであった。なによりも、男も女も気が荒く、ぶっきらぼうな言葉遣いで、それとは裏腹な不器用にみせる厚い人情が今となっては懐かしい。新聞社の地方支局での日常の生活、そして今とは違って警察の広報などなく、事件の発生から容疑者逮捕まで記者が足と勘で掴まねばならなかった時代も記録されているはずである。若い時の筆力不足でそれらは十分に描き切ってはいないが、感じ取っていただきたいと願っている。

(2008年2月)

高城高(こうじょう・こう)
1935年北海道函館市生まれ。東北大学文学部在学中の1955年、日本ハードボイルドの嚆矢とされる『宝石』懸賞入選作「X橋付近」でデビュー。大学卒業後は北海道新聞社に勤めながら執筆を続けたが、やがて沈黙。2006年『X橋付近 高城高ハードボイルド傑作選』で復活を遂げた。他の著書に『微かなる弔鐘』。08年、『墓標なき墓場』を第1巻とする〈高城高全集〉全3巻(創元推理文庫)の刊行を開始する。

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国内ミステリ出張室

2008.02.05

高城高『墓標なき墓場』あとがき[2008年2月]

霧と原野へのノスタルジア
幻の長編を初文庫化! 〈高城高全集〉第1巻
(08年2月刊『墓標なき墓場』あとがき[全文])

高城 高 kou KOUJOU

 

 原風景のようなものがある。四歳か五歳の冬、私は小さなスキーをはいて函館の五稜郭の土手に立っていた。そのころ、この城跡の周辺には家が一軒もなく、原野の白い世界が広がっているだけだった。やがて濠端の道をスキーをつけた十数人の若者が走ってくる。先頭にいるのは、当時函館商業の教諭でスキー部長をしていた私の父である。ストックを力強く突いて濠を一周するコースを遠ざかってゆくのを見送ると、私はまた低い土手を滑り降りたり登ったりして待っている。何周も回っているうち、父の厚い木綿のアノラックからも生徒の黒い服からも湯気が立っているのが見えてくる。私はすっかり飽きてしまって、早く終わらないかなと寒さに震えているのだった。
 その後、父の転勤で私は仙台に移転し、小学校から大学まで教育は仙台で受けた。中学生時代から新聞記者を目指していた私は昭和32(1957)年卒業後、世界につながる東京に魅力はあったが、結局は北海道の新聞社に就職を決めた。寒さと雪への志向は函館時代に刷り込まれたのだろうか。今でも北海道を離れられず、都市化で暖かく、雪が少なくなった札幌を嘆きながらも毎年、春が来るとまた次の冬が来るのを楽しみにしているのである。
 入社して最初に配属されたのは釧路支社で、市内ではその夏、五所平之助監督の映画『挽歌』のロケが行われていた。前の年、ベストセラーとなり、新聞広告、ファッションにまで話題が広がった原作の小説を書いた原田康子さんは先輩記者の奥さんであった。
 翌年の春のことだと思うが、旧『宝石』誌の編集長になられた江戸川乱歩氏が、私が三年前の学生時代、同誌の新人賞を受賞したことを思い出されて何か書いてみないかと声をかけられたのだった。本州とは全く違う道東の街や風土に魅力を感じていた私は当然、この地を舞台に書くことになった。
 六月から八月の釧路は霧の季節である。海霧と呼んでいるこの地方の霧は、現在はすっかり都市化で薄くなったというが、普通の霧がコンソメだとするならポタージュといった感じで、外へ出ると上着がじっとり濡れて重くなってしまう。家庭では夏でもストーブを焚いていた。
 当時の釧路を支えていたのは、最新の技術で海底炭を掘っていた炭鉱と、サンマ船、独航船の水揚げであった。夏から秋のサンマの漁期、港のある釧路川河口は二重三重に繋留されたサンマ船に占領される。市内のキャバレーも腹巻に千円札の束を入れた漁船員だけがお客さんで、彼らはテーブルにサントリーオールドのボトルを置いてゴム長姿で女たちと踊っていた。中には、札束とともに鯖裂きマキリを入れているものもいる。釧路は物騒だから、というのである。
 勤務していた支社は一年ほど後に移転新築されるまで、戦前まであった地方新聞の建物に入っていた。煉瓦造り二階建ての社屋には、かつて石川啄木がわずかの間勤務していた。その二階で夜勤をしているとだれかが「またやってるぞ」という。裏の窓からのぞくと、路地裏の暗い街灯の下でにらみ合っている男二人は、霧にかすんで手にしている鯖裂きまでは見えない。と、みる間に二つの影が一つになり、うつ伏せに崩れた一人を残して相手は逃げ去った。「おい、誰か救急車を呼んでやれよ」で、みな仕事に戻る。死んだのは本州の漁船員、犯人は朝になれば船に乗ってしまう。朝刊に入れるほどのものでなく、夕刊で十行足らずの記事だ。
 旧『宝石』誌を中心に道東を舞台とした短編小説を書いていた私が、このたった一つの長編を書いたきっかけは四十数年たった今、どうも思い出せない。当時は東京から北海道は遠く、編集者とのやり取りはすべて手紙だったはずだが、お世話になったはずの編集者の記憶も申し訳ないが定かでないのだ。
 釧路を拠点に、根室、網走、阿寒などを歩き回っていた。つてを頼ってさまざまな人に会ってその土地の自然や開拓の話などを聞き、月賦で買ったオリンパスペンで珍しいと感じた風景などを撮り溜めていた。だから、転勤で釧路を離れてから書かれたこの長編も、ごく自然に釧路、根室の港と船が題材になって生まれたのだろうと思う。
 いま読み返して、推理小説としての自己評価は文字にするも恥ずかしいが、ここに描かれている霧に包まれた海と原野の風景、そしてそこに生きる人たちの必死な営みは、この通りのものであった。なによりも、男も女も気が荒く、ぶっきらぼうな言葉遣いで、それとは裏腹な不器用にみせる厚い人情が今となっては懐かしい。新聞社の地方支局での日常の生活、そして今とは違って警察の広報などなく、事件の発生から容疑者逮捕まで記者が足と勘で掴まねばならなかった時代も記録されているはずである。若い時の筆力不足でそれらは十分に描き切ってはいないが、感じ取っていただきたいと願っている。

(2008年2月)

高城高(こうじょう・こう)
1935年北海道函館市生まれ。東北大学文学部在学中の1955年、日本ハードボイルドの嚆矢とされる『宝石』懸賞入選作「X橋付近」でデビュー。大学卒業後は北海道新聞社に勤めながら執筆を続けたが、やがて沈黙。2006年『X橋付近 高城高ハードボイルド傑作選』で復活を遂げた。他の著書に『微かなる弔鐘』。08年、『墓標なき墓場』を第1巻とする〈高城高全集〉全3巻(創元推理文庫)の刊行を開始する。

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