訳者あとがき

 仕事柄、海外の出版社や新刊お知らせサイト等が流す情報から気になった作品は、試し読み版をストックするようにしている。ある夜、そうしたものが何冊も漂う活字の大海原からすくいあげたのが本書だった。なにしろタイトルとあらすじがよい。Cinnamon and Gunpowder『シナモンとガンパウダー』)という、響きよし、同じ粉、でも対極のタイトル。それに海賊船での飯テロ版のアラビアン・ナイトめいた物語って? 読みはじめると、まさにじらしのうまい語り部に誘惑されるように引きこまれ、そのまま購入。アラビアの王様のように次の夜まではとても待てず、夢中になって読みすすめた。

 物語の舞台は一八一九年。ナポレオンが失脚して米英戦争も終わり、蒸気機関車がすでに発明され、シューベルトやベートーヴェンが現役だった頃だ。市民社会の発展が見られつつも、西側列強はアジア進出を狙っていた。
 そんな時代に料理がすべてという人生を送っているウェッジウッドは、イギリスの貴族ラムジー卿宅のシェフ。訪問先の海辺の別荘でフランス仕込みの料理の腕をふるっていたところ、インド洋の鮫と悪名高い女海賊マッド・ハンナ・マボット一味の襲撃を受け、ラムジー卿が殺害されてしまう。ラムジー卿は東洋貿易を牛耳るペンドルトン貿易会社の会長で、会社の荷を狙って襲撃を繰り返すマボットに業を煮やし、天才科学者ラロッシュに最新兵器での攻撃を依頼しており、被害を受けたマボットの報復にあった……とわかるのはあとのこと。
 自分も命を奪われるのだろうかと悲観するウェッジウッドを、意外な運命が待ち受けていた。テーブルの料理を口にしたマボットはこれを大いに気に入り、ウェッジウッドを拉致、彼女のフライング・ローズ号に乗せたのだ。そこでウェッジウッドはある取引を持ちかけられる。マボットは普段はクルーと同じものを食べているが、船長としての力をたまには誇示する必要がある。彼女は身の安全を保障する代わりに、週に一度、日曜日に自分のためだけにごちそうを作らないかと提案してきたのだった。
 ウェッジウッドはビビリだが反骨精神は旺盛だ。内心ではラムジー卿の仇である下劣な海賊のために料理せよなどふざけるな、と思っているのだが、すべては命あればこそ。観察したことを細かく日誌に残しながら、脱走の機会が訪れるまでおとなしくキッチンに立つことにする。
 しかし、“キッチン”を目にした彼は愕然とする。船ではギャレーと呼ばれるそこの設備と調理器具は話にならないくらいお粗末だった。オーブン? そんなものはこの世に存在したことを忘れたほうがしあわせ。食料庫も同じだ。たしかに大勢のクルーの腹を満たせるだけの量はある。けれど、美味しさは二の次、長期保存を目的としたものが中心で、当然パンはカッチカチのビスケットみたいな堅パンだし、挽き割りトウモロコシ(コーンミール)はゾウムシまみれだし、チーズはうさんくさいし、火薬(ガンパウダー)をまぶした肉は素性がわからないものだし、パリッとした新鮮な葉物、風味づけに欠かせないハーブ、卵、ミルクがない。それにバター! なんと、バターさえもない! という有様だ。マボットの要求はまかない料理とは別次元の高級料理で、しかも、同じものを繰り返し作ることは許さないと言われている。クルーの食事を担当していた、先輩コックのコンラッドは、どうしたらあんなまずいものを作ることができるのかと問いたくなるマンネリ料理の粥を出している嫌われ者で、まったく頼りにならない。
 絶望のあまり、亡き妻の甘く優しい思い出に逃避しがちなウェッジウッドだったが、海賊船の現実、厳しさを目の当たりにして心に火がつき、やるしかないと工夫を始める。料理はなんといっても水が必要だが、保存のために船の飲料水は酒が混ぜられている。どうやって真水を確保すればいい? パンは? 一から発酵種を起こすしかないが、どうする? メインディッシュの食材はどうすれば? こんな食料庫の中身でデザートは作れるのか?
 持てる知識と経験を総動員、パズルのようにして難題を解き、貴族の面々から賞賛されてきた名声に恥じない立派な料理を作りあげるウェッジウッド。一方のマボットはペンドルトン貿易会社と科学者ラロッシュに追われながら、〈泥棒の王〉ブラス・フォックスの追跡に必死だ。その手がかりを追って船はアフリカ沿岸へ、インド洋へと進み、ウェッジウッドがなんとしてでも帰りたいイギリスからどんどん離れていく。海賊のなかに放りこまれて最初こそ孤立していた彼だったが、帰郷を焦りつつも、時が流れるにつれて船員たちとも打ち解けるようになる。しかし、海賊船は甘くなく、彼の試練は続く。

 楽しくて、悲しくて、痛くて、苦くて、深い、いくつものフレーバーがあわさったコクのある絶品料理のような一冊。シナモン=料理人ウェッジウッド、そしてガンパウダー=海賊マボットという構図から出発し、正反対の世界に生きてきたふたりの対立と理解を軸に物語が繰り広げられる冒険小説だ。第一の読みどころである料理場面はわくわくするもので、日曜日のディナーは毎回ウェッジウッドがどんな工夫をしてくるのか期待が高まる内容。航程が進むにつれてあらたな食材を手に入れることができ、幅が広がってレベルアップしていくのもRPGに通じるような面白さがある。
 料理作りを続けるうちにウェッジウッドはマボットと接する機会も増えていき、悪魔とおそれた彼女が世間に通じた興味深い存在であることを認めるようになる。ふたりとも孤児で、ウェッジウッドは国教会が主流のイギリスでカトリック教徒として苦労しながら料理の修業をおこなってきた背景を持っているが、マボットはさらに過酷な生い立ちの持ち主だった。対極のはずのシナモンとガンパウダーがまさかの化学反応を起こすように、彼らの価値観が変化していくさまを丁寧に描きだす部分が、本書の第二の読みどころである。ウェッジウッドは真面目で誠実な人間だが、成人してからは歴史の光があたる側をずっと目にしてきた。一方、影の部分を見てきたマボットは生きるために非情になるしかなかったものの、人道的な視点を失わなかった。
 当たり前のことだが、善悪の判断基準はその人が暮らしてきた環境によって変わる。ウェッジウッドはマボットと会話を重ね、社会問題を自分の目で見て、感じ、自分の頭で考え、いままでの固定観念から少しずつ解き放たれていく。
 多様な意見に触れる機会を得られるという意味では、さまざまな地域から、さまざまな背景を持つ者たちが集まる海賊船という環境はうってつけ。もちろん、第三の読みどころである波瀾万丈の冒険の舞台としても。主人公たちは最高に興味深い設定だが、脇役もそれにひけをとらない。マボットの右腕で船員たちのために編み物をするのが趣味の巨漢、陰のある中国人武闘家の双子(すごく強い)、果たして仕事ができているのか怪しい皺だらけの航海士、「魚釣りだってまかしときな」の日本人大工、いたずらっ子で耳の聞こえない心優しいキャビンボーイと、バックストーリーまで含めてどれも鮮やかで魅力的なのだ。
 本書をすっかり気に入り、翻訳ミステリー大賞シンジケート(https://honyakumystery.jp/)の原書レビュー「え、こんな作品が未訳なの⁉」コーナーに紹介を掲載したところ、東京創元社の編集者氏からもっとくわしく内容を……と声がかかり、訳書を刊行できる運びとなった。フライング・ローズ号の人たちを日本で紹介できることになって本当に嬉しいし、いまこれを読んでくださっている読者のみなさんには感謝しかない。楽しんでくだされば幸いだ。

 本書はエンターテインメント作品なので、もちろん予備知識は不要だが、知っておくと物語(特に後半)をより楽しく読める歴史的背景について少し触れておく。
 この時代、アジアではイギリスがインドで植民地化の基盤を固め、オランダと現在のマレーシアやインドネシアで覇権を争い、徳川家斉統治の日本にも貿易許可を要求したが、これは拒否されていた。ペンドルトン貿易会社のモデルとなったイギリス東インド会社が、茶以外の貿易独占権を奪われて間もない頃で、自由主義経済の進展によって貿易独占権を完全になくすまであと十数年といったところ。植民地の統治権や独自の軍隊編成権まで認められていた東インド会社の強い立場が、本書のペンドルトン貿易会社に反映されている。
 一方、中国は十八世紀なかばに貿易を広東一港に絞っており、イギリス・インド・中国の三角貿易の形ができあがっていた。十八世紀末にはすでに阿片輸入を禁止していたが、この問題は悪化していき、何度も輸入厳禁の措置を繰り返す。こうして一八四〇年に勃発したのが阿片戦争である。マカオは十六世紀からポルトガルの居留地だったが(割譲され植民地となるのは十九世紀後半)、イギリスも十九世紀前半に攻撃をしかけている。フィリピンは十六世紀なかばにスペインによる植民地化が始まっていたが、十九世紀初めにはやはりイギリスがマニラに商館を設置していた。

 著者へのインタビューによると、本書誕生のきっかけは、ヨガのDVDがつまらなかったことだというから、つまらなくてありがとうと言うしかない。シリーズもののDVDでヨガをおこなっていた著者はその退屈な作りに一週間で飽きたそうだ。そして考えた。もっと物語性があって、率先して毎朝のルーティーンとしたくなる内容にすればいいのに。たとえば十二章仕立てのスペース・オペラだとか、海賊にさらわれて下働きをさせられる話だとかにエクササイズを組み合わせたらどうだ。一瞬、自分で作ってiTunes で売ろうかとも思ったそうだが、それは現実的ではなかった。けれども、海賊にさらわれる話というのは頭から離れず、そこに料理を織りこんだ物語を書こうと思い立った陰には、日本のTV番組《料理の鉄人》があったという。
 著者イーライ・ブラウンは同姓同名の俳優やミュージシャンもいるが、そちらとは別人だ。南カリフォルニア育ち。砂漠と農場ばかりの土地で娯楽が少なく、自分で楽しみを見つけだすしかなかった。ギャングになったりドラッグに手を出したりした友人も多く、みずからも子供時代は無茶な遊びをしていたというが、ずっと続けていた彫刻と文章を書くことが心の支えだったようだ。ミルズ・カレッジで美術学修士号取得。特技は父親の指導のもと五歳から十八歳まで続けていた空手。執筆業にくわえて用地管理人、マッサージ師、専業主夫として過ごし、現在はガーデニングと発酵食品作りを楽しみながら、家族と北カリフォルニアで暮らしているとのこと。
 本書はカリフォルニア・ブック・アワード候補、サンフランシスコ公共図書館ワン・シティ・ワン・ブック・セレクションやNPR書評スタッフのピックアップに選ばれた。その他の作品に、デビュー作でカルト集団を描いたThe Great Days(二〇〇八年、ファブリ文学賞受賞)、ヤングアダルト向けのファンタジーOddity(二〇二一年)がある。この秋にOddityのタイトル未定の続編が刊行される予定だ。
 最後に、本書が世に出るきっかけを作って的確なサポートをしてくださった東京創元社の編集の桑野崇氏、素敵なカバーイラストを描いてくださったイラストレーターの松島由林氏、思わず手に取りたくなるデザインにしてくださった中村聡氏、日本版の本作りにかかわったみなさんに心からの感謝を捧げる。

 2022年7月


■三角和代(みすみ・かずよ)
西南学院大学文学部外国語科卒。英米文学翻訳家。カー『帽子収集狂事件』、パウエル『ウォーシップ・ガール』、タートン『イヴリン嬢は七回殺される』、テオリン『赤く微笑む春』、ジョンスン『霧に橋を架ける』など訳書多数。