「インカ帝国の皇帝アタワルパを知っているかな? くらりくん」
――東京創元社の図書室でくらりとジャン=ジャック・ニャン吉が『文明交錯』についてしばし語り合う。

図書室で語り合う

くらり「インカ帝国? それって、ペルーのほうにある遺跡とか、帽子をかぶった女性たちとか……マチュピチュとか……?」
ジャン=ジャック・ニャン吉(以下J=J・N)「うん、まあ、そんなとこかな。わりと知ってるほうだね」
くらり「〈インカのめざめ〉っていうジャガイモもあるよ」
J=J・N「オヌシ、できるな。ところで余談だけど、ジャガイモってナス科なのだよ、くらりくん」
くらり「ニャニャッ、ナスカ? 地上絵?」
J=J・N「アハハ。ナスビのナスだよ。ナスカの地上絵はインカ文明よりずっと前のものなんだよ」
くらり「ふーん。でもインカ帝国ってスペインに滅ぼされちゃったんでしょ?」
J=J・N「そうなんだ。以前、ジャレド・ダイアモンドという人の『銃・病原菌・鉄』っていう本がとっても話題になったことがあるんだ。インカの人々は、鉄〈銃〉、馬、免疫をもっていなかったから、スペインに征服されてしまったっていうんだ。だから、もしも彼らがそういうものをもっていたとしたら、そしてインカ帝国のほうがスペインを征服したのだったら……と考えたのが、ローラン・ビネさんなんだ。で、『文明交錯』っていうタイトルの小説を書いたんだよ」
くらり「あっ! ビネさんって、あのむずかしそうなタイトルでみんなをひるませておいてから、びっくりさせた人だ! 『言語の七番目の機能』だ! ロゴス・クラブだ! 『HHhH』だ! 今度のタイトルもなんだかむずかしそうだにゃ」
J=J・N「いやいや、これがとても面白いんだよ。完全に歴史をひっくり返してみせるんだから大変なことなんだけど、よく出来てるんだ。これほど大胆な歴史改変小説を僕は読んだことがないよ。大胆な設定だけど、緻密に構成されていてね……」
くらり「コピーを考えてあげるにゃ。〈大胆かつ緻密……これほどの歴史改変小説がかつてあっただろうか?〉」
J=J・N「へえ~、くらりくんはコピーライターみたいだね?」
くらり「みんなの真似をしてみたニャ。てれるニャ……」

[四部構成の小説]
J=J・N「この小説は四部にわかれているんだ。はじめは、中世アイスランドの実在のサガを使って(あれれ? インカじゃないの? アイスランド? と思うかもしれないけど)、ここですべての伏線を用意し、第二部で歴史をひっくり返し、そこからなにもかもを書きかえていくんだ。第三部はアタワルパ年代記といってヨーロッパに向かったインカの皇帝アタワルパの生涯がつづられるんだ。そして最後の第四部では、書きかえられたヨーロッパで時代が進み、セルバンテスとエル・グレコがどんなふうに生きているのか……。モンテーニュの城でのエピソードはなんともいいんだ……よ」

くらり「セルバンテスって『ドン・キホーテ』を書いた人? エル・グレコは画家だニャ。モンテーニュは『随想録』の人だニャ」
J=J・N 「おお、くらりくんならこの本は楽しめるよ、さすがわが友。素晴らしい。そんなくらりくんだから、僕の感動をもっと話すね。アタワルパは1532年に書かれた『君主論』に色々学ぶんだよ。インカ帝国がピサロに滅ぼされず、皇帝アタワルパがヨーロッパに進軍していたら、『君主論』に出会う……と感慨深いものがあったよ」
くらり「『君主論』? マキァベッリだニャ。でもまだ読んだことはないニャ。気にはなっているけど、君主になることはにゃいと思うから急いで読まニャくてもいいかニャと思って……」

J=J・N「そうそう、びっくりしたことがひとつ。第一部に出てくる謎の球技! 大きなボール(ゴムのようなもの)を腰や肘で打ち合って石の輪を通す、のかな……? サッカーの起源という人もいるようだね。なかなか正体がよくわからないんだけど、不思議な球技をするんだ。そして敗けた側の首領は首をはねられる」
くらり「ニャッ!」
J=J・N「それどころか、勝ったほうの最優秀競技者の首も栄誉を称えるということではねられたりするというおっそろしいものなんだ」
くらり「ニャ~! そのお話はこわすぎるニャ。や・や・やめよう~」
J=J・N「こわがりなんだね、くらりくんは。ネット検索をしたらこの球技や球技場の写真が見られるブログを発見したから見てみるといいよ。腰でボールを打っている動画まであるんだ」




[カバーを飾る三人]
くらり「そういえば、カバーの三人の絵。アタワルパとカール五世と、フランシスコ・ピサロだって書いてあるニャ」

三人の肖像について

J=J・N「アタワルパはすぐわかるでしょ? このカバーではヨーロッパ勢を上から抑えている構図だよね。左側のフランシスコ・ピサロはコンキスタドール(=征服者)という言葉とともに知られているんだ。アタワルパを殺し、非道の限りを尽くしたとして、後にインディオの保護者といわれたスペインの司祭、ラス・カサスに無法者と告発されているんだ。第三部の16章から22章あたりでアタワルパがスペインでカール五世(カルロス一世)を罠にかけて討つんだけど、実際はカハマルカの戦いでピサロによってアタワルパが捕らえられて殺されてしまうんだ。カール五世の命を受けた形での征服だったんだけれど、最終的には、アタワルパをだまして殺害した(アタワルパを幽閉して黄金を身代金として要求して、結局、黄金もアタワルパの命も両取りしたんだ)罪でカール五世に死刑を宣告されたんだ。
 ちなみに、ラス・カサスはインディアス史を書き上げるために、今は完全な形では残っていないコロンブスの航海日誌を使い、要約を残したんだよ。だから。この小説でも第二部はコロンブスの航海日誌(抄録)というのが出てくるんだ。
 ピサロの遺体はミイラ(!)になってリマの聖堂に祀られているそうだ。リマにはなかなか行けないよね。そういえば、友人の編集者は昔、ブラジルに行く途中でリマの空港で給油のために時間を過ごしたことがあるんだって。どうでもいい情報だけど」

(カハマルカの戦いを描いた絵画2点)


J=J・N「カール五世の絵だけど、本当はこの絵は全身像で愛犬と一緒にいる肖像画なんだ。この犬は『文明交錯』にも出てくるんだよ。実際の絵はこれ」



J=J・N「ちなみにすべてが逆転している本書ではヴェネツィアから呼ばれたティツィアーノがアタワルパの肖像を描くというエピソードがちゃんとあるんだよ、くらりくん」
くらり「しぶいニャ」
J=J・N 「カール五世って顎で有名なんだよ。ハプスブルグ家の人の顎って特徴的で有名らしいんだ。 それはそれとして、この犬を連れた肖像画はまったく同じ構図でティツィアーノのこの絵と、もう一点、ヤーコプ・ザイゼンエッガーによるものがあるんだ。まったく同じ構図なんだ。ほらね……」


くらり「ほんとだニャ」
J=J・N「実は最初に描いたのはザイゼンエッガーだったんだ(1532年)、でもどうやらカール五世、これがあまりお気に召さなかったらしく、たまたまボローニャだったかどこかで、ティツィアーノに会ってこれを描きなおしてもらったらしいんだよ(1533年)。バランスよくなっているよね。かっこよくなったというか……」
くらり「昔から〈盛る〉ってあったんだニャ」

J=J・N「とにかく歴史をひっくり返した話だからね。この小説ではアタワルパはカール五世の妹を第三夫人にしてしまうんだ。その結婚式を挙げたのはベルギーのブリュッセルにあるサン・ミッシェル大聖堂。このステンドグラスが素晴らしく美しいカテドラルは、実際にはカール五世の戴冠式が執り行なわれたところ。歴代王家の結婚式もここで執り行なわれるんだ。この作品中でもステンドグラスについて言及があるよ」
くらり「ふーーん」

[J=J・Nとくらりの夢]
J=J・N「第四部でモンテーニュの図書室でセルバンテスとエル・グレコが暮らすところも好きなんだ。留守だったモンテーニュが帰ってきてエル・グレコと議論するんだけれど、ロゴス・クラブをちょっと思い出したりして……。ネット上でモンテーニュの城館とか、モンテーニュの図書室、読書室とか検索すると、第四部の6章にも言及されている梁(はり)にラテン語やギリシア語が書かれているところなども見られるよ」
くらり「わー、検索してみるニャ。インカの遺跡とか、モンテーニュのミシェル城館とか、一緒に行ってみたいニャ」
J=J・N「そうだね。コロナも落ち着いてきたし、そのうちに本当に行こうね、くらりくん」
くらり「うん。約束だニャ」
J=J・N「それとね、今度ピーター・シェーファーの『ピサロ』っていうお芝居がかかったら観に行こうね。30年以上前に山崎努さんがピサロ役、渡辺謙さんがアタワルパ役で上演されたんだけど、一昨年だったかな、今度は渡辺謙さんがピサロ、宮沢氷魚さんがアタワルパで上演されたんだって。僕は気がつかなかったんだ。残念なことをしたよ。もしかしたら、この本を読んだ人が逆に、この『ピサロ』を観たいって思うかもしれないね。再演を希望するな……」
くらり「わあ~、くらりも観たいニャ」

 こうして二人は、仲良く『文明交錯』を読み始めたのでした。

*歴史もの感が横溢する、インカ模様に彩られた装丁は、柳川貴代さんによるものです。

文明交錯 (海外文学セレクション)
ローラン・ビネ
東京創元社
2023-03-30


言語の七番目の機能 (海外文学セレクション)
ローラン・ビネ
東京創元社
2020-09-23


HHhH (プラハ、1942年)
ローラン・ビネ
東京創元社
2014-08-11