【はじめに】 創元SF文庫は2023年、創刊60周年を迎えます。
1963年9月に創元推理文庫SF部門として誕生し、フレドリック・ブラウン
『未来世界から来た男』に始まり、1991年に現行の名称への改称を挟んで、これまでに700冊を超える作品を世に送り出してまいりました。エドガー・ライス・バローズの
《火星シリーズ》やE・E・スミスの
《レンズマン》シリーズをはじめ、ジョン・ウィンダム、エドモンド・ハミルトン、アイザック・アシモフ、ロバート・A・ハインライン、レイ・ブラッドベリ、J・G・バラード、アン・マキャフリー、バリントン・J・ベイリー、ジェイムズ・P・ホーガン、ロイス・マクマスター・ビジョルド、そして近年にはアン・レッキーやN・K・ジェミシン、マーサ・ウェルズら新鋭のSFを刊行しています。また、2007年からは日本作家の刊行も開始し、2008年からは
《創元SF短編賞》を創設して新たな才能が輩出しています。
このたび60周年を迎えるにあたり、当〈Web東京創元社マガジン〉にて全6回の隔月連載企画『創元SF文庫総解説』として、創元SF文庫の刊行物についてその内容や読みどころ、SF的意義を作家や評論家の方々にレビューしていただきます。連載終了後には書き下ろし記事を加えて書籍化いたしますので、そちらも楽しみにお待ちくださいませ。
なお編集にあたっては、書影画像データにつきまして渡辺英樹氏に多大なご協力をいただきました。この場を借りてお礼を申し上げます。
【掲載方式について】
- 刊行年月の順に掲載します(シリーズものなどをまとめて扱う場合は一冊目の刊行年月でまとめます)。のちに新版、新訳にした作品も、掲載順と見出しタイトルは初刊時にあわせ、改題した場合は( )で追記します。
例:『子供の消えた惑星』(グレイベアド 子供のいない惑星)
また訳者が変わったものも追記します。 - 掲載する書影および書誌データは原則として初刊時のもののみとし、上下巻は上巻のみ、シリーズもの・短編集をまとめたものは最初の一冊のみとします。
- シリーズものはシリーズタイトルの原題(シリーズタイトルがない場合は、第一作の原題)を付しました。
- 初刊時にSF分類だった作品で、現在までにFに移したものは外しています。書籍化する際に、別途ページをもうけて説明します。
例:『クルンバーの謎』、『吸血鬼ドラキュラ』、《ルーンの杖秘録》など - 初刊時にF分類だったもので現在SFに入っている作品(ヴェルヌ『海底二万里』ほか全点、『メトロポリス』)は、Fでの初刊年月で掲載しています。

1977年4月
ジュール・ヴェルヌ『海底二万里』Vingt mille lieues sous les mers, 1869, 1870
荒川浩充訳 解説:訳者
カバー、挿絵:南村喬之
ヴェルヌは第一長編『気球に乗って五週間』(一八六三)によって一躍人気作家となり、《驚異の旅》と銘打った空想冒険小説を矢継ぎばやに発表。本書はその白眉にして、ヴェルヌの博識と想像力が遺憾なく発揮された海洋SFの傑作である。
物語のはじまりは一八六六年。海難事故が相次ぎ、その原因はクジラよりも巨大で泳ぎが速い怪物だと伝えられた。パリ科学博物館のアロナックス教授、その召使いのコンセイユ、銛打ち名人のネッドらがフリゲート艦で調査に出かけるが、怪物に返り討ちにあってしまう。怪物の正体は潜水艦〈ノーチラス〉号であり、それを率いているのは謎めいたネモ船長だった。教授たちは「二度と陸上には戻らない」と約束し、〈ノーチラス〉号に乗船。やがて日本近海から世界一周の海底旅行がはじまる。
ネモ船長は『神秘の島』(一八七五)にも登場。ヴェルヌ作品キャラクターのなかでも、もっとも有名なひとりである。
本作品は明治期から邦訳され、現行書も複数ある。また、メリエス監督作(一九〇七)以来、何度も映画化されており、とくにディズニー『海底二万哩』(一九五四)が有名。アニメ『ふしぎの海のナディア』(一九九〇)は、本作に設定を借りた作品。(牧眞司)

1977年7月
A・E・ヴァン・ヴォークト『未来世界の子供たち』Children of Tomorrow, 1970
岡部宏之訳 解説:訳者
カバー:小悪征夫
宇宙艦隊司令官ジョン・レインが十年の勤務を経て宇宙港に帰還すると、そこは子供を育てる権利が親から取り上げられ、子供たち自身の作る自治少年団に委ねられる奇妙な社会だった。しかしその自治少年団には、地球人の少年に成りすました宇宙人が隠れ、侵略の機会をうかがっていた……。
『終点:大宇宙!』収録の「音」を思わせるスリリングなシチュエーションだが、従来の作品群と趣は異なる。これまでのヴァン・ヴォークト作品では、数奇な運命に翻弄される主人公を、圧倒的な存在が必ず陰で支えていた。しかしこの作品に登場するのは、そんな庇護者とは程遠い情けない親たちばかり、先の読めない展開にハラハラさせられる。ヴァン・ヴォークト上級者向き。
ヴァン・ヴォークトは一九六二年に執筆したThe Violent Manで、中国共産主義を研究したというが、一九七〇年発表のこの作品にもその影響は表れている。些細なことですぐ自己批判を求め人民裁判を開きたがる作中の自治少年団に対して、読者が感じるだろう殆(あやう)さは、作為的に描かれている。文化大革命がどんな結末を迎えたか、ヴァン・ヴォークトも我々も知っている。だが、彼には別の可能性も見えていたようなのだ。(理山貞二)

1977年10月
ロバート・シルヴァーバーグ
『一人の中の二人』The Second Trip, 1972
中村保男訳 解説:訳者
カバー:真鍋博
ナサニエル・ハムリンは天才的な彫刻家だが、連続強姦魔で狂人である。逮捕されて、人間改造センターによって存在を抹消され、その肉体はポール・メーシーという架空の人格を付与された。メーシーの経歴は生まれてから今にいたるまで細部にわたってセンターが創作したものである。しかし、すっかり消去したはずのハムリンの人格はメーシーの身体のなかに潜んでおり、肉体の主導権を取り戻そうとしてメーシーに襲い掛かる。ニュー・シルヴァーバーグ特有の「ひりひりする」感じが冒頭から爆発する。「ゆっくり読み進める」暇を与えないこの嫌な展開の連打。全編エログロに満ち、饒舌な心理描写が読者を揺さぶる。ハードボイルド的な短いセンテンスの積み重ねが迫力満点で、全体に思弁的といっていい書きっぷりはニューウェイヴ的でもある。しかも、つらくてきつい展開の果てには一種の叙情があり、ある種の突き放したような感動が待っている。タイトルがすべてを物語っているような「よくある」ネタだと思うかもしれないが、ここまで徹底してくれたら痛快である。こういう話の場合、主人公はもとの人格ということが多いと思うが、本作における主人公は、新しく人工的にでっちあげられた人格の方である、というところが「さすが」なのだ。(田中啓文)

1977年11月~
E・R・バローズ
『石器時代から来た男』『石器時代へ行った男』The Eternal Lover
厚木淳訳 解説:訳者
カバー、口絵、挿絵:武部本一郎
邦題がよく似ていることから、一見二部作のように見えるが、実際にはこの二作には何の関連性もない。ただし、そのテーマは共通している。バローズお得意の「文明対野生」というものだ。
『石器時代から来た男』では、現代に現れてしまった石器時代の男性と現代人の女性の恋愛が、『石器時代へ行った男』では、外界と孤絶して石器時代そのままの生活をしている部族の女性と、遭難してその地にたどり着いた現代人の男性との恋愛が描かれていて、その対称性から、二部作めいた邦題がつけられていることは想像に難くない。いずれの作品においても、大自然の中、文明の装いを取り払われた男女がたくましく生きようと冒険を繰り広げる姿に主眼がおかれており、バローズ最大のヒットシリーズである《ターザン》の変奏曲であることも容易に見て取れる。
ちなみに、《ターザン》の変奏曲と言えば、『石器時代から来た男』にはターザン本人もグレイストーク卿という本名で脇役として登場する。またヒロインは『ルータ王国の危機』の主人公の妹という設定で、バローズの小説群のほとんどは、《ターザン》シリーズを核として地続きの世界であることが暗示されている。(堺三保)

1978年2月
ジュール・ヴェルヌ『動く人工島』L'île à hélice, 1895
三輪秀彦訳 解説:訳者
カバー、挿絵:南村喬之
アメリカで演奏旅行を続けるフランスの弦楽四重奏楽団が、ひょんなことから科学の粋を集めて建造された動く人工島へと招待される。南太平洋を周遊する人工の楽園が、自然の猛威と海賊の攻撃といった外敵と、内からの政治的な対立によって翻弄される様が、旅人である楽団員たちのコミカルな視点から語られる。ホテルにはエレベーターがあり、手を近づければ照明がつき、電信、電話、電送写真、都市交通とあらゆるものが電気で制御されており、十九世紀に描かれた都市風景が、今も自然であることに驚かされる。
港湾都市ナントの中洲の島で生まれ育ったヴェルヌは、少年時代、家ごと島が大洋へと漂流する姿を夢見ていた。少年の想像力の翼は、十九世紀の科学技術の進歩という動力を得て大きく羽ばたき、《驚異の旅》シリーズへと結実する。タイトルの通り、ヴェルヌの小説には実に様々な乗り物が登場する。蒸気機関車、気球、ロケット、蒸気船、潜水艦などだが、移動するための手段であると同時に、生活の場を兼ねているのは、少年時代の夢の所以かもしれない。作家として成功をおさめた彼は、六十歳で政治の世界に足を踏み入れ、七十七歳で没する前年までアミアン市の市議を務めた。洋上を移動する都市の可能性、運営思想とその崩壊を描いた本書は、著者の人生の集大成とも言える作品である。(三村美衣)

1978年3月~
ラリー・ニーヴン&ジェリー・パーネル『神の目の小さな塵』上下 『神の目の凱歌』上下 The Mote in God's Eye
池央耿、ほか訳 解説:浅倉久志、ほか
カバー:スタジオぬえ 加藤直之
『神の目の小さな塵』は、一九七四年に出たラリー・ニーヴンとジェリー・パ―ネルによる最初の合作長編である。二人の作家が合作するという例は、SFやミステリ界ではさほど珍しくないように思えるが、成功するケースは意外に少ないようだ。役割分担が難しいのである。たとえば、クラークが原案を出しバクスターが実作を担うなど、主従関係が明確ならもめ事も(たぶん)生じない。ところが、対等な作家同士では意見の対立が決裂に繋がってしまう。その点このコンビでは、ハードSF部分をニーヴン、キャラと社会の設定部分をパーネルが受け持った。ちょうど巧く長所短所が補えたわけである。
三十一世紀、人類は未知の光子帆船に乗った異星人と遭遇する。ファースト・コンタクトを果たしたのだ。しかし奇怪な姿の異星人は既に死んでいた。やがて、彼らの出発地(植民星の住人が神の目と名付けた星)が明らかになり、遠征部隊が派遣される。そこは人類よりも遥かに古くから文明を持ち、生物的にも高度に進化・最適化されたモート人の世界だった。
この時代の人類はアメリカとロシアを系譜に戴く、大英帝国似の国家によって統一支配されている。恒星間は一種のワームホールで結ばれるが、モート人の星系は出入口が恒星の中にあるため閉ざされていたのだ。一見平和に見えたモート社会には、実は(人類帝国にとって)恐ろしい秘密があり、それが暴かれた結果、扉は再び閉じられることになる。
これに続く『神の目の凱歌』が書かれたのは一九九三年、およそ二〇年後のこと。ヒューゴー賞最終候補止まりながら売れ行き好調の正編に対し、続編が大きく遅れたのにはパーネル側の事情(遅筆で多忙)もあったらしい。合作の宿命で、両者のタイミングが合わなければどうしようもないのだ。
物語も二〇年後に飛ぶ。封鎖されたはずの出入口が移動(星間物質の濃厚な宇宙空間で原始星が生まれ、重力分布に変化が生じる)、そこからモート人の宇宙船が抜け出てくる。再封鎖か、それとも人類が開発した切り札を使って彼らを制御するか。駆け引きを巡り、史上空前の宇宙戦争が勃発する。
本書の設定には、宇宙に帝国主義が復活するという、パーネルの未来史「コドミニアム(国家連合)・ユニバース」が使われている。アナクロすぎると当時物議を醸したが、ミリタリSF的に扱いやすいからだろう。ただ、一九七四年時点でソビエト崩壊とロシア復活を予言し、宇宙に白人主導の銀河帝国が成立する未来史には、(昨今の社会情勢もあって)荒唐無稽と思えない不気味なリアリティを感じる。しかも、今読むとモート人の扱いに(アジアの黄色人種排斥を唱える)黄禍論の影が色濃く見えてきて、ちょっと怖い。(岡本俊弥)

1978年4月
クリストファー・プリースト『スペース・マシン』The Space Machine, 1976
中村保男訳 解説:訳者
カバー:スタジオぬえ 加藤直之
一九七六年、当時イギリスの新鋭であったプリーストが出世作『逆転世界』の後に刊行した、肩の凝らない冒険もの。題名から連想されるように、ウェルズ『タイム・マシン』へのオマージュであると同時に、『宇宙戦争』『透明人間』などウェルズ諸作の要素をも巧みに取り入れ、ウェルズという作家全体へのオマージュにもなっている。
一八九三年、外交員エドワードは、科学者の女性秘書アメリアと知り合いになった。その科学者の家を訪ね、タイム・マシンを見せられたエドワードは、アメリアとともにマシンに乗り込み、時間旅行の旅に出る。十年後に到着すると、そこは戦闘の真っ最中。瀕死状態のアメリア(十年後)を見て動揺したエドワードは、マシンを誤作動させてしまい、何と火星に辿り着く。タイム・マシンは、実は「スペース・マシン」でもあったのだ! ここから二人のロマンスを絡めた冒険行が始まり、五百ページを超える長丁場を一気に読ませていく。物語の終盤、御大ウェルズが登場し、重要な役割を果たすあたりには、作者のウェルズへの深い敬愛が感じられた。後に「語りの魔術師」として知られることになる作者には珍しい、ストレートな冒険ものとして記憶すべき貴重な作品であろう。(渡辺英樹)

1978年5月
ラリー・ニーヴン&ジェリー・パーネル『インフェルノ SF地獄篇』Inferno, 1976
小隅黎訳 解説:訳者
カバー:スタジオぬえ 加藤直之
主人公のアレンはSF大会で酔っ払ってホテルの八階から転落した。目覚めるとそこは文字どおりの地獄であり、ウェルギリウスならぬベニトと名乗る男に案内されて地獄をめぐる旅に出るのだった。しかし彼は自分が死んだことを認めず、遥か未来の医学によってよみがえり、眠っているあいだに進歩した科学技術によって生み出された「インフェルノランド」にいると信じて疑わないのだった。当時、ラリー・ニーヴンとジェリー・パーネルの合作と聞いて、だれもが壮大なハードSFを予想したのだが、できあがったのはSF趣味満開の異世界転生ファンタジーで、しかもその舞台は十四世紀のイタリアの詩人ダンテの叙事詩『神曲』の第一部「地獄篇」だった。しかしさすがはSFの名手、ほどよくユーモアとSF風味を織り交ぜながら、一歩誤ると陰鬱になりがちな地獄めぐりを楽しそうに描いていく。そしてベニトの意外な正体が明らかになったとき、深い感動をおぼえることになる。考えてみると、ダンテの『神曲』は当時の最先端の宇宙観で描かれており、とりわけ地獄の最下層にはブラックホールを思わせる描写もあるので、じつは意外とSFとの相性はいいのかもしれない。なお、ダンテの原典を読んでおくと二倍楽しめます。(増田まもる)

1978年6月
O・A・クライン
『火星の黄金仮面』The Outlaws of Mars, 1933
井上一夫訳 解説:訳者
カバー、口絵、挿絵:武部本一郎
一九三三年に〈アーゴシー〉誌に連載された火星を舞台にした冒険SFである。地球人が火星へ行って怪物たちと戦い美女を救うといえばバローズの《火星シリーズ》が頭に浮かぶが、本書も『火星の透明人間』と同じ頃に発表された作品である。バローズと同じように《金星シリーズ》も書いたりしていて、当時はそれなりの人気を博していたようだ。
何もかも失った失意の青年モーガンが怪しい科学者の叔父のタイムマシンで数百万年前の火星へと飛ぶ。白色人種と茶色人種が争う火星世界では、宮廷で陰謀が渦巻き、怪鳥に乗った兵士たちが空を飛び、そこで王女に恋をしたり、策略に陥れられたり、黄金仮面拷問王の軍勢との大戦争が始まったり……どこかで読んだことがあるような恋と冒険の物語である。今さらこんなものを読んでも面白くないかというとそうでもなく、本書を手に取る機会があったら武部本一郎のカバー絵や挿絵とともにしみじみと懐かしい気持ちを慈しんでほしい。
さすがに刊行当時でもすでに古びていたせいか、クラインの訳書も似たような路線の作品も、残念ながらそのあとは一冊も出ることはなかった。なお本書は一九六七年に久保書店から『火星の無法者』として刊行されていた。(中野善夫)

1978年6月
ロバート・シルヴァーバーグ『不老不死プロジェクト』Shadrach ㏌ the Furnace, 1976
岡部宏之訳 解説:訳者
カバー:真鍋博
ウイルス戦争による臓器腐敗病の蔓延する荒廃した世界は、革命委員会議長ジンギス二世マオ四世カンの支配下にあり、九十歳を超えたカンの身体に埋め込まれたインプラントを通して健康状態を管理する侍医シャデラックは、来るべきカンの死後、その精神を自分の肉体に移植する計画が進められていることを知る。逃亡を勧める友人を冷静に退け、シャデラックはカンの内面を知るため想像による独裁者の偽日記を書き始める。
詳細で過剰な医学的言説による思弁と濃厚な官能描写のエロスで、肉体に歪な存在感をもたらすマニエリスティックな小説技法が圧倒的な長編小説。原題はダニエル書からの引用で、王に逆らって炉で焼かれても神を信じるものは炎の中で自由である、というもの。宗教的寓意を背景に、疫病と貧困に溢れた世界の中心で権力に傅きながら、みずからの消滅を前にして独裁者の内面を想像する偽日記を〈書く〉ことで、自己と他者の境界が曖昧になり、事態を打破する勇気と希望を得る。文学的冒険の喜びと意義を物語の中に溶け込ませた、ニュー・シルヴァーバーグの一つの到達点を示した作品で、ヒューゴー、ネビュラ両賞の候補作にも選出された。(渡邊利道)

1978年8月~
E・R・バローズ『月のプリンセス』『月からの侵略』The Moon Sequence
厚木淳訳 解説:訳者
カバー、口絵、挿絵:武部本一郎
バローズの《月シリーズ》は、彼の作品の中でもとびっきりの異色作である。「月のプリンセス」「月からの侵略」「レッド・ホーク」の三部から構成されており、ジュリアン家の男性を中心にした未来史ものになっている。
しかも、風変わりなのが、三つの物語で主人公を務めるジュリアン五世、九世、二十世と、語り手の三世が、すべて一人の男の転生の姿に他ならない。そのため、三世は、未来の記憶も過去の記憶も持っている。
「月のプリンセス」は、バローズの《火星シリーズ》のような異世界冒険もので、舞台を月に移しただけの話(だから、抜群の面白さだ)。
「月からの侵略」は、一変して未来社会での悲惨な闘争劇が繰り広げられる。月人が地球を征服して、地球人を奴隷化するのだ。「レッド・ホーク」は、文明をほとんど失った地球人のレジスタンス活動の子細だが、それが、アメリカの西部劇のような調子で描かれている。
二部と三部は、当時のアメリカ人が怖れていた共産主義が、自国を支配したらどうなるかという、ディストピアSFでもあった。(二階堂黎人)

1978年11月
E・F・ラッセル
『パニック・ボタン』日本オリジナル編集
峰岸久訳 解説:訳者
カバー:スタジオぬえ 加藤直之
エリック・F・ラッセルは、英国人でありながら、アメリカパルプSFの需要に合わせた軽妙な作品を量産する職人だった。
賢い地球人に一杯食わされる宇宙人たちを描いたユーモアSFを得意としたが、微妙に人間臭い宇宙人たちは、現在の読者には、民話のタヌキやキツネと同じに見えるだろう。ほぼ忘れられてしまったのも、無理はない。
ただ本書では、型にはまった作風から一歩踏み出そうとしていた跡が感じられ、興味深い。表題作は実にシャレたオチが鮮やかに決まるが、これはむしろ旧ラッセルの洗練型というべきもの。これに対して「時を持たぬ者」では、パルプ的な怪物宇宙人たちが、不条理な運命に苦悩する。ある意味P・K・ディック的な世界を予見した野心作だ。
老いの無常を描いた冒頭の「追伸」は、ラッセルとしては異色の、実に英国SFらしい渋い逸品。しかもここには、現代SFに近い価値観の転換も用意されている。
そして末尾の中編「根気仕事」は、なんと倒叙ミステリ。誰にでも化けられる万能宇宙人が本当に地球で犯罪を実行したら、警察はどのようにして真相にたどり着くのか。驚きのSF版87分署である。(高槻真樹)

1978年12月
E・R・バローズ『モンスター13号』The Monster Men, 1929
厚木淳訳 解説:訳者
カバー、口絵、挿絵:武部本一郎
【再録】『火星の古代帝国』2002年刊
南海の孤島で人造人間を作る研究に没頭する科学者とその娘。そこへ迫り来る凶悪な現地人たち。誘拐された娘を救うべく、十三番目に作られた人造人間「13号」が大冒険に乗り出す……。
バローズは先人の名作の肝のアイデアを取り込んで、自分流の勧善懲悪大冒険活劇に換骨奪胎することが多い作家だった。例えば『ターザン』はキップリングの『ジャングル・ブック』、『ルータ王国の危機』はホープの『ゼンダ城の虜』を下敷きとして本歌取りしている。そして本作はと言うと、ウェルズの『モロー博士の島』から着想を得ていることは容易に想像がつく。
もちろんそこはバローズのこと、ウェルズがテーマとしていた知性や人間性についての問題意識はそこそこに、危機に陥ったヒロインを助けるため、ジャングルの奥地に分け入っていく13号の活躍がメインの冒険譚となっているところがミソとなっている。
さらに言えば、結末で明かされるサプライズでは、本作のSF性が大幅に後退、実は『ターザン』の変奏曲であることが明かされてしまうあたり、良くも悪くもバローズらしさに溢れた作品と言っていいだろう。(堺三保)

1979年3月~
オドエフスキーほか
『ロシア・ソビエトSF傑作集』上下 『東欧SF傑作集』上下 日本オリジナル編集
深見弾訳 解説:訳者
カバー:スタジオぬえ 加藤直之
ここで紹介する『ロシア・ソビエトSF傑作集』上下と『東欧SF傑作集』上下は、かつて東側と呼ばれた厳しい体制下での検閲を通った作品集であり、品行方正な科学的啓蒙小説に限定されていて、本当に冒険的・先鋭的な作品はあまり見受けられない。
その頃のソ連や「東欧」という地域でどれだけ凄い作品が書かれていたのかを知るのは、冷戦が終了するまで待たなければならなかった。だが、そんな時代に仮にアンソロジーだとしても作品に触れられるというだけで大きな事件だったのである。
そもそも、冷戦当時は東側の言語や文化などを愛好しているというだけで眉をひそめる方々が存在していたので、積極的に交流を持とうとした袋一平や深見弾という存在がどれだけの勇気と愛情を持っていたのがわかる。原書の誤植に気が付きながらもそのまま表記するしかなかったとか、イニシャルで書かれていてフルネームを知ろうとしても不可能だったので表記が正確でない 、詳しい内容を著者本人に問い合わせることも不可能だった。そんな弱点をあわせのんだ結果がこの四冊なのである。
ただ、この四冊は作品ではなく「解説」のほうが重要資料として参照されるべきだとも考える。それぞれの作品が書かれた背景や歴史などを記した資料としてはたいへんに貴重なものである。評者も後に原文にあたり、より正確な史実を知ることができたのはインターネット時代になってからのことである。一度、この四冊が復刊された際、深見弾氏が死去した後だったので評者が作者のフルネームや解説にあった発表年の矛盾などもすべて正確に訂正することができたのだが、それまでは手の出しようがなかったのだ。
その後、ミハイル・ゴルバチョフによって行われたグラスノスチによってソ連でも国際的なSF大会が開催されるようになった。その初めての試みであった「ヴォルガコン」(一九九一年)に評者は参加したのだが、そこで仕入れた情報や書籍によって、それまでは「不明」としか言えなかった項目がわかるようになってきた。
現在、日本SF作家クラブの公認Webマガジン〈SF Prologue Wave〉(prologuewave.club)において、かつて存在した〈SF宝石〉誌における深見弾氏の連載の再録を行っており、掲載にあたってはすべてファクトチェックを行い、付加すべき事項を足している。だが現在と違って連絡は郵便で行うのか、直接会いにいくのかのどちらかしか手段が存在しなかった時代にここまでの作業が行われたことには驚嘆するしかない。(大野典宏)

1979年3月~
フランク・ハーバート
《ジャンプドア》Jorj McKie
岡部宏之訳 解説:安田均、ほか
カバー:スタジオぬえ 加藤直之
銀河系内を瞬時に移動できる〈ジャンプドア〉。銀河系知的生物連合は謎の知性体カレバンから提供されたこの技術に九十標準年間依存してきた。しかしわずか八十三体しか確認できていないこのカレバンが次々と姿を消し、それに伴いいくつもの、死者と発狂者の大波が銀河系を襲った。
その調査を主管してきたサボタージュ局(システムが円滑過剰に稼働することで文化や社会的基盤を破壊することを阻止するための連合の公的強権的機関)の特命工作員ジョージ・Ⅹ・マッキーの元に一体のカレバン発見の報が届けられる。
カレバンとの困難な意思疎通を成し遂げたマッキーは驚愕の事実を知る。現在、銀河系で同一平面に存在するカレバンは彼女一体であり、ジャンプドアを利用したすべての知性体と「コネクティブズ」されている。彼女は犯罪性癖のある大富豪アプネーゼと契約しており、その性癖により鞭打たれている。その鞭打ち行為があと数回行われると彼女は死に、「コネクティブズ」されているすべての知性体は道連れとなるというのだ。マッキーは、アプネーゼを捕えるため必死の活動を開始する。
冗談としか思えない設定に軽ハードボイルドタッチの骨法、様々な異星人とのギャグ紛いの交渉風景、要素を抽出するとユーモア小説になるはずが、軽妙で奔放だが、なぜか生真面目シリアス深遠なスペースオペラとなって躍動する。
何を目的に造られたのか。何世代にも渡って知的生物連合から隔離隠蔽されてきたゴワチン人の非合法な惑星を巡る『ドサディ実験星』に、サボ局員にして非ゴワチンで唯一のゴワチン法法律士であるマッキーが調査のために派遣される。
前作『鞭打たれる星』から一転した重厚で複雑な物語。パラドキシカルな法律哲学が開陳され、諸勢力が疑心暗鬼のなか互いに罠を張り巡らし、権謀術数の限りを尽す、著者の面目躍如たる策略の中の策略の中の策略を骨子とした陰謀劇。
前作では断片的に鏤められた異星人たちの社会的文化的生物学的考察と描写が、ゴワチン人、ドサディ人を中心にじっくり作り込まれ、筋立てに絡み、深みをいやましている。
このシリーズには、先行して一九五八年と六四年に二つの短編が発表されているのだが、興味深い符合がみつかる。フランク・ハーバートの代表作といえば『デューン 砂の惑星』で、ヒューゴー賞・ネビュラ賞の二冠を達成し、全米のオールタイムベストでも首位をひた走っているのだが、シリーズ二つ目の短編は、この『砂の惑星』の雑誌連載の端境期に、『鞭打たれた星』は《デューン》第二作『砂漠の救世主』の翌年、『ドサディ実験星』は第三作『砂丘の子供たち』の翌年にと、発表時期が奇妙に重なる。ハーバートにとって重要な位置づけの作品であるのは間違いのないところだろう。(水鏡子)

1979年3月
アイザック・アシモフ『聖者の行進』The Bicentennial Man and Other Stories, 1976
池央耿訳 解説:安田均
カバー:真鍋博
ヒューゴー、ネビュラ、ローカスの三冠に輝き、映画化もされた(邦題「アンドリューNDR114」)人間になろうとしたロボットの一代記、「バイセンテニアル・マン」など、六〇年代末から七〇年代半ばにかけて発表された作品、十二編を収めた作品集。アシモフの作品集の楽しみといえば、なんといっても自画自賛とユーモアにあふれた作品紹介。往時の米国SF出版界の様子を活き活きと伝える文章のおかげで、傑作はさらにすばらしく、残念なものもそれなりに楽しむことができるのだ。本書でも、献辞を捧げられたジュディ・リン・デル・レイを筆頭に数々の編集者たちのエピソードが、読む楽しみをブーストしてくれる。巻頭の詩「男盛り」などは、このブーストがなければどう読んでいいか……。
もちろん他の作品は、それ自体で楽しめるものだ。特に、ロボットが人間になるとはどういうことかを突き詰め、意外な結論を得る前掲「バイセンテニアル・マン」と、ロボット三原則の前提を根本から問い直す「心にかけられたる者」はロボットSFを語る上で欠かせない名作。コンピュータ支配への反抗が皮肉な結末を迎える「マルチバックの生涯とその時代」も捨てがたい。(林哲矢)

1979年4月
E・R・バローズ
『密林の謎の王国』The Land of Hidden Men (Jungle Girl), 1932
厚木淳訳 解説:訳者
カバー、口絵、挿絵:武部本一郎
医学部を卒業したばかりの若きアメリカ人ゴードン・キングは、アンコール・ワットで知られる東洋の秘境カンボジアで、趣味の古跡探検のため現地人も恐れるジャングル深くへ進む。しかし方向を見失ったキングは、千年前から連綿と続く古代クメール人の王朝ロディダープラからの逃亡奴隷家族に瀕死の状態を救われた。ジャングルは獰猛な虎の危険と隣り合わせの野生の世界。回復し狩りに出たキングは、大虎に狙われ絶体絶命の娘をとっさに救出する。この若く美しい宮廷の踊り子フー=タンをヒロインとし、壮大華麗な宮殿やシヴァ神に仕える僧侶、勇壮な兵士に軍象の大群、そして絶対的な王による神秘の王国を舞台に、現代の快男児の恋と陰謀と冒険が繰り広げられる!
時の流れから隔絶されたクメール文明の秘境で、ロディダープラ王朝と、対立するプノム・デーク王朝が世界のすべてという微妙なバランスの設定を描き切るバローズ円熟の筆さばき。そして槍投げの経験を生かして仲間の信頼を勝ち得ていく主人公と、妖艶で魅力的な美女のエキゾチックな冒険のゆくえは、医学の知識を生かしたどんでん返しなど風雲急を告げ、計略あり裏切りありの緊密な展開で見事な大団円を迎える。中期バローズの会心作!(代島正樹)

1979年7月
クリストファー・プリースト
『ドリーム・マシン』A Dream of Wessex, 1977
中村保男訳 解説:安田均
カバー:スタジオぬえ 加藤直之
長編第三作『逆転世界』でブレイクしたプリーストが『スペース・マシン』に続いて発表した意欲作。原題はA Dream of Wessexで、英国南部ウェセックス地方を舞台としている。
三十九人の男女がリドパス博士の開発した「投射器」に入り、それぞれの精神を百五十年後の世界に投射する。変貌した未来社会を研究するのが目的だ。具体的にいえば、一九八五年の世界で巨大な抽斗型の装置に入ると、百五十年後の世界に目覚める――これが研究員たちの実感である。目覚めた分身は、そこでずっと一緒に暮らしてきた記憶をもっている。研究員の一人デイヴィットにとって、目覚めた「夢のウェセックス」は理想郷だった。そしてもう一人の女性ジューリアにとっても。
暮らしている世界が現実なのか夢なのか、だんだん不安定になってゆくプロットの巧みさ。そして大人の恋愛の行方が読みどころ。後に英国文学界でも屈指の筆力を発揮するようになるプリーストの確かな成長が見える佳作だ。
もうひとつ指摘したいのはウェセックスを魅力的に描く情熱。奇妙で心地よい世界を創りだすのは著者の優れた才能で『夢幻諸島から』がその典型だが、その萌芽がここにも明らかだ。(森下一仁)

1979年10月
リチャード・A・ルポフ『神の剣 悪魔の剣 ファンタジー日本神話』Sword of the Demon, 1976
厚木淳訳 解説:訳者
カバー・挿絵:すずき大和
童子の名は弥勒(ミロク)。〈綱(ツナ)の国(クニ)〉に向かう救世主である。彼と悪魔や幽鬼を呼び出す力を持つ愛染(アイゼン)との抗争を主軸として、半人半神の愛染に救われながら、弥勒と一緒に戦うことになる唯一の女性鬼子母(キシモ)など、日本神話を彩る英雄たちが陸続と登場するという異色のファンタジー。著者のルポフはアメリカ本国における戦後のバローズ・リバイバルを牽引した、カナベラル・プレス編集者兼ERB研究家としての業績が有名で、本書の翻訳者が厚木淳なのもその流れと考えられる。しかし訳者あとがきで「まさかこの趣味がSFの翻訳に役立つことがあろうとは」としながら日本刀と鐔(つば)の趣味を明かしていて、マニアックな訳注があるなと思えばナルホドそういうことですか、とニヤリ。
本書執筆の経緯は著者の「日本版への序」によると、場景イメージの断章が構想として先にあり、それを表現する神話伝承を求めて日本神話のモチーフを拝借したとのこと。もとより神話の整合性は追求せず、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)や草薙の剣(クサナギノツルギ)から河童や一寸法師まで、ありったけ登場させてしまうところが潔い(しかも一寸法師は弥勒の生まれ変わりだ!)。一九七八年ネビュラ賞候補作ながら、創元SF文庫が誇る(!?)屈指の怪作の座は揺るがないだろう。(代島正樹)

1980年2月
ハリー・ハリスン『ロボット戦争』War with the Robots, 1962
中村保男訳 解説:訳者
カバー:真鍋博
十五歳のときに〈アスタウンディング〉誌を見つけて以来、毎月最終木曜日にNYの地下鉄駅のマガジンスタンドに並ぶ同誌を購入、むさぼるように熟読し、キャンベル編集長を神とあがめるハリスンは、〈アナログ〉と誌名変更した同誌に連載した『死の世界1』(バンタム、一九六〇年九月刊/本文庫)で長編デビューし、キャンベル編集長が初めて採用してくれた短編の連作を長編化したユーモラスなピカレスク『ステンレス・スチール・ラット』(ピラミッド、六一年十一月刊)、再び〈アナログ〉に連載した『殺意の惑星』(バンタム、六二年一月刊)と立て続けにペーパーバック・オリジナルで上梓、しかもデビュー長編と第三作がヒューゴー賞候補となるに及んで、鼻高々だったことだろう。そんな有力新人と目された彼が、〈ファンタスティック・ユニヴァース〉誌掲載の短編を中心に、ロボット・テーマでまとめた第一短編集が本書(ピラミッド、六二年九月刊)。
ロボットSFは、アシモフの〝ロボット三原則〟作品以来、飛躍的発展を見せたが、それに縛られず、本書は、ときにユーモラスに、ときにシニカルに、ときにハードに描き、やや古びていても、テーマの可能性を拓く興味深いショーケースで、才人ぶりを発揮。(高橋良平)

1980年3月~
リチャード・エイヴァリー《コンラッド消耗部隊》Expendables
石田善彦、ほか訳 解説:訳者
カバー、挿絵:稲葉隆一
英国の作家エドマンド・クーパーが別名義で書いた全四作の冒険SFアクション物。同じ著者のシリアスな長編『アンドロイド』『遥かなる日没』等よりも娯楽性が強く、キャラクターや展開もコミック調。筆名リチャード・エイヴァリーは、謎の星のサバイバル劇を描いたクーパーの長編『転位』(一九六四)の主人公と同じ名前だが、その物語と主人公に想い入れがあって流用したのか、作風の違いを示す改名かは定かでない。
主人公は、移民可能な惑星を探す探検チーム〈EXPENDABLES(エクスペンダブルズ)=消耗部隊〉の面々。皆優秀ながら重犯罪者や社会不適合者ばかりで、文字通り「使い捨てOK」なメンバーだ。英国人司令官コンラッドは隻眼で(しかも赤外線の義眼)、片手が精巧な義手。インド人軍医の女性副官インディラは両足が超精度なロボット義足で、死の願望を抱いている。ナイジェリア人の生態学者カート・クワンゴは暴力的な元凶悪犯だが、巨大ロボットの操作に長け、いつも「アンクル・トム」の真似をしてジョークを言う。キャラが立ったこの三人がレギュラーで、他の隊員は劣悪な自然環境や超危険な生物の襲撃によって、毎回壮絶に「使い捨て」られて、死ぬ。
対峙する〝敵〟もユニークだ。特に印象を残すのが『クレイトスの巨大生物』に登場するミミズ怪獣〈ワーム〉。不快な悪臭を放つ頭部を持ち、キモチ悪さは格別。他にも『タンタロスの輪』のロボット猿と吸血樹木、『アルゴスの有毒世界』の巨大なマッシュルームのような頭と、大きな口と槍の舌を持つ植物(高さ三十メートル)等など、凶暴な怪物が次々と登場する。こうしたクリーチャーたちに襲われながらも、全員が食堂に集まって仲良く朝飯を食べたり、頻繁にスコットランド牛のステーキと赤ワインに舌鼓を打ったりと、コージーな日常が微笑ましい。英国冒険小説の伝統的フォーミュラ(メンバー紹介→タスクの準備&訓練→ミッション展開→危機突破と目標達成)に則った構成も安心して読める要素だ。
が、しかし、負の要素も強い。約四十年ぶりに再読し、随所に差別的な言説と植民地主義的な傲慢さが見られて、頭を抱えてしまった。エイヴァリー(=クーパー)は晩年のインタビューで「私は女性の解放に反対しない」と語りつつも、「男性は女性よりも優れている」「女性には優れた学者がいない」と公言している。このシリーズでも人種の違いや男女の差異が、自虐ネタやギャグで描かれていて、多様性が求められる昨今、そうした視座は如何ともしがたい。欧米で刊行当時、米国の批評誌Science Fiction Review(No.19/一九七六年八月号)で、ハーラン・エリスンが"the dreary, dreadful 'Avery' books(退屈で不快なエイヴァリーの本)"と酷評した。アメリカSFを辛辣に批判していたクーパーに対する不満に加えて、このシリーズに顕著な旧態依然かつ独善的な価値観への怒りもあったのかもしれない。(小山正)

1980年4月
エドワード・L・ファーマン&バリー・マルツバーグ編
『究極のSF 13の解答』Final Stage: The Ultimate Science Fiction Anthology, 1974
浅倉久志、ほか訳 解説:浅倉久志
カバー:スタジオぬえ 加藤直之
一九七四年、オリジナル・アンソロジーが全盛を迎えた時代に編まれた究極の一冊。テーマ別に書かれた点ではオーソドックスだが、ニューウェーブを経由したベテランや当時の新鋭が腕を振るい、大変レベルの高い作品集となっている。
たとえば、ポール・アンダースン「先駆者」は、人の意識を機械に組み入れ宇宙探査を行う話だが、作者にしては語り口が感覚的で構成も凝っている。フレデリック・ポール「われら被購入者」も果敢にタブーに挑戦しているし、アシモフ「心にかけられたる者」は、五〇年代のロボットものとは一線を画した優雅さを示している。こうしたベテラン勢が活躍する一方で、オールディス「三つの謎の物語のための略図」は、破格の構成を含め、まさにニュー・ウェーヴそのもの。作中にアンナ・カヴァンが登場している点も興味深い。他にも、ホロコースト後に漂う意識の断片を鮮やかに描き出すティプトリー・ジュニア「けむりは永遠に」、時間の輪に取り込まれた飛行士の悲哀を描くディック「時間飛行士へのささやかな贈物」など、作者の特色を生かした傑作が多数収録されている。七〇年代SFの到達点の高さを示す好アンソロジーだ。作者による解説と推薦作リストがついている点からもお勧めである。(渡辺英樹)

1980年5月~
ジェイムズ・P・ホーガン『
星を継ぐもの』ほか Minervan Experiment / Giants
池央耿訳 解説:鏡明、ほか
カバー:加藤直之
第一作『星を継ぐもの』の初版は一九八〇年刊。そろそろSFは卒業かなと感じていた私を元の沼に引き戻した記念すべき一冊。当時は後年の自分がSF小説で作家デビューするとは夢にも想わなかった。やたら主語をデカくするつもりはないが、周囲にいた理系大学生たちには共通する気分があり、中高時代に主だったSF作品は読んだものの、安部公房『第四間氷期』などのごく少数を除けば「知的興奮」を覚える作品はすでに/まだなく、ドーキンスとか科学ノンフィクションにくら替えする友人が多かった。この作品の登場はそんな連中にとって天啓だった。同じ作品を同時に読み、感想を熱く語り合う経験などめったにできるものじゃない。
真紅の宇宙服をまとった月面の死体〈チャーリー〉。だがそれは五万年前に死んだ人類の祖先だった――この出だしをいまの読者はむしろオーソドックスとさえ感じるかもしれない。でも君たち――それはこの作品から始まったんですよ。一方、木星の衛星ガニメデでは、二五〇〇万年前と推定される、はるかに科学技術文明の進んだ異星人の宇宙船が発見される。本作は〈ガニメアン〉と名づけられた彼らとのファースト・コンタクトSFであると同時に、周到に設定した時間軸のズレも作用して、人類の起源を探求する壮大なミステリにもなっている。
原子物理学者ハントと生物学者ダンチェッカーの主役コンビがいい味を出している。特に後者の人品骨柄は、スティーヴン・ハンター『極大射程』の老弁護士と重なり、物語もなにやら法廷物じみてくる。というのも、ハントがガニメデに宇宙旅行する舞台転換こそあるが、古代人も異星文明も死骸と遺跡なのだから、物語はいきおい両博士を楕円の二焦点とした果てしない知的議論に終始し、またそこに理系学生を夢中にさせる推理の妙があった。天体物理学、考古学、人類学、特に比較言語学からのアプローチは個人的ツボだった。
編集部への忖度抜きに言えば、このシリーズの価値の半ば以上は第一作にあるが、生きて動く〈ガニメアン〉や〈チャーリー〉の子孫たち、また両博士の冒険活劇を見るには続編群をお読みいただくしかない。これらは壮大なスケールとスピード感で、日常からはるか離れた地点に読者を連れ去ってくれる。第二作ではついに地球人類と〈ガニメアン〉は対面を果たし、二五〇〇万年の歴史の謎が明かされるし、第三作では人類の(黒)歴史や現代社会にはびこる不合理に遠い銀河から光が照射される。物語内時間はほとんど進んでいないが、作者の関心が科学技術自体から人類社会の未来に移行するにつれ、物語のトーンも変わり、気のせいかダンチェッカー博士も圭角が取れた。第四作『内なる宇宙』で舞台はついに仮想世界に分け入り、未訳のMission to Minervaで金字塔シリーズは幕を閉じるが、ぜひ生きて最後まで読みたいもの。(山之口洋)

1980年6月
M・W・ウェルマン&W・ウェルマン『シャーロック・ホームズの宇宙戦争』Sherlock Holmes's War of the Worlds, 1975
深町眞理子訳 解説:訳者
カバー:金森達
シャーロック・ホームズはパロディにおいて様々な相手と対決/共闘している。切り裂きジャック、ドラキュラ、夏目漱石……。その中でも極北と言える〝敵〟こそ、火星からの侵略者であろう。H・G・ウェルズ『宇宙戦争』の火星人襲来の際、ホームズならば果たしてどのように活動したか?――というコンセプトで書かれたのが本作なのである。時代設定をしっかり考証した上で、ホームズの年代学と重ね合わせ、コナン・ドイルのSF作品のシリーズ・キャラクター、チャレンジャー教授も登場させた。ウェルズの短編「水晶の卵」を『宇宙戦争』プレリュードと位置付けて取り込んでいるのは実に巧みだし、ただウェルズに乗っかっているだけでなく、新たな解釈を付加してSF的により昇華している。
ハドスン夫人が魅力的な女性でありホームズの恋人であるという設定には初読時に驚かされたが、それもまた本作の味のひとつとなっている。その他ホームズ正典キャラクターの生かし方や細かな正典要素の盛り込み方も気が利いており、シャーロッキアンも納得の作だ。前半はワトスンの出番が少ないのでワトスンファンにはやや物足りないかも――というのが僅かな瑕疵である。(北原尚彦)

1980年7月
E・バーディック&H・ウィーラー
『未確認原爆投下指令 フェイル・セイフ』Fail-Safe, 1962
橋口稔訳 解説:訳者
カバー:鶴田一郎
米国戦略空軍司令部(SAC)がカナダ国境付近に未確認飛行物体を発見した。常時哨戒体制にある戦略爆撃機編隊がソ連邦を取り囲むフェイル・セイフ点へと急行し攻撃命令に備えて待機。緊張が高まる中、航路を外れた民間機と判明し帰還命令が出されるが、一編隊だけは命令を無視してソ連国境を目指して突き進む。核戦争勃発の危機に、ソ連書記長とのホットラインを繋いだ大統領。果たして最悪の事態は回避できるのか。
ともに政治学者であるバーディックとウィーラーが、複雑化した機械に頼る防衛体制の安全性に警鐘を鳴らし、偶発戦争による人類滅亡の危機を入念な調査に基づきドキュメンタリー・タッチで描き出した骨太な近未来社会派密室劇スリラー。SAC、国防総省、大統領官邸、爆撃機操縦室の四カ所の密閉空間を舞台に、JFKをモデルにした大統領を始め入念に造形された関係者が葛藤する緊迫感漂うドラマは今尚色褪せていない。初訳は一九六三年河出書房新社。六四年にシドニー・ルメット監督、ヘンリー・フォンダ主演で「未知への飛行」として映画化(日本公開八二年)、二〇〇〇年にジョージ・クルーニー製作総指揮兼主演でTV映画「FAIL SAFE 未知への飛行」として生放送された。(川出正樹)

1980年7月~
E・R・バローズ《マッカー》Mucker
厚木淳訳 解説:訳者
カバー、口絵、挿絵:斉藤寿夫
マッカーとは、このシリーズが執筆された当時のスラングで「ごろつき」という意味らしい、ということがシリーズ第一巻の訳者あとがきで触れられているが、この《マッカー》シリーズの主人公、ビリー・バーンが面白いのは、品行方正、白馬の王子様タイプが多いバローズ作品の主人公たち(実は、ターザンに代表される「野蛮人」ヒーローたちも女性に対しては紳士的だったりする)と違い、汚い言葉を連発し、自らを悪党と自認する荒々しいならず者であるところだ。
もちろん、そこはバローズの作品なので、悪ぶってはいても、その実、常に弱きを助け強きを挫くことを選ぶ正統派ヒーローであることはすぐにわかる仕掛けになっていて、ヒロインに対して「俺みたいな悪党には似合わない」と自ら身を引こうとするあたりは、ターザンとなんら変わらない。
そんな主人公が南海の孤島で日本のサムライと戦い、革命に揺れるメキシコで山賊と戦いと、各巻ごとに違う舞台で大活躍するのがこのシリーズの特徴で、書こうと思えばこの調子で世界中を巡る一大シリーズにもできたはずなのに、バローズの悪い癖でヒロインと結ばれたところで完結してしまったところが少し残念。(堺三保)

1980年11月
E・R・バローズ『砂漠のプリンス』The Lad and the Lion, 1938
厚木淳訳 解説:訳者
カバー、口絵、挿絵:斉藤寿夫
この『砂漠のプリンス』を初めて読んだ時の私の印象は、バローズの初期ターザンを、良い意味で焼き直したもののよう、というものだった。
『砂漠のプリンス』の主人公である少年マイケルは、ヨーロッパの由緒ある王国の王位継承者だった。しかし、革命が起きつつあり、彼は父王の命令に従って国を脱出すると、嵐に遭った船の難破の末に、命辛々、アフリカの沙漠に逃げ込むことになる。連れは、無二の親友である黒いたてがみの大ライオンだけだった。しかも、彼は記憶を失っていて……。
もちろん、その先には、バローズらしい波瀾万丈の冒険が待ち受けている。戦争の危機に見舞われた王国と、少年の野性的な戦いとを交互に描きながら、彼の成長の度合いを見事に物語る。未熟で無知だった少年が、様々な艱難辛苦を経て、立派な青年になっていくわけだ。
ちなみに、この作品は、一九一七年にアルフレッド・E・グリーン監督で映画化されている。映画の中では、主人公が記憶を失うのは一緒だが、王の息子という設定はアメリカの大富豪の息子に変えられている。(二階堂黎人)

1981年2月
ポール・アンダースン『アーヴァタール』The Avatar, 1978
小隅黎訳 解説:訳者
カバー:鶴田一郎
一九七〇年代は、ニューウェーブSFとサイバーパンクSFという、SF界を揺るがした二大創作運動の狭間の時代だが、それは同時に本格SF復権の時代でもあった。六〇年代半ばにデビューしたラリー・ニーヴンが、現代科学の知識をふんだんに盛り込んだ作品を矢継ぎ早に発表して、一躍人気作家となっていった一方で、五〇年代に活躍したベテランたちもまた、現代的な装いの重厚長大な新作を発表するようになっていったのだ。
アシモフが『神々自身』で、クラークが『宇宙のランデヴー』で、フレデリック・ポールが『マン・プラス』で、それぞれ現代作家としての「復活」を遂げたように、軽妙洒脱な作品が広く人気を博していたポール・アンダースンもこの時期、重厚長大でシリアスな作品群を次々に発表するようになる。
本作はその代表的な一本で、フレデリック・ポールの『ゲイトウエイ』を思わせる超光速空間転移システムとそれを作った謎の異星種族に、あたかも地球の神話を思わせる化身(アーヴァタール)の存在とを絡めて、大スケールの宇宙SFにしたてあげたところに、手練れのSF作家であり歴史マニアでもあるアンダースンの真骨頂がある。(堺三保)

1981年3月
マーク・クリフトン&フランク・ライリイ
『ボシイの時代』They'd Rather Be Right, 1957
冬川亘訳 解説:安田均
カバー:鶴田一郎
本書は「史上もっとも知名度の低いヒューゴー賞受賞長編」といわれている。その理由は、一九五〇年代前半の〈アスタウンディング・サイエンス・フィクション〉誌の読者にだけ強くアピールする作品だったからだろう。
表題になっている「ボシイ」というのは、サイバネティクスの粋をつくして生みだされたスーパーコンピュータ。しかし、人工知能の可能性といった方向には話は広がらず、このコンピュータが行う心身療法が主眼となる。日々の生活で細胞に刻みこまれた抑圧因子をとり除き、不老不死を可能にするばかりか、人間に潜在するテレパシー能力まで発現させるというものだ。この発想は、SF作家L・ロン・ハバードが創始した疑似科学ダイアネティクスの強い影響下にあるが、そのダイアネティクスを全面的に支持したのが当時の〈アスタウンディング〉であったのだ。
作者のひとりクリフトンは、五〇年代に同誌を舞台に活躍して人気を集めた作家だが、いまではすっかり忘れられている。共作者ライリイは、のちに短編をいくつか発表した程度のマイナーな存在で、本書への貢献はアイデア面での協力にとどまるらしい。(中村融)

1981年4月
ラリー・ニーヴン『ガラスの短剣』The Flight of the Horse, 1973
厚木淳訳 解説:訳者
カバー:Peter Andrew Jones
ニーヴンにはハードSF以外にも、ファンタジーものや社会問題を扱うシリーズがいくつかある。
記録が失われた未来から、絶滅種捕獲のためタイムトラベルし、誤ってユニコーンなどを捕らえてしてしまう《タイムハンター・スヴェッツ》、魔法の力の源泉マナが枯渇していく世界で、それでも力を維持しようとあがく魔法使い《ウォーロック(魔法の国が消えていく)》、一方《テレポーテーション》は、交通手段が瞬間移動(機械を使ったテレポート)だけになった社会で、ニュースを契機に生じるパニックを描いたものだ。本書はスヴェッツもの五編、ウォーロック、テレポーテーションから中編それぞれ一編を集めた中短編集である。
ファンタジーといっても、これらの作品はいまの基準では全てSFの範疇だろう。ニーヴンは魔法を書くためにも、それを成り立たせる理屈・理論にこだわるからである。オープンエンドで終わる作品もなく、明快な解釈が示される。残念なことに、(本書に限らず)ニーヴンの短編集はハヤカワ文庫の『無常の月』以外、現行本での入手が難しい。それでも同書でスヴェッツの一編は読めるので、雰囲気を味わうことはできるだろう。(岡本俊弥)

1981年4月
ロバート・グロスバック
『死者がUFOでやってくる』Never Say Die, 1979
真野明裕訳 解説:訳者
カバー:稲葉隆一
交通事故で飛び出してきたトラックに不運な歩行者が押し潰された。かくいう歩行者とはこのわたし。再婚した妻に頼まれたハンバーガー九個を買って帰る途中、なにが起きたかすら分からずじまいで。目がさめたとき、わたしは死んでいた……。
SFに関する邦訳は本書のみという著者が描く主人公のジェイは、魅力的な女性にすぐ鼻の下を伸ばす俗っぽいキャラクターでいかにもSF非プロパー作家による通俗小説のようだが、内容は意外なほど複雑。異次元から来た知性体〈スティム〉が三万年前の地球で霊長類の頭脳と超共生し始める。つまり人類はそもそも〈スティム〉と不可分で進化していたのだ。ただし知覚主体と肉体の寿命はだいぶ異なっていて、ガワが死んでも残りの部分は生まれ故郷の宇宙に戻って案外普通に暮らしていて、カウンセリングなどを受けてまた現世の人間の殻“担体”(キャリヤー)に再結合されるのを待つという転生システムが基本設定。不適格者の浄化やレジスタンス、別種族のUFO奪取など大きく話は進むが、実は一番目立つのは優柔不断で下世話で自己中な、主人公のイヤな奴さ加減だったりして。創元SF文庫はふしぎなタイトルが一九八〇年代に混ざっていた印象がありますが、本書もそのひとつ。(代島正樹)

1981年5月
フィリップ・ホセ・ファーマー
『奇妙な関係』Strange Relations, 1960
大瀧啓裕訳 解説:新藤克己
カバー:岩崎政志
タブーなきSF的奇想で、セックスと生殖の深淵に迫る初期中短編を収録。中編「母」は、惑星ボードレール(凄い名前だ!)を舞台に、巨大な子宮を持つナメクジ風生物に遭遇した地球人の母子の苦闘を描く(次の短編「娘」はその続編)。中編「父」は、宇宙を旅しながら神学的問題に挑むジョン・I・カモーディ神父シリーズの一編。一万年間に進化も退化もしない謎の星で、カモーディは「父」を自称する創造主らしき巨人と出会い、この星で起きる「死と復活」をめぐって神学論争を展開する。中編「妹の兄」はSF史上最もグロテスクかつ奇怪な愛の悲劇だろう。宇宙飛行士レーンは、腰の下に生殖器が無い美しい異星人女性マーシャに火星で出会う。想いを募らせる二人だが、レーンが異星人の醜悪な生殖サイクルの秘密に知ったことで、彼らの情愛は謎を残したまま瓦解する。映画『エイリアン』(一九七九)の原案・脚本家ダン・オバノンは、本書をヒントにシナリオの構想を練ったと言う。確かに「妹の兄」には、蜘蛛に似た十本足の生物や、宿主を用いた生殖と寄生、雄の怪物が放つ酸性粘液、クイーンエイリアンといったソックリな要素が頻出する。映画『エイリアン』と本書の関係は意外と深いのだ。(小山正)

1981年7月
アーネスト・カレンバック
『エコトピア・レポート』Ecotopia, 1975
小尾芙佐訳 解説:訳者
カバー:稲葉隆一
本書の著者カレンバックは、アニメ映画監督・宮崎駿と対談を行い、日本では、「風の谷のナウシカ」と共鳴するエコロジー・ユートピア小説として注目を集めた。対談は『出発点』(徳間書店)、『ジブリの教科書1 風の谷のナウシカ』(文春ジブリ文庫)と、繰り返し書籍に収録されている。
だが、実際に本書を読んだ人は少ないかもしれない。対談でも宮崎駿は、自然を利用対象として捉えるカレンバックに批判的だった。原作版「ナウシカ」が、さらに思想を深め、エコロジーと距離を置く形で完結したのは、よく知られている通りだ。
電気自動車・再生可能エネルギー・生分解性プラスチックなど、本書で紹介された新技術の多くは実現し、その一方で普及は今一つである。地球温暖化が進む中、エコロジーは輝ける理想ではなく、現実的な政治課題となり、議論と妥協が積み重ねられる場となってしまった。
だが本書を時代遅れというわけにはいかないだろう。現実世界では、カレンバックが予測したような先進的な西海岸の独立ではなく、ついて行けない保守層の反動化として、アメリカの分断が生み出されたからである。裏返しの形で予測は的中したのだ。(高槻真樹)

1981年7月
E・R・バローズ『ルータ王国の危機』The Mad King, 1926
厚木淳訳 解説:訳者
カバー、口絵、挿絵:加藤直之
母の生国である中欧の小国ルータ王国を訪れたアメリカ人のバーニー・カスターは、たまたま風貌が似ていたせいで、レオポルド国王に間違われてしまう。国王は摂政ペーテルに長年幽閉されていたが、最近になって脱走し行方不明になっていたのだった。バーニーは否定するが誰も信じてくれず、否応なく陰謀に巻き込まれていくことになる。
《火星》、《ターザン》シリーズが人気を博し、脂の乗り切った時期に書かれた作品で、いつものように陽性の快男児がヒロインを救出する冒険を繰り広げる、バローズらしい冒険ロマンスである。珍しいのは、当時開戦したばかりの第一次大戦の現実が物語に反映されていることで、オーストリアとセルビアの間に位置するルータ王国は、敵対する両国のどちら側につくかの選択を迫られることになる。ただ、その後の戦争の顛末からすると、ルータ王国の選択が正しかったかどうかは微妙なところ。
並行して書かれた『石器時代から来た男』は、本書の第一部と第二部の間、カスター兄妹がアフリカのターザンの地所に招かれたときの出来事で、本書の主人公バーニーの妹ヴィクトリアがヒロインとして登場する。なお、本書にはSF要素は一切ない。(風野春樹)

1981年8月
ジョン・ウィンダム
『ユートピアの罠』Web, 1979
峰岸久訳
カバー:稲葉隆一
太平洋ミッドサマー諸島から、さらに遠く離れた孤島タナクアトゥア。自らの信念を実現させようとするイギリス人貴族と実行担当の理想家による扇動に賛同した三十八人が、自由で政治的にも独立した新しい共同生活国家、いわば“理想郷”を建設すべく、文明社会から隔絶されたその小さな島へ旅立った。
一九三一年デビューというキャリアを誇り、数々の名作で知られるジョン・ウィンダム最後の長編。著者の遺言により死後十年目にて発表されたということだが、本作で著者が描く破滅をもたらす災いは“クモ”である。原題はもちろん、IT用語ではなくクモの巣の意。物語の前半ではタナクアトゥアが経た数百年の歴史を詳細にたどり、核実験のために避難させられた原住民部族と、島に掛けられた呪いのタブーが語られる。そのために無人島のまま二十年放置されたあげく売却されたのだが、放射能の影響で異常進化を遂げたのか、はたまた部族の族霊(トーテム)として呪いを守護するためなのか、入植者のひとりである主人公らが到着した島は、群れをなして俊敏に襲い掛かる、恐るべき殺人毒グモの大群に覆い尽くされていた!
アクション・サバイバル味たっぷりな素材を、地味に仕上げる堅実さがウィンダムらしい。(代島正樹)

1981年9月~
ジェリー・パーネル《ファルケンバーグ大佐》Falkenberg's Legion
石田善彦訳 解説:訳者
カバー:鶴田一郎
〈連合国家〉海兵隊を追われた孤高の軍人ファルケンバーグ大佐の冒険を描いた本編は、『神の目の小さな塵』を含む〈未来史〉の一部だ。本編は軽快なリズムの未来戦記としてSF味の薄い物語と看做されてきた。パーネルはハインライン『宇宙の戦士』(一九五九)やホールドマン『終りなき戦い』(一九七五)のように、戦争の倫理的な問題に触れなかったからだが、半世紀近く経った現在から再読したとき、二十一世紀の地域紛争――疲弊した大国の孤立主義化、分離主義の抬頭、民間軍事企業の興隆などを忠実に写しとったかのような先見性に驚かされるはずだ。いまのウクライナ戦争さえもそのなかに含まれる。異端派の人口人類学者E・トッドが指摘するように、高性能の携帯兵器、AI兵器が戦車や空母の軍事的価値を低めているからだ。ファルケンバーグの戦争は第一次世界大戦に近い、白兵戦と塹壕戦なのだ。H・G・ウェルズ以来の近未来予測が物語に伏せられていたのである。重要なのは「軍人にできるのは時間を稼ぐことだけだ」というファルケンバーグの訴えだ。破局的な戦争を回避するために地域紛争を戦うことが軍人の使命だと訴えるこの言葉は、現代の戦争の本質をついたパーネルの主張なのだ。(礒部剛喜)

1981年10月
E・E・スミス
『大宇宙の探究者』Subspace Explorers, 1965
榎林哲訳
カバー:稲葉隆一
《スカイラーク》で道を拓き《レンズマン》で頂点を極めた、スペースオペラのレジェンド、E・E・スミス最晩年の作品。
恒星間連絡船プロシオン号は亜宇宙を航行中に事故で難破してしまう。一等航行士カーライル・デストンら救命艇で脱出できた数名は、対立抗争や数々の苦難を乗り越え亜宇宙から救助されるが、高次元を知覚する〝心霊能力〟(サイキック)を身に付けていた!
……と聞くと王道スペースオペラだが、あらぬ方向に転調していくカオスな作品。そもそも恋愛描写を苦手としたスミスは『宇宙のスカイラーク』で分担合作しようとしたが、本書では昔から予感能力のあったデストンが乗客で石油大企業の令嬢バーバラと精神感応するや、初対面でキスを交わし(五頁目)お互いに結婚の意思を確かめ合う(六頁目)という清々しいほどの超速展開。さらに金属探知能力を開眼したデストンはバーバラと会社を作って宇宙最大の大企業と取り引きする企業経済小説になり、〈進歩的利己主義の原理〉を信奉する植民惑星の資本家と旧弊な地球政府との対決になり、共産主義が行き着いた非人道的搾取惑星〈世界〉(ワールド)を支配するニュー・ロシア陥落戦へと、政治思想が強く表れる。没後十八年の一九八三年刊で続編(未訳)あり。(代島正樹)

1981年10月
ジェイムズ・P・ホーガン『創世記機械』The Genesis Machine, 1978
山高昭訳 解説:大野万紀
カバー:加藤直之
二〇〇五年、統一場理論が完成したあとの世界で、主人公ブラッドリー・クリフォードは理論を発展させ、物質の消滅と生成が重力波を生み出していることを突き止める。その検知方法を探るうちに、宇宙の構造が明らかになってゆき、世界を根本から変える、強大なテクノロジーの可能性が生まれる……。
作品が書かれた一九七〇年代末の空気を反映し、東西冷戦が深くこじれた爆発寸前の世界情勢が背景にあるが、主人公たちの敵はいわゆる「東側」ではなく、自国アメリカの権力と官僚機構だ。科学(理性)と官僚制・政治の対立する構図は単純にすぎるが、滅亡に至る争いの連鎖を終わらせたいという作者の切なる願いには偽りがない。物語のなかで、世界を破滅させうる超技術は正しい手にゆだねられ、永続的な平和が実現する。人類の理性に期待しすぎているといえなくはないが、読後感は清々しく、希望にあふれている。
主人公の相棒になるオーブは、同時代におけるアメリカ西海岸のテック・カルチャーを体現したようなキャラクターで、物語に明るさと軽みを与えている。
遠い時代のスナップショットであるとともに、ホーガンらしい楽天性と科学への信頼を味わえる一作。(倉田タカシ)

1982年4月
スチュアート・デイヴィッド・シフ編『マッド・サイエンティスト』Mad Scientists, 1980
荒俣宏、ほか訳 解説:荒俣宏
カバー:岩崎政志
ニューヨークに一人の医学生が居た。怪奇小説を愛し、在学中にはフランク・ベルナップ・ロングやヴァージル・フィンレイらと親交を結んだ。陸軍勤務を経て社会人となってもホラーへの情熱を忘れず、一九七三年に同人誌を作るに至る。彼の雑誌〈ウィスパーズ〉はプロ・アマを問わず優れた作品を掲載し、ダブルデイから刊行された傑作選は毎年のように世界幻想文学大賞にノミネートされ、彼自身も同賞のノンプロフェッショナル部門を四度受賞、休刊までの十数年にわたってホラー界を牽引していくこととなる。
そんなホラーの師父たるスチュアート・デヴィッド・シフの、これは余技ともいえるアンソロジー。収録作はクラークからラヴクラフトまで幅広く、「サルドニクス」「ティンダロスの猟犬」といった古典的名作をはじめ、ロバート・ブロックのコミカルな作品や、リー・ワインシュタインの切ない小品など、学究の末に未知の領域へ踏み込んでしまった者たちの楽しいショーケースとなっている。しかし、シフの本質はあくまでホラーであり、この分野でのさらなる紹介と再評価が待たれる。プロ・アマを問わず、優れたアンソロジストはジャンルを発展させる。彼こそは間違いなくその証左なのだから。(理山貞二)

1982年7月~
ジョン・ヴァーリイ
『ティーターン』『ウィザード』Gaean
深町眞理子、ほか訳
解説:安田均、ほか
装画:Ron Walotsky、ほか 装幀:矢島高光
《ガイア》シリーズは一九七九年から八四年に出たジョン・ヴァーリイの長編SF三部作である(最終巻Demonは未訳)。
人類初の土星探査船〈リングマスター〉。女性船長シロッコ・ジョーンズを始めとする七人の乗組員は、そこで異星人のものと思われる直径千三百キロの車輪型の衛星を発見。その中心には百キロの穴の開いたハブがあり六本のスポークが底辺へと伸びている。その外縁には三角形の太陽熱吸収板があり、車輪の内側にも六つの反射鏡があって底辺を照らしている。
接近した〈リングマスター〉は衛星から伸びた触手のようなものに捕獲され、乗組員たちはその衛星〈ガイア〉の内部に転生をとげる。
そこは巨大なリングの内側に広がる世界だった。表面重力は地球の四分の一で大気は呼吸可能。豊かな自然にあふれ、ケンタウロスに似た知的生物であるティーターニスや、羽のある天使たち、生きている飛行船やその他、異様だがギリシア神話っぽい、どこか見覚えのある生物たちのすむ世界だった。
シロッコと女性物理学者のギャビーは、ハブにいるという女神に会うため、スポークを登って行く。冒険の末、たどり着いた頂上にいた三百万歳の女神ガイアは、そこら辺にいる太った初老のおばさんの姿をしていた……。
まずこの世界のスケール感と、細かく設定されたハードSF的なディテールに圧倒される。そして世界の美しさ。生き物たちの躍動感。巨大な世界といえばニーヴン『リングワールド』が思い浮かぶが、《八世界》を築いたヴァーリイの描く世界はまた違った魅力に溢れている。
そしてこのシリーズの最も大きな特長は、ティーターニスの複雑怪奇な生殖機構を始め、セックスとジェンダーの問題をとことん深掘りしていることにあるだろう。またその社会構造や未来の人間社会についても詳細に考察している。今読めばむしろ普通に思えるかも知れないが、物語としてはロールプレイングゲーム的な異世界転生冒険ファンタジーを描きつつ、内実はそんな安直なゲーム的価値観を批判する社会学的ハードSFとも呼ぶべきものになっているのだ。そこが当時、このシリーズを歓迎する読者と同じくらい反発する読者を生んだ所以だろう。
第二部で〈ウィザード〉となったシロッコはこの人工的な、与えられた敵や試練をこなすお仕着せの冒険を嫌悪し、飲んだくれとなっている。それでも地球からやって来た問題ある二人の男女を支援し、新たな冒険に旅立つのだ。それはとても過酷な旅となる。次第に高まるガイアと〈ウィザード〉の対立。第二部の最後でシロッコはこの世界の〈デーモン〉となるが、未訳の第三部では、彼女はついに耄碌して狂ったB級映画狂のガイアと戦うはめになるのだ。今度は戦争だ!(大野万紀)

1982年7月~
E・C・タブ《デュマレスト・サーガ》Dumarest
鎌田三平、ほか訳 解説:訳者、ほか
装画:稲葉隆一 AD・ロゴデザイン:アトリエ絵夢
【『嵐の惑星ガース』『夢見る惑星フォルゴーン』『迷宮惑星トイ』『共生惑星ソリス』『キノコの惑星スカー』新版】2006年刊
遥かなる未来、人類は生存圏を多数の恒星系に広げていた。そして数多くの貿易船や観光船が星々の間を行き交うのと同時に、交通網を利用し星また星を渡り歩く者たちがいた。宇宙の渡り者と呼ばれる彼らの一人、アール・デュマレストには、あてどなく渡りを行う理由があった。すなわち、子ども時代にあとにした故郷の惑星地球に帰ること。しかし、人類の起源たる地球はもはや伝説上の存在と化しており、誰もその正確な場所を知らぬ有様であった。デュマレストの孤独な流浪は、果たしていかなる帰結を迎えるのか。
この三十一冊に及ぶアール・デュマレストの宇宙放浪記が《デュマレスト・サーガ》シリーズである。イギリス本国では、第三十一巻の後に長い年を経て刊行された続刊二冊(未訳)によりシリーズが完結したが、第三十一巻自体はかなり切りのよい終わり方をしているため、翻訳部分だけでも十分楽しめるだろう。
このシリーズを特異なものとしているのは、主人公が自前の宇宙船を持たず、目的地に決定権のない渡り者ということだ。現に第一巻『嵐の惑星ガース』にしてから、大口のチャーター客が来たことで希望とは異なる惑星で降ろされるところから始まるという塩梅。毎度のようにトラブルに巻き込まれるデュマレストは、銀河の覇権を握るために暗躍する精神統合集団サイクランと否応なく敵対しつつ、少しずつ地球への手がかりを得ていく。
もう一つの特徴は、『嵐の惑星ガース』といった各巻の題名からもわかるように、舞台となる惑星が基本的に一冊につき一つということだ。しばしば本シリーズは「どの巻も作品の構造が似通っている」と評価され、「金太郎飴」「宇宙水戸黄門」などと半ば揶揄するようにも呼ばれてはいるが、そのぶん巻ごとの舞台のバラエティが浮き彫りにされ、読者を楽しませてくれる。
本シリーズは現在こそさほど知名度が高くないものの、熱心なファンクラブも組織されるなど高い人気を誇った。TRPG「トラベラー」が本シリーズを大きく下敷きにしていることもあってか、「トラベラー」の訳者である安田均が本シリーズを題材としたゲームブックを東京創元社から二冊刊行している。
著者であるE・C・タブについても、マイクル・ムアコックから評価されたほどの書き手であり、今後再評価は必要であろう。彼のもっとも著名な短編「ルシファー!」は、アンソロジー『死んだら飛べる』(竹書房)にも収録されているほか、現在57 Secondsという題で映画化が進行中ということである。また、グレゴリイ・カーン名義の《キャプテン・ケネディ》シリーズが早川書房から五冊刊行されている。いずれにせよ、アール・デュマレストの旅はまだ終わっていないのだ。(片桐翔造)

1982年11月
E・R・バローズ『カリグラ帝の野蛮人』I Am a Barbarian, 1967
厚木淳訳 解説:訳者
カバー、口絵、挿絵:加藤直之
バローズと聞いて眉を顰めるような人にこそ読んでほしい、知られざる傑作だ。古代ローマ帝国の侵略によって奴隷の身となった語り手が、後に第三代皇帝となるカリグラに買われ、少しでも判断を誤れば処刑されてしまう危うい状況に置かれながらも、絶妙な知恵とバランス感覚を発揮して生き延びた四半世紀を、回想録スタイルで描きぬく。疑心暗鬼と権謀術数のきわみとしか言えないローマ帝室と、ダイナミックな剣闘場や戦車競争の描写との対比は冴え、ティベリウス帝や大アグリッピナら史実に登場する人物の書き込みも素晴らしい。とにかく生命が軽い時代なのに、語り手はどんな逆境でも「ケントの王キンゲトリクスの曾孫」としての誇りを捨てず、だからこそ生まれる倫理が読者の胸を打つ。対するカリグラは語り手の鏡像で、徐々に狂気と破綻の度合いを強めていくが、その哀しみは現代的――そしてラストのカタルシス! かような構造は、安彦良和『我が名はネロ』(一九九八~九九)での剣闘士レムスと皇帝ネロの関係にも変奏されている模様。本書は作者の生前(一九四一)に完成していたが、刊行は没後(一九六七)。海外では人気があり、加藤直之のイラストも評価されている。作者の歴史小説では、十三世紀を扱うThe Outlaw of Torn(一九一四)の翻訳も待たれる。(岡和田晃)

1983年1月
D・R・ベンセン『天のさだめを誰が知る』And Having Writ..., 1978
村上博基訳 解説:K・S
カバー:若菜等
宇宙船の故障で地球に不時着した四人の宇宙人が、並行世界、もう一つの二〇世紀を出現させ、そこに介入してしまう……。序盤の展開はゆっくりで、ファースト・コンタクトに歴史改変テーマという狭隘な(サブ)ジャンルのお約束だけで見れば、取り立てて新味のない凡作ともなろう。だが、随所で発揮される皮肉の効いた脱力系の(P・G・ウッドハウス風?)ユーモアに加え、歴史への批評意識が実に冴えていることから、本書は広く現代小説として再解釈すべきだ。実際、邦題はその妙味をよくわかったうえで付けられている。わざわざ発明家トマス・エディソンと帝国主義者セオドア・ローズベルトを並べるセンス。十九世紀的な公法秩序を完膚なきまでに破壊してしまった第一次世界大戦を、止めるのではなく煽ることにする宇宙人たち。皇帝ニコライがレーニンを「ロシア民主帝国の首相兼大統領」に任命する場面など、思わず吹き出してしまう場面の連続だ。だからこそ、ラストの一文でなされる問いが、痛烈に〝刺さる〟。今なお熱心な読者を少なからず擁するのも、納得の逸品だ。ちなみに著者は、〈アンノウン〉誌のベスト・アンソロジーの編集や、アシモフ《黒後家蜘蛛の会》シリーズのモデル「戸立て蜘蛛の会」のメンバーとしても知られている。(岡和田晃)

1983年2月
クリフォード・D・シマック
『宇宙からの訪問者』The Visitors, 1980
峰岸久訳 解説:米村秀雄
カバー:岩崎政志
ミネソタの片田舎に巨大な黒い箱形の物体が現れる。どうやら宇宙船か、あるいは異星人そのもので、地球の周回軌道上に何千もの群体で突如現れたものの一体らしいと推測される。箱は原生林の木々をどんどん取り込んで、セルロースの塊を吐き出し、ついには小さな分身を作り始める。地方新聞の記者兼発行者、箱と遭遇した大学院生とその恋人の都会の新聞記者、大統領報道官とその恋人で社会問題に熱心な大統領の娘といった人間たちが、この意思疎通不可能な訪問者に振り回されるオフ・ビートなファースト・コンタクトSF。冒頭からネイティヴ・アメリカンの権利問題について現代でも概ね同じような主張をする差別主義者が登場し、ヨーロッパの白人たちによるアメリカをはじめとする世界全体を変容させた歴史を、この訪問者たちによってもたらされるだろう世界への衝撃と重ね合わせ、さまざまな謎をそのままに、結末を宙吊りにして読者に世界への再考を促す。作者らしい穏当なユーモアによって静かにサスペンスを盛り上げていくスタイルが効いた長編。不可知のものに対して男性が恐怖、女性が希望を抱くという登場人物の対照的な描かれ方も面白い。(渡邊利道)

1983年3月
ラリー・ニーヴン&スティーヴン・バーンズ
『ドリーム・パーク』Dream Park, 1981
榎林哲訳 解説:訳者
カバー:岩崎政志
コンピュータやホログラムを駆使した未来のテーマパークで行われる、大規模なライブアクションRPG(LARP)を描いた先駆的な小説であり、プレイヤーの中にいる殺人犯を捜査するミステリでもある、この作品の邦訳が出たのは一九八三年のこと。
『ソードアート・オンライン』をはじめ、RPG世界での冒険を描く小説は今や当たり前になっているが、本書が参考にしている「ダンジョンズ&ドラゴンズ」(あとがきでは「地下牢と竜」と訳されている)は当時まだ日本語版が出ていないし、「ウィザードリィ」、「ウルティマ」といった古典的コンピュータRPGも出たばかりで日本語化されていなかった。RPGは、まだ知る人ぞ知る存在だったのである。戦士や盗賊といったジョブや、敏捷度などのパラメータの概念も、当時はまだ目新しかったはずだ。おまけに、運営側はプレイヤーたちの冒険をカメラで記録し、映像作品にして収益を上げているという設定だから、リアリティショーを予見した小説でもあるのだ。
この作品はその後の多くのLARPグループに影響を与え、一九九二年にはマイク・ポンスミスによってTRPG化もされている。また、二〇一一年までに三冊の続編が書かれているが、いずれも未訳。(風野春樹)

1983年4月
ジェイムズ・P・ホーガン
『未来の二つの顔』The Two Faces of Tomorrow, 1979
山高昭訳 解説:坂村健
カバー:加藤直之
ホーガンの代表作の一つ。物語は、推論能力を持つAIのHESPERが工事施工命令を優先して、現場の人間を殺しそうになる場面から始まる。主人公のダイアー博士が開発中のAI・FISEは、目玉焼きを作れと命令すると卵を割らずにフライパンに投げ入れるという体たらく。しかし一方で、熱さや痛みといった不快感を教えると、FISE自身のペットである犬アバターにも適用していたわるという、成長の可能性も示している。
AIは果たして人類にとって悪魔なのか神なのか。未来の二つの顔を確認するため、軌道上の実験コロニー〈ヤヌス〉で、このAIを使ったネットワークが試用される。人間側があえて対立するように仕掛け、安全性を確かめようというのだ。
本書が発表された一九七九年は、日本ではPC‐8001がようやく発売された年だ。ワープロもまだ普及していない。このような時代に、人工知能の父と呼ばれるミンスキーに謝辞を捧げる先見性は尊敬に値するし、タブレット端末などの未来技術予測も的確であるのが今なら判る。命令ではなく飽くまでもAIに自分で気付かせようとすることで、彼らが何を思い何を目指すのかを思索しつつ、エンタメ作品に昇華したところに、SFの底力を見る思いがする。(菅浩江)

1983年4月
ジェイムズ・P・ホーガン『未来からのホットライン』Thrice Upon A Time, 1980
小隅黎訳 解説:小隅黎・柴野拓美
カバー:加藤直之
スコットランドの古城の地下で、物理学者たちが時間を遡行する通信方法を見つけた。過去へのメッセージ送信実験を繰り返すうちに、核融合プラントと世界規模の災厄が関係していることに気づく――。理系文学のお手本とも言うべき理知的で丁寧な文体は、時間という興味深い現象を改めて深く考えさせてくれる。
ジェイムズ・P・ホーガンはイギリスに生まれ、一九七七年のアメリカ移住後に最初の小説『星を継ぐもの』を出版した。星雲賞海外長編部門を一九八一年に『星を継ぐもの』、一九八二年に『創世紀機械』、一九九四年に『内なる宇宙』の三作で受賞。海外長編部門を三回受賞したのは他にバリントン・J・ベイリー、ラリー・ニーヴン、ロバート・J・ソウヤーしかおらず、日本で非常に愛された作家だ。
本作は『星を継ぐもの』、『未来の二つの顔』とともに星野之宣が漫画化。他作品にも言えることだが、本作でも緻密な科学考証に加え、映画化されても不思議ではないほど「絵になる」描写がある。無関係と見える一連の事件が、後の展開の伏線となるドラマティックな展開があり、読者をひき込む。終盤の展開には、世界の現状について思わざるを得ない。(八島游舷)

1983年6月~
ジェフリー・ロード
《リチャード・ブレイド》Richard Blade
厚木淳、ほか訳 解説:訳者
カバー:木嶋俊
一時期、創元SF文庫は、長編シリーズを矢継ぎ早に刊行した。E・C・タブの《デュマレスト・サーガ》、マリオン・ジマー・ブラッドリーの《ダーコーヴァ年代記》などと共に、ジェフリー・ロードの《リチャード・ブレイド》シリーズも、大いに衆目を集めた。
《ブレイド》シリーズは、一九六九年から八四年にかけてアメリカで全三十七巻が発表され、その内の十四巻が創元推理文庫で翻訳された。作者のジェフリー・ロードはハウス・ネームで、実際には、ローランド・J・グリーン、レイ・ネルソン、マニング・リー・ストークスという三人の書き手がいた。
《ブレイド》シリーズを端的に説明すれば、SF版「007」+ヒロイック・ファンタジーということになる。
一九六〇年代にショーン・コネリー主演で大ヒットしたスパイ映画「007」の影響は、第一巻のページをめくった途端に解る。主人公のリチャード・ブレイドは、英国諜報部MI6のスパイである。彼のボスは〈J〉と呼ばれ、ボンドのボスが〈M〉であることを想起させる。
しかし、ブレイドが諜報活動をするのは外国ではない。無数に存在する異次元世界(X次元)なのだ。
イギリス政府は、天才科学者が作った超高性能コンピューターを使い、人間を別次元にある特異な世界へ送る計画を立てる。そこで発見される未知の物質や技術を持ち帰り、他国より優位に立とうという計画だった。さっそく、心身共に卓越した能力を有するブレイドが選ばれ、X次元への転移実験が行なわれた。
X次元には肉体しか転送されないため、ブレイドは毎回、裸で異世界に放り出される(記憶の一部も削がれる)。たいていの場合、異世界は、ロバート・E・ハワード描く《コナン》シリーズのような野蛮で未開の地だ。徒手空拳のブレイドは、己の知力と腕力だけで、次々に襲い来る苦難を振り払わねばならない。肉弾戦が炸裂し、血潮が飛び散る迫力満載の冒険が次々に描かれる。
また、戦闘の合間に彼は多くの美女と懇ろになり、別の意味の一戦を交えることになる(ブレイドは優れた頭脳の持ち主という設定だが、筋肉とセックス・アピールしかないように思えるのは正直なところだ)。
したがって、コネリー版「007」シリーズと同じく男尊女卑の傾向が強く、女性は男性の獲得商品か、美的な飾り物というような扱い方がされている。そこが当時、この《ブレイド》シリーズの人気の理由の一つだったのだろうが、今読むと多少の欠点ともなっている。(二階堂黎人)

1983年7月~
ゴードン・R・ディクスン《チャイルド・サイクル》Childe Cycle
石田善彦訳 解説:訳者、ほか
カバー:鶴田一郎
未来編六作+過去編三作+現代編三作の全十二作から成る一大叙事詩として構想された、作者の代表作。しかし、生前に発表されたのはいずれも未来編に属する長編八作と短編数作のみだった。本文庫に収録されたのは、そのうちの長編三冊と中短編集二冊だ。
二十一世紀、恒星間植民が進む中、人類はその特質を集団ごとに分化させた〈分離文化〉形式を進めてゆく。主要な文化集団は、戦闘に関わる資質を受け継いだ〈ドルセイ〉、信仰を重んじる〈友邦世界(フレンドリー)〉、形而上学的要素に特化した〈異邦世界(エキゾティックス)〉の三つ。各世界は特徴的な人材を互いに派遣し合い、勢力間のバランスを保っていた。中でもドルセイ人は高い戦闘力を生かし、傭兵として宇宙の戦場を駆け巡る。
第一作『ドルセイ!』は、異邦世界人の母を持つドルセイ軍人ドナルの立身出世譚。ドナルは惑星ごとに特化した文化様式や行動原理を逆手に取り、軍功を重ねてゆく。同時期に書かれた『宇宙の戦士』とまとめて扱われることも多いが、人類同士の戦争を士官の視点から作戦重視で描いており、軍隊や軍人の描き方はともかく、細部のテイストは意外に異なる。
続く『ドルセイへの道』は、時代を遡って描かれたドルセイ前史。超能力と管理社会をテーマにした近未来SFで、人類が恒星間植民に際して分離文化を選択した背景が見えてくる。
第三作『兵士よ問うなかれ』の主人公は、分離文化に属さない旧世界人の報道記者。言わば中立の立場から、信仰と狂気、勇気と暴力、知恵と企み……と各文化の表裏を描き出し、新たな統合への希望と課題を感じさせながら、時系列的にも他の作品群をつなぐ役割を果たす。本書の原型となった短編版は一九六五年のヒューゴー賞を受賞した(講談社文庫『世界SF大賞傑作選1』に矢野徹訳「兵士よ、問うなかれ」として収録)。
『ドルセイ魂』と『ドルセイの決断』は、サイドストーリー的な作品集。どちらも二編収録で『決断』の表題作は八一年のヒューゴー賞ノヴェラ部門を受賞。長編群に先駆けて《イラストレイテッドSF》として邦訳されたものの文庫化で、スペイン人アーティストのF・フェルナンデスによる挿絵が豊富に収められている(カバーは鶴田一郎)。
結局、歴史をたどり人類の特質をあぶり出し、未来で肉体・精神・頭脳と単純化して分離、その後に統合して新しい人類へ――という壮大なヴィジョンの完結には至らなかった本シリーズ。未来史の断片だけが残ったが、単純化によってキャラクターの個性が強まり、各文化が特徴を生かした戦略・戦術で戦うミリタリーSFの先駆として人気を博した。あくまでも主要勢力のひとつだった〈ドルセイ〉がシリーズの別名として使われるのも、この点をよく表している。(香月祥宏)

1983年8月~
マイク・マックウェイ
《マシュー・スウェイン》Mathew Swain
佐和誠訳
解説:訳者
カバー:安田忠幸
核汚染で荒廃した未来都市を舞台に、私立探偵マシュー・スウェインの活躍を描くSFハードボイルド。「レイモンド・チャンドラーの思い出に捧げる」とエピグラフにあるように、主人公の正義感と優しさはフィリップ・マーロウそのものだ。一人称の洒脱な語り口や、センチメンタルな男女関係、バーで酒を飲む場面が濃密なのもチャンドラー風。自宅に猫を飼っており、これは映画『ロング・グッドバイ』(一九七三)のマーロウと同じ設定である。そんなミステリ要素に加えて、様々なSFアイデアを用いて、独特な異空間を構築している点もすばらしい。乗物〈ブレット・カー〉や電脳通信〈ヴィス〉等の未来ガジェットも楽しく、同時期の映画『ブレードランナー』以上に死臭う街の描写も秀逸だ。第一作は富豪からの殺人捜査依頼の話で、スウェインとタッグを組む女男爵マリアが印象的。第二作は月の無法歓楽街で行方不明の恋人を探す物語。第三作は暴力的なメディア産業を背景に、TV局幹部と政治家との死闘に巻き込まれる。第四作The Odds Are Murder(一九八三)では脳を冒す殺人ウィルスが蔓延、患者たちがゾンビ化して街を徘徊するなか、スウェインは友人の死の謎を追う。傑作と名高いが、惜しくも未訳。(小山正)

1983年9月
クリフォード・D・シマック『妖魔の潜む沼』The Fellowship of the Talisman, 1978
冬川亘訳 解説:訳者
カバー:若菜等
地方領主スタンディッシュ家の跡取りダンカンは、イェズスの言動が同時代に記された手稿を鑑定してもらうため、妖魔に荒らされた《劫掠の地(デゾレイテド・ランド)》の横断を決める。お供は彼を主と仰ぐ豚飼いコンラッドと、闘犬、戦さ馬、驢馬だった。
舞台は二十世紀のブリテンだが、作品世界の地球は、全く異なる歴史を歩んでいる。妖魔の集団がどこからともなく現れて不定期に人類を襲うため、文明の発展が阻害されているのだ。十字軍も大航海時代も潰された世界において、中世キリスト教の価値観と社会は温存されている。同時に、どうしようもなく閉塞もしている。だからこそダンカンは、宗教的な文書のために冒険に出る。この世界には魔法や妖精、竜なども存在するが、印象はあまり派手ではない。幽霊や精霊も、愚痴と自嘲が多く、超常的存在というよりも荒れ地の貧民のようだ。そんな本書で楽しむべきは、ダンカンや道中で増える同行者たち(隠者、幽霊、妖精、魔女など)の愚痴方々の活発な会話である。ユーモア、韜晦、箴言に富むそれらこそ、シマックの特徴であり、醍醐味である。(酒井貞道)

1983年9月
ウィルスン・タッカー『静かな太陽の年』The Year of the Quiet Sun, 1970
中村保男訳 解説:訳者
カバー:安田忠幸
多彩な才能を持つ統計学者の主人公は、未来予測に対する洞察を買われ、政府基準局に半ば強制的に転属させられる。そこではTDV(時間転換機)と呼ばれるある種のタイムマシンが開発されており、初の有人プロジェクトが実行されようとしていた。主人公以外のメンバーは軍人だった。しかし、目的地はごく近未来のアメリカなのだ。
タッカーは時間ものを好んで書いた。本書はその集大成といえる力作である。政治の衰退とアメリカ国内の分断、人種問題、南シナ海や台湾をめぐる中国との戦争が描かれており、半世紀前と現在との相似性を知ることもできる。
ウィルスン・タッカーは一九一四年生まれで、九一歳まで生きた。世代的にはSF第一世代にあたる。草創期のファンとして、作家と共にジャンルを盛り上げた功労者である。ヒューゴー賞などでもファンライター、ファンジン部門で多く受賞している。一方本書は、キャンベル記念賞の受賞やネビュラ賞の最終候補になるなど、プロから高い評価を得た作品だ。創作活動は七〇年代末(六〇歳代)には終えているが、九六年にSFWAグランドマスター賞、二〇〇三年にはSFの殿堂入りを果たしている。(岡本俊弥)

1983年9月
ジョーン・D・ヴィンジ『琥珀のひとみ』Eyes of Amber and Other Stories, 1979
浅羽莢子、岡部宏之訳 解説:高橋良平
カバー:鶴田一郎
私が手本とする一冊。SFでしか描出できないせつなさや達成感がバリエーション豊かに集められている。
表題作はヒューゴー賞受賞短編。ファンタジー世界と見せかけた舞台は実は土星、異言語解析SFと見せかけて実は魂の交流がテーマ、という複合的な手腕が楽しめる。
特筆すべきは「高所からの眺め」。マキャフリーやティプトリーが好きな方には、ぜひ読んでほしい。隔絶された女性という似た設定の中では、一番ビターで一番感動的な作品であり、忘れることができない名作だ。
「錫の兵隊」では、ウラシマ効果にさらされる女性兵士と、機械の身体を持つ男性バーテンダーの淡い想いが描かれている。時間の流れから取り残されるという運命に共感しつつ、過度にもたれあわない姿勢がよい。これがデビュー短編だというのだから、びっくりする。
他に「猫に鈴を」「メディア・マン」「水晶の船」を収録。「ベン・ボーヴァによる序文」もヴィンジを知るのには大変役に立つが、それ以上に価値があるのは各短編に付された著者自身による解説だ。
ヴィンジの筆力の高さはヒューゴー賞受賞『雪の女王』などのオリジナル長編にとどまらず、ノベライズにも表れている。『サンタクロース』も記憶に残る名著だった。(菅浩江)

1983年10月
ハリー・ハリスン『ホーム・ワールド』『ホイール・ワールド』To the Stars
酒井昭伸、内田昌之訳 解説:訳者、ほか
カバー:星恵美子
アメリカSFを内側から変革させてきたハリスン。そのシリーズ作品でも、一九八〇年代初頭に書かれたTo the Stars三部作の一冊目と二冊目。
『ホーム・ワールド』は、視点人物の技師ジャン・クロジックが事故に巻き込まれた結果、天然資源を一手に握ったエリートの支配階層が第三世界の下層民を収奪している社会構造の不正義を自覚し、革命のため悪あがきをする話。登場するイスラエルのエージェント連がモサドの面々のように描かれることからもわかるように、エスピオナージュが強く意識されているが、勢いに反して筆致にはぎこちなさが残る。
続く『ホイール・ワールド』では一転、当局に〝流刑〟に処されたジャンの暮らす馭者座ベータ星第三惑星ハーヴモークに舞台が移る。風変わりな軌道と地軸の傾きで、夏や冬がそれぞれ四年続く星であり、生きるためには二万七千キロに及ぶ〈道〉を通り、居住可能な薄明地帯へ移動するしかないが、シンプルなプロットと奇想が見合い、黄金期SFのセンス・オヴ・ワンダーとアメリカン・ニューウェーブの〝昏さ〟もうまく融合している。こちらを先に読むのがいいかもしれない。いずれもラストに一捻りあり、第三作Starworld(一九八一)が訳されなかったのは残念だが、原書に挑む価値はあろう。(岡和田晃)

1983年12月
リチャード・A・ルポフ『宇宙多重人格者』The Triune Man, 1976
安田均訳 解説:訳者
装画:稲葉隆一 AD:アトリエ絵夢
ルポフは大変器用な才人と言うべき人で、一九六〇年代後半から七〇年代を通じて編集者、評論家、作家として大いに活躍したが、翻訳された作品はそれほど多くなく、全貌が明らかになっていないのが残念。本書は、冒険ものやコミック・ブックをこよなく愛した作者の持ち味が存分に発揮された快作である。
人気漫画家のバディは殺人の疑いで拘束され、ある病院に送られる。犯人は自分でなく、自分の中の別人格だと主張したためだ。実際に、彼の中にはナチもどきの愛国団体総統ウォッシュバーンが隠れていた。ところが、ウォッシュバーンも被害者を殺していないと主張する。さらには第三の人格も現れ、事態は混迷していく……。これだけでも十分面白いのに、作者はこの本筋にコミック・ブック的な要素をどんどん足していく。たとえば、本書の冒頭は、謎の生命体ヤクシ人に主人公が誘拐され、宇宙の危機を救ってほしいと依頼されるというとんでもない場面から始まるのだ。主人公が作中で描くSFコミック『ダイヤモンド・スートロ』も同様の展開を辿り、現実と虚構が複雑に入り乱れる。アメコミ、SF、ミステリ、すべての面白さが詰め込まれ、最終的に、ユダヤ人ホロコーストへと帰着していくアクロバティックな構成は見事の一言。(渡辺英樹)

1983年12月~
セルゲイ・スニェーゴフ《神のごとき人々》Люди как боги
深見弾訳 解説:訳者
カバー:星恵美子
セルゲイ・スニェーゴフによる《神のごとき人々》(Люди как боги)三部作は、とても数奇な運命をたどった作品である。ソ連にしては珍しいスペースオペラだとして読まれるのが最も適しているのだが、実はそれが問題となって出版されるのがかなり遅れたのである。
これには背景となる事情に関する説明が必要だろう。
実は本三部作はアメリカ的なスペースオペラのパロディなのだ。とにかく量産され続けた「どこかで読んだことがあるような話がたくさん存在する」パルプSFへの当てこすりとして書かれたものなのである。具体的にはE・E・スミスの《レンズマン》シリーズのことだったりする。
だが、実はその行為そのものがソ連にとっては気に入らないアイデアだったのである。スニェーゴフは自分でも知らないうちにタブーに触れてしまっていたのだ。
そもそもソ連時代の倫理感はキリスト教と社会主義的な建前によって形作られていた。すなわち、「神は自らの姿に似せて人を作られた」との旧約聖書の一言である。つまり、人間こそが神に最も近い存在であり、それ以外の姿は神とは似ても似つかない姿ではあり得ない。人間の思考こそが最上であり、社会主義は最も進んだ社会システムなのである。同じ理由により、地球文明を超えた存在も否定されなければならない。
というわけで、上記の二点がマズかったわけである。架空の文明観や宗教観を描いたこと。たかがこれ、されどこれなのだ。
それでも紆余曲折を経て《神のごとき人々》は出版され、日本語も含む数カ国語に翻訳された。ギリギリでセーフだったということだと解釈してもらってもかまわない。そんなわけで本三部作は「議論はあるかもしれないが、一九六〇~七〇年代におけるソ連SFの中で最大かつ重要なユートピア作品」であるとも言われている。それは発刊当時も変わりがなく一九八四年に「アエリータ賞」(一九八一年から続いているロシアのSF賞)を受賞したし、数カ国語に翻訳され、現在も評価されている。
ここで不思議に思われるかも知れないが、評者はあらすじを一切紹介していない。なぜかというと単純に前提となる知識無しであらすじを書いてしまうと「なぁんだ、凡百のスペースオペラじゃん!」と思われてしまうためだ。
本作の真の価値を知るためにはこれだけの説明では足りないほどの考察を記さなければならない。どれほどソ連という体制、聖書という倫理規範が重たくて表現に対して不寛容な代物であったのかをしっかりと理解し、相当に注意深く読み込まない限り本三部作の意味もわからないし、重要性にいたってはさらに理解不可能になってしまうからである。
スペースオペラには、帝国主義的な価値観がはびこっていて、それはそれで眉をひそめる作品が多い。だが逆にそれを茶化そうとしたらさらに体制の怒りに触れそうになって出版社から発刊を拒否されることもあったという作品だったという時代背景を抜きにして本作を評価するのは間違っているのである。(大野典宏)

1984年1月
アン・マキャフリーほか《歌う船》The Ship Who...
酒匂真理子、ほか訳 解説:新藤克己、ほか
カバー:佐藤弘之
この世に生まれ出た彼女は「もの」だった。すべての新生児に義務づけられている脳波計テストに合格し損なえば、彼女は「もの」としての運命を宣告されるだろう。
機械と人間の融合を描いた短編「歌った船」の冒頭は鮮烈だ。重度の障害を持って生まれた彼女は、脳波テストによって救いあげられた後、二つの選択肢を与えられる。安楽死か、さもなくばカプセルの中で何世紀も生きる管理機械〈殻人〉となるかだ。両親によって生きる道を選択された彼女は、〈殻人〉となるべく〈中央諸世界〉に託される。ヘルヴァと名づけられ、身体の生育を止め、カプセルに収納し、そのカプセルはやがて宇宙船のチタン合金の柱に封じられた。そして知覚神経は宇宙船に接続され、彼女は宇宙船の〈脳〉となった。
ヘルヴァは〈中央実験学校〉を卒業し、十六歳で〈頭脳船〉としてデビューする。操船は全て〈脳〉が受け持つが、通常〈頭脳船〉は、〈筋肉〉と呼ばれる生身の人間とペアで行動するため、ヘルヴァの元にも〈筋肉〉の候補者たちが何人も現れる。まるでおとぎ話の婿選びのごとき展開であり、選ばれた〈筋肉〉ジェナンに向けるヘルヴァの感情は初恋だ。そしてその恋は、悲劇的な結末を迎え、ヘルヴァの嘆きとその後の魂の彷徨が綴られる。〈殻人〉は何世紀も生きるため、たとえ不慮の事故が起きなくとも、遅かれ早かれ、どこかで喪失感を味わうことになる。喪失感による孤独は人を死に追い込む。それを避けるため〈殻人〉は心理学による教育と条件付けを受けている。だとしたら、ヘルヴァの感情は教育の成果なのではないかという読者の疑いを、マキャフリーはひとつの特性で見事に説得してみせる。ヘルヴァは歌うのだ。あらゆる声音、音域を使い分けて自由自在に歌う。それは他の頭脳船にはない特徴であり、彼女が個の存在であると同時に、ひとりの歌い手の喉という制限から解き放たれた、身体性における自由を印象付ける。
ヘルヴァは、生物の境界を超えた存在でありブレイン・マシン・インターフェイスの先駆として、SF史上最も有名な女性サイボーグだ。先天的障害者であるヘルヴァにとって、〈宇宙船〉が手足の代用という意識はない。それこそが身体そのものなのだ。にもかかわらず、物語はサイボーグ船の〈脳〉とその搭乗員〈筋肉〉のパートナーシップ、女としての身体を持たない少女の恋愛を主眼とする。このアイデアの先進性とロマンチックな物語性とのギャップこそが、この物語の魅力だ。
身体を伴わない〈殻人〉に性別を付与し、従来の結婚制度や異性愛をそのまま作品に取り入れている点や、〈殻人〉の年季奉公的な側面などは、SF界はもとより、科学哲学、社会哲学などさまざまなシーンで議論を呼んできた。科学哲学者ダナ・ハラウェイ「サイボーグ宣言」、サミュエル・ディレイニーによる「サイボーグ宣言」批判、ジェシカ・アマンダ・サーモンスンによるジェンダーとセクシャリティからの批判「なぜジェンダーを呼び戻すのか――アン・マキャフリー『歌う船』を読む」など議論の一部は巽孝之編『サイボーグ・フェミニズム【増補版】』で読むことができる。
「歌った船」の初出は一九六一年のF&SF誌。その後「嘆いた船」、「殺した船」、ヒューゴー賞、ネビュラ賞の候補となった「劇的任務」、「欺いた船」と書き継がれ、書き下ろしの「伴侶を得た船」を足した六編が一九六九年に『歌う船』として一冊にまとめられた。マキャフリーはこの本を自作の中でも最も好きな作品だと語っている。一九七七年に「蜜月旅行」を短編集『塔のなかの姫君』に書き下ろしているものの、続編展開に至らなかったのは、ヘルヴァの心情の背景にマキャフリー自身の結婚生活の破綻があり、執筆がその辛い記憶を呼び起こすことが原因だったようだ。しかし一九九〇年代に入り、遂に若手作家との共作というスタイルで続編シリーズが実現し、新たに六作が刊行された。世界設定を共有してはいるが、キャラクターの乗り入れもほぼないため、それぞれ独立した物語として読むことができる。
翻訳刊行順に紹介しておこう。
『旅立つ船』は《ヴァルデマール年代記》のマーセデス・ラッキーとの共作。主人公ティアは病気による進行性の身体麻痺が原因で、自らの意思で〈脳〉となった少女。先天性の障害ではないため、機械を媒介させない身体の記憶を持つ点が他の〈殻人〉と異なる。
『戦う都市』はシリーズ唯一の男性作家S・М・スターリングによる。〈殻人〉シメオンも男性な上に、船ではなく宇宙ステーションに搭載されており、さらに養女を迎えることで父親にもなった異色の《殻人》だ。『復讐の船』はその続編で、マキャフリーとの共作ではなくスターリング単独の作。シメオンが迎えた養女ジョートを主人公にしたスペースオペラで、〈脳〉も〈筋肉〉も登場しない。
『友なる船』は、訓練学校を卒業後〈筋肉〉も決まらないまま任務につかされた〈殻人〉ナンシアを主人公に、〈筋肉〉とのパートナーシップを描いた王道の作品。作者のマーガレット・ボールは別名義でロマンス小説も発表しているファンタジー作家だ。
『魔法の船』の〈脳〉〈筋肉〉コンビであるキャリエルとケフは、RPGマニアのおしどりコンビ。著者のジョディ・リン・ナイはゲーム会社のスタッフ経験もあるファンタジー作家で、続編『伝説の船』はリン・ナイの単独作。リン・ナイの夫は本シリーズを含め、数々の続編シリーズを企画した作家で出版プロデューサーのビル・フォーセットだ。
少女を搭載した宇宙船というアイデアは、国の内外を問わず後の作家、作品に様々な影響を与えた。映像化はないが、SF演劇を数多く送り出してきた劇団キャラメルボックスは本シリーズより材を得た「ブラック・フラッグ・ブルーズ」(成井豊・真柴あずき『アローン・アゲイン』所収)を一九九七年に上演している。
マキャフリー本人は、一九九九年にシルヴァーバーグ編のアンソロジー『SFの殿堂 遥かなる地平』に「還る船」を発表。〈筋肉〉の死を描いたこの短編は、「歌った船」をなぞるように進行、長い年月を経てたどり着いたヘルヴァの境地が描かれている。(未収録分二編を含めた『完全版 歌う船』の刊行が予定されている。)
なおマキャフリーの作品の中で《歌う船》と《クリスタルシンガー》は同一の宇宙を舞台にしているが、両作品共に歌をテーマにした作品である点が興味深い。(三村美衣)

1984年7月~
ラリー・ニーヴンほか《ウォーロック》Magic Goes Away
厚木淳訳 解説:訳者
カバー:木嶋俊
充分に発達した科学は、魔法と見分けがつかない――アーサー・C・クラークの著名な法則である。この手のハードSF的発想を逆手に取る形で、本来は土俗的であるはずの魔法を、ロジカルなシステムとして整理し直したファンタジーが、この《ウォーロック》だ。ただし、一気呵成に体系立てられたわけではない。もともとは、「マックスウェルの悪魔」にちなんだワン・アイデアの掌編だったが、ウォーロックの異名を持つ魔法使と蛮人ハップとの対決を描いた短編「終末は遠くない」に発展(原著一九六九年、『魔法の国がよみがえる』所収)。ここでは魔剣や金属製の円盤といったお馴染みのガジェットがすでに登場し、さらに中編「ガラスの短剣」(原著一九七二年、同名短編集に所収)において、この思弁が世界全体へと広がり、魔法の系統化(最強の呪文が交霊術とされている)や魔法使ギルドの設定、さらには魔術師たちの抗争までもが描かれる。ここから一転、長編『魔法の国が消えていく』(原著一九八〇年)では、世界の原理が神話として再編成され、エステバン・マロートの勇壮にして妖艶な挿画九十三枚やサンドラ・ミーゼルの解説論考と連動したヒロイック・ファンタジーとして完成に至る。つまり「妖精物語からSFへ」(ロジェ・カイヨワ)の逆を行ったわけなのだ。
面白いのは、ここからさらに複数作家のシェアード・ワールド・アンソロジーとして共有がはかられたこと。『魔法の国がよみがえる』(原著一九八一年)ではフレッド・セイバーヘーゲンやポール・アンダースンら、『魔法の国よ永遠なれ』(原著一九八四年)ではボブ・ショウやロジャー・ゼラズニイといった錚々たる面々が参加している。ロバート・アスプリンらによるシェアード・ワールド小説《盗賊世界》が猥雑で悪徳に満ちた都市サンクチュアリという舞台を軸にしていたとするなら(原著一九七九年の「盗賊世界へのいざない」の拙訳が「ナイトランド・クォータリー」Vol.24に所収)が、《ウォーロック》は魔法の源泉たるマナの力が衰滅するエントロピー理論的な発想とそれがもたらす哀しみこそが核に据えられている。
なお、本シリーズでのマナの解釈は『ガープス』や《聖剣伝説》シリーズをはじめとする幾多のアナログ/デジタルRPGに直接・間接の影響を与えてきたが、なかでも特筆すべきは、トレーディングカードゲームの代表作『マジック:ザ・ギャザリング』における根幹の発想を形成したことだろう。実際、ラリー・ニーヴンのアナグラムを含んだ設定ながらもきちんと世界観に落とし込まれた「ネビニラルの円盤」(Nevinyrral's Disk)というカードが存在するほど。同作を遊んでから読むと、ルーツはここだったのかと実感できること請け合いだ。(岡和田晃)

1984年8月
ディーン・R・クーンツ『ビーストチャイルド』(人類狩り)Beastchild, 1970
榎林哲訳 解説:新藤克己
カバー:木嶋俊
【改題】1997年刊、解説:中村融
一九八〇年代末のモダンホラーブームにおいて、キングと双璧をなした人気作家クーンツの、無名時代のSF作品。原型となった中篇はローカス賞短編部門の四位、ヒューゴー賞最終候補となっている。クーンツ自身『ベストセラー小説の書き方』で、SFの作例に本書を使用する自信作ではあるが、七〇年刊行の書籍は出版社による改竄があったために絶版となり、九三年に元の形で再刊された。ただし、翻訳は七〇年版を原典としている。
星間戦争に敗北し、地球はトカゲ型の異星人に侵略された遠い未来。異星人の侵略は容赦なく、病原菌を媒介するネズミの散布や、鉱物資源を音エネルギーに変換する超兵器の設置によって、もはや人類は絶滅に瀕している。そんなある日、異星人の考古学者フランは廃墟で人間の少年と出会い、命令に反してその生命を救ってしまう。粛清を受けるのを恐れたフランは、少年とともに逃亡。その後を異星人の〈追跡者〉が追う。裏切り者となったアウトローが子どもを連れて逃走するという冒険小説の王道パターンに、SFならではな捻りが効いており、中でもバイオ兵器である〈追跡者〉の存在は秀逸。後にその存在は哀しみを纏い『ウォッチャーズ』ハイテクホラーの傑作へとつながる。
なお、ペンネームは表紙に掲載された際の見栄えを理由に、現在はミドルネームのRのない表記を使用している。(三村美衣)