すでに大変な評判となっている小川哲(おがわ・さとし)『地図と拳』(集英社 二二〇〇円+税)。激動の時代の満洲(まんしゅう)に作られた都市を主な舞台とした、大きな物語だ。

 日露戦争前夜の一八九九年、軍人の高木(たかぎ)は中国東北部の情報を集めるため、茶商人に化けて船でアムール川をさかのぼりハルビンに到着する。同行するのはまだ若い通訳の細川(ほそかわ)だけだ。そこで彼らは、李家鎮(リージャジェン)という町からきた男から土にまつわる奇妙な話を聞く。一方、その李家鎮では一人の男が権力を振るっていて……。

 李家鎮という都市が迎える策略と暴力の時代を描く本作。テンポよくさまざまな立場の視点に切り替わり、多方面から満洲の歴史が立体的に浮かび上がる。作中に名前は出てこなくても「これは本多維富(ほんだ・これとみ)のことだな」などと思える部分も随所にあり、かなり史実をベースにしていると分かるのだが、そのフィクションへの昇華のさせ方が素晴らしい。特に、日本は戦争に勝てないと察し、裏であれこれ画策する人物や、実在しない島が書き込まれた地図の謎を探る人物に魅了された。

 敵地を攻略するために作られる地図、都市の建設をはじめさまざまな意味を持つ建築、そして拳=暴力=戦争。人間がどのようにそれらを愚かしく利用していくかを、架空の都市の変遷(へんせん)のなかに描き切った大作。

 大きな物語といえば、荻堂顕(おぎどう・あきら)『ループ・オブ・ザ・コード』(新潮社 一九〇〇円+税)にも圧倒された。

 疫病禍(えきびょうか)を経た近未来。とある国の軍幹部がクーデターを起こし、少数民族のみを殺す生物兵器を使用したため、その国は国連からまるごと〈抹消〉された。歴史も言語も文化も奪われ、〈イグノラビムス〉という国名を与えられ、首都もニューヨークそっくりにつくりかえられたのだ。この〈イグノラビムス〉で二百名以上の児童が謎の病を発症。世界生存機関〈WEO〉に所属するアルフォンソは調査のために現地に赴(おもむ)き、調査を開始する。と同時に彼はWEO事務局長から異なる任務を与えられる。生物兵器の生みの親の博士が何者かに拉致(らち)され兵器も盗まれたため、極秘裏に犯人の正体を探れ、というものだ。

 とにかく世界観の作り込み方が緻密。国が〈抹消〉され民族的なアイデンティティが奪われた時、国や人々はどのように変貌を遂げるのか。その大きなテーマに、アルフォンソ自身の生き方が重なってきて読ませる。彼は故郷を捨てて根無し草のように生きてきた男だ。同性の恋人から生殖補助医療を利用して子どもを持ちたいとほのめかされるが、アルフォンソはそれを受け入れられない。彼にとって、この世界に生まれてくることは悲劇なのだ。反出生主義や優生思想、歴史や民族と個人といったテーマから、現代人の日常でもよく見かける家庭問題、男女格差、マイノリティへの差別と偏見といったモチーフが埋め込まれ、今の自分が抱いている不安や怒りが激しく刺激される。デビュー後第二作でこんな破壊的な作品を書きあげてしまうなんて、荻堂顕って一体何者なんだ!


■瀧井朝世(たきい・あさよ)
フリーライター。1970年東京都出身。文藝春秋BOOKS「作家の書き出し」、WEB本の雑誌「作家の読書道」ほか、作家インタビューや書評などを担当。著書に『偏愛読書トライアングル』『あの人とあの本の話』『ほんのよもやま話 作家対談集』、編纂書に『運命の恋 恋愛小説傑作アンソロジー』がある。