「またお友達のジャン=ジャック・ニャン吉がいなくなったニャ」
 何年か前にも「失踪?!」と騒いだら、お部屋にこもってシャルロッテ・リンクの『失踪者』を夢中になって読んでいたということがあったけど、今度は? 

フローリング1

「くらりくん、呼んだ? 失踪? ああ、そんなことがあったね。でも、今年出たシャルロッテ・リンクの『裏切り』っていうミステリもすごかった。
 あれも『失踪者』と同じで上下巻なんだけど、下巻を読まなきゃだめなんだ。あれは下巻で、「えぇええええっ!」と度肝を抜かれるミステリなんだよ。それはそうと、今読み終わったのはね、『フローリングのお手入れ法』っていうんだ」
「めずらしいニャ。ジャン=ジャック・ニャン吉(以下J=J・N)も実用書を読むんだね。年末の大掃除の準備かニャ?」
「ちがうよ、これはヘンテコな小説なんだ」

フローリング2

「あ、猫だ! かわいいニャ。ぼくも読みたい……」
「うううーーむ、くらりくんは、ショックを受けるかもしれないよ。猫が、その……、あの……、ちょっと」
「ぼくはいっぱい本を読んでいるから、どんな小説を読んでもショックなんて受けないニャ。J=J・Nだって猫だけど読んでも大丈夫だったんでしょ? じゃあぼくだって大丈夫だニャ」
「まあ、べつに読んじゃいけないと言っているわけではないけどさ」

「おおまかな内容を話すとね」とJ=J・Nは、おもむろに話し出したニャ。

 主人公のぼくは東欧のどこかの国で友人オスカーの留守宅をあずかることになったんだ。その友人のオスカーというのが、作曲家なんだけど完璧主義で、神経質で、実に細かいやつなんだ。とにかく、そのフラットたるやきれいでものが少なく、まるで人が住んでいないみたいなんだ。インテリア雑誌に出てくるようなすまい。猫を二匹飼っていて、その子たちの世話も頼まれるんだ。ストラヴィとショシィ。ストラヴィンスキーとショスタコーヴィチなんだろうね。この二匹の世話も約束させられるんだ。そして床を汚してはいけないと厳命される。
 はいはい、わかりました。まあなんとかなるでしょう……と主人公は気軽に考えて留守番が始まったんだけど、それがそれが……ことはそう簡単には運ばないのでありました。
 フラットのあちこちに、オスカーの字で書かれたメモが置かれているんだ。
 ピアノで遊ばないでほしい、猫をソファに上げてはいけない、コースターなしに飲み物を置かないで、これこれはしないように、こんなことは決してしてはいけない……等々など。
 思い出せば、学生時代から、オスカーはいつもそうだった。
 ところが、ぼくは床にワインをこぼしてしまう。そして高級で汚れひとつなかったフローリングは惨憺たることになっていくんだ。
 それどころか、猫が……。掃除のおばさんが……、あああぁぁああっ!
 この舞台は東欧らしいんだけど、どこの国かは不明。
 そこら中に仕込まれたオスカーの注意書きは、まるで、「ほら、やったね。だめじゃないか、そんなことをしては困るんだよ……」とでも言うみたいなんだ。なんだかかつての東側の監視社会を想起させるようなところがあったよ。みんなで監視し合って密告する体制……。考え過ぎかなぁ。
 もう主人公は、とんでもなく悪夢じみた状況に陥るんだ。
 どうしてこんなことに……まるでカフカのような世界……。

 実は著者のウィル・ワイルズさんは、もとは建築・デザイン関係のライターで、イギリスのデザイン雑誌「アイコン」の編集長をつとめたこともある人なんだ。
 だから、こんなに部屋にこだわっているんだよね。でも自分の部屋はちらかり放題なんだって。ほっとしたよ。
 この作品がデビュー小説で、ベティ・トラスク賞を受賞。第二作が『時間のないホテル』という作品で創元SF叢書の一冊として刊行されたけど、残念ながら今は切れているんだ。

 部屋はただの空間ではなく、精神の表出、知性の産物でもある……。われわれは部屋をつくり、部屋はわれわれをつくる。それがオスカーの信念なのだ。
 それは言えてる、と思わなくもないけど、でもホントカネ? とも思うんだ。
 ジャン・コクトーは『恐るべき子供たち』の中で二人の子供たちの世話をするメイドが子供たちの部屋の〈無秩序を台なしにすることなく掃除する術を心得ている〉ということを書いていたんだ。ぼくは子供の頃からその件(くだり)が好きでね……。日記に書き留めていたよ。

 J=J・Nは、ひどいデスクまわりで有名な編集者のお友達と暮らしているだけある意見を口にしたニャ。
 そして最後に、ポツリと言ったニャ。
「だけど、オスカーってなんなんだ。ひどいやつだよ。結局自分のことしか考えていないやつだ!」だって。

 どういうことなのかニャ? やっぱり読んでみないとわからないニャ。大掃除前にぼくも読んでみるニャ。

フローリング3

*猫のいる素敵なカバーイラストはmuranoさん、デザインは岡本デザイン室の岡本洋平さんによるものです。ウィル・ワイルズさんはこのカバーがものすごく気に入られてご自分の部屋に貼りたい!と言ってこられました。Will Wilesさんのツイッターを見ると、日本版のカバーが気に入った、とか発売日には日本の皆さん本日発売です、とかつぶやいていらっしゃいました。


フローリングのお手入れ法 (海外文学セレクション)
ウィル・ワイルズ
東京創元社
2022-10-31