綾崎隼(あやさき・しゅん)『ぼくらに噓がひとつだけ』(文藝春秋 一六〇〇円+税)は、将棋を題材に、才能とは遺伝子が決めるのか、それとも環境が決めるのかに迫る、ミステリの手法を効果的に用いた長編作品。

 将棋の才を持ったタイプの異なるふたりの少年――長瀬京介(ながせ・きょうすけ)と朝比奈千明(あさひな・ちあき)。ふたりとも元女流棋士の母を持ち、さらに京介に至っては祖父も父も棋士というエリートだ。ところが、お互い奨励会で鎬(しのぎ)を削るなかで、ある疑念が持ち上がる。同じ病院で一日違いで生まれたふたりは、ある思惑のもとに取り替えられたのではないか……。

 第一部では京介と千明の親たちの若かりし頃の苦い青春と将棋界の様子が描かれ、第二部では持ち上がった疑念を発端に戸惑いながら変化していく家族模様が映し出されていく。勝負の世界の厳しさと、どんなに焦(こ)がれても得られない才能がある残酷な現実を明示するいっぽうで、将棋という知的遊戯を通じたひととひとの結びつき、対局することで心を交わす穏やかな時間などが描かれ、将棋に興味のない向きでも惹き込まれること請け合いの、じつに奥の深い物語になっている。

 ミステリとしての白眉(はくび)は、仕掛けの使い方の妙に尽きる。いったいなにが起きているのかと戸惑いを覚えていると、胸に迫る真相が目の前に広がり、猛烈に目頭が熱くなってしまった。仕掛けでドラマをより輝かせようと試みる作品はいくつもあるが、なかでも本作は見事な成功例といえる。

 市川憂人(いちかわ・ゆうと)『灰かぶりの夕海(ゆうみ)』(中央公論新社 一八〇〇円+税)は、序盤から強烈な謎に惹きつけられる長編作品。

 宅配会社に勤める波多野千真(はたの・かずま)は、配達用のビジネスバイクで夜間走行中、反対車線の海側の端に髪の長いワンピース姿の女性が倒れているのを発見する。屈み込んで「大丈夫か」と声を掛けた千真は愕然(がくぜん)とする。喪(うしな)った恋人と瓜ふたつの容姿、さらに彼女は名前まで恋人と同じ「夕海」を名乗り、出身地も同じ御殿場(ごてんば)だという。彼女は何者なのか。

 こうして思わぬ形で、亡き恋人とそっくりの「夕海」とのふたり暮らしが始まり、夕海もまた千真と同じ職場で働くことに。ある日、かつての恩師である金森(かなもり)の家に配達に向かうと、密室状態の居間で血を流して倒れている女性の遺体が。千真は仏壇に飾られた写真を見て驚愕(きょうがく)する。遺体の容姿は、一年前に死んだはずの金森の妻とまたも瓜ふたつだった。夕海に続き、金森の妻まで。いったいなにが起こっているのか……?

 夕海に出会ったことで揺れ動く千真の心、「インタールード」で描かれる断片によって深まる謎、失踪した金森の行方、千真が導き出した殺人事件の真相。息を吞みながら読み進めていくと、ある箇所で、それまで伏せられていた物語の舞台背景が明かされ、まじまじとタイトルを見返してしまった。これを踏まえて続く解決編もさることながら、千真が述懐(じゅっかい)する〝あまりにも単純な種明かし〞が胸を打つ。灰色の世界を温かな涙で洗い流すようなラストシーンが忘れがたい。


■宇田川拓也(うだがわ・たくや)
書店員。1975年千葉県生まれ。ときわ書房本店勤務。文芸書、文庫、ノベルス担当。本の雑誌「ミステリー春夏冬中」ほか、書評や文庫解説を執筆。