マイクル・Z・リューインの『祖父の祈り』(田口俊樹訳 ハヤカワ・ミステリ 二〇〇〇円+税)は、世界が新型コロナを経験した後、二〇二二年に発表した一冊。

 食料雑貨店の前で腕を組み、寒そうに震えている老人。夜の九時十五分。若い男が近付いては去り、ふたりの少女が通り過ぎる。そんな時間がしばらく流れた後のこと、革ジャケットの男がやってきた。三十代くらいか。店に入ろうとする男に、老人は声を掛ける。ビールを買ってきてくれないか、と。

 本書第一章はこうして始まるのだが、第一章だけで、まあなんとも見事な短篇ミステリになっている。驚かされた。と同時に第一章は、この小説の舞台となった世界への導入部の役割もきちんと果たしている。老人がビールを買ってきてくれと頼むのは、マスクを忘れたからなのだ。マスクがないと店に入れない世界――新型コロナウイルスらしき感染症によって荒廃し、治安は悪化し、物資も乏(とぼ)しくなった世界――で、老人は生きているのである。娘と、その子供である少年と三人で。

 本書は、そんな三人が、犯罪や権力の横暴のなか、この世界で必死に生き抜いていく姿を描いている。特筆すべきは、中心人物たちの固有名詞が語られない点である。老人、娘、少年。社会機能が相当に低下したこの世界において、家族だけで生きていく姿を描くには、それで十分なのだ。とはいえ、三人の生活には変化もある。表紙で明らかなように、一匹の犬と一人の少女が彼等の生活に加わる。通常ならば、仲間が増えるのは嬉しいことなのだが、本書の世界では、それは同時にリスクが増大することを意味する。喜びと恐怖が表裏一体であるというこの世界に生きる難しさを、大ベテランの筆は読者に体感させるのである。この四人と一匹に感情移入すればするほど、それを強く感じるのだ(感情移入は不可避だ)。そして結末が印象深い。あの結末を希望と読むか絶望と読むか。リューインはどちらとも明示はしていない。老人の目から見える未来と、少年の目から見える未来は、おそらく違うのだろう。筆者は老人の目で読んでしまったのだが、是非御自身の目で確かめていただきたい。

 最後はジョゼフ・ガーバー『垂直の戦場【完全版】』(上・下 東江一紀訳 扶桑社ミステリー 各九〇〇円+税)を。

 四十七歳になるエリートビジネスマンのデイヴは、マンハッタンの五十階建てのビルにいつものように出勤したところ、CEOに銃を向けられた。撃たれる理由は皆目(かいもく)見当が付かない。そのピンチはなんとか逃れたものの、また別のかたちで命を狙われることに……。

 デイヴが高層ビルを舞台に敵から逃れ、窮地に陥った理由を探る小説である。知人に友人、さらには家族までもが敵に回り、さらにプロと思わしき数十人の戦力までもがデイヴの命を奪うために投入される。絶対的に不利な状況下、かつてグリーンベレーの一員としてベトナムで闘った経験がデイヴのなかで蘇(よみがえ)り、様々な企業が入った高層ビルという場の特性を徹底的に活かして反撃に出る。この闘いが双方共に知恵を絞っていてスリリングなこと極まりないし、仕掛けのバリエーションの豊かさでも愉しませてくれる。スピーディーな展開も古さを感じさせない。しかも闘いのなかに新たな出会いがあるなど、物語は単調さとは無縁だ。殺すことへの葛藤を掘り下げていて深みもあるし、〝ベトナムでなにが起きたのか〞という謎も読み手の関心を搔き立ててくれる。満足必至のサスペンス長篇だ。

 ちなみに本書は一九九五年の作品で、九六年に一度邦訳が出ている。今回の文庫版との差異は、最後の四頁(ページ)の文書の有無だ。その四頁は、原書の見本刷りにはあったものの、刊行時には削られ、結果として邦訳にも含まれなかった。その後、原書で復活したため、今回、熊谷千寿によって訳出され、本書の末尾に置かれ、はれて【完全版】となったのである。この文書があるとないとでは読後の印象が全く異なるので、既読の方も是非、【完全版】で再読を。


■村上貴史(むらかみ・たかし)
書評家。1964年東京都生まれ。慶應義塾大学卒。文庫解説ほか、雑誌インタビューや書評などを担当。〈ミステリマガジン〉に作家インタヴュー「迷宮解体新書」を連載中。著書に『ミステリアス・ジャム・セッション 人気作家30人インタヴュー』、共著に『ミステリ・ベスト201』『日本ミステリー辞典』他。編著に『名探偵ベスト101』『刑事という生き方 警察小説アンソロジー』『葛藤する刑事たち 警察小説アンソロジー』がある。

紙魚の手帖Vol.07
櫻田 智也,ほか
東京創元社
2022-10-11