一七世紀のこと。バタヴィア(ジャカルタの旧称)からアムステルダムへは、およそ八ヶ月の航海となる。喜望峰を回り、香辛料や絹を運ぶのだが、その旅は危険に満ちていた。航路はただ一つ。疫病(えきびょう)や嵐、さらには海賊といったリスクもある。スチュアート・タートンの第二作『名探偵と海の悪魔』(三角和代 訳 文藝春秋 2500円+税)は、そんな危険な大海原に出帆したザーンダム号を舞台とする一冊だ。「週刊文春ミステリーベスト10」で第二位になるなど高く評価されたデビュー作『イヴリン嬢は七回殺される』とはまた別の路線だが、こちらはこちらで抜群に素晴らしい。

 物語の冒頭では、ザーンダム号はバタヴィアの港に停泊しており、名探偵として知られるサミー・ピップスと助手のアレント・ヘイズ中尉がその帆船に乗り込もうとしていた。だが、歓迎されているわけではない。サミーは囚人としての乗船だった。どんな罪なのかの具体的な説明もないまま、全権の支配者であるバタヴィア総督ヤン・ハーンの命で、彼の立場は英雄から囚人に一転していたのだ。そんな彼等の乗船時、箱の上に立った病者が呪いの言葉を発した。乗船者たちのすべてに破滅がもたらされ、船はアムステルダムに到着することはないというのだ。そして次の瞬間、病者は炎に包まれ、焼かれていった。

 ザーンダム号はそんな不吉な予言を無視して出航。オランダに帰国するハーン総督と妻のサラや娘、愛妾(あいしょう)に加え、乗客、乗員、兵士など数百人を乗せて大海原を進んでいく。もとより危険を承知の旅路であったが、今回の航海は、予想をはるかに超えて異常だった。焼死したはずの病者らしき姿が船内を跋扈(ばっこ)し、ときには〝船外から〟窓を覗(のぞ)き込む。さらに、悪魔〈トム翁〉の存在がそこかしこでちらついたりもする。

 そんな怪異の連続で読ませる本書だが、それだけではない。ザーンダム号の航海では、サミーが披露(ひろう)する〝日常の謎〟タイプの冴(さ)えた推理も序盤から何度も顔を出すし、火薬庫に厳重に秘匿(ひとく)したはずの〈愚物〉が消失する大きな謎もあり、本格ミステリ的な魅力も詰まっているのだ(密室殺人トリックだってある)。また、大嵐と帆船の闘いには海洋冒険小説の魅力が宿っているし、恋愛小説要素さえもある。とにかく多様なエンターテインメント要素が詰まっているのだ。本書は、ハードカバー二段組みで四三〇ページほどのボリュームなのだが、この大きな器を、著者は濃い密度で使いこなしている。それぞれの怪異や推理や冒険や恋愛を丁寧に、しかも読者を不意打ちするような情報を交えながら語っており、とにかく頁(ページ)をめくる手が止まらないのだ。

 そして読者は、その多様さが周到な計算に基づいていることを、終盤で思い知らされることになる。さらにさらに、この物語を牽引(けんいん)する主役二人の設定にも注目したい。アレントはそもそも名探偵の助手という立場だったし、サラは総督の妻として目立たぬ存在だった。ザーンダム号が怪異に襲われたこの危機的状況において、サミーの傍(かたわ)らでは巨体と腕っ節だけが目立っていたアレントの知恵や、サラの行動力や決断力など、主役たちのなかにひそんでいた能力が目を覚ましていく様(さま)が痛快なのだ。というわけでこの『名探偵と海の悪魔』、各ページも愉(たの)しめれば、全体としても愉しめるという拍手喝采の一冊である。


■村上貴史(むらかみ・たかし)
書評家。1964年東京都生まれ。慶應義塾大学卒。文庫解説ほか、雑誌インタビューや書評などを担当。〈ミステリマガジン〉に作家インタヴュー「迷宮解体新書」を連載中。著書に『ミステリアス・ジャム・セッション 人気作家30人インタヴュー』、共著に『ミステリ・ベスト201』『日本ミステリー辞典』他。編著に『名探偵ベスト101』『刑事という生き方 警察小説アンソロジー』『葛藤する刑事たち 警察小説アンソロジー』がある。

紙魚の手帖Vol.04
ほか
東京創元社
2022-04-11