◎INTERVIEW 注目の新刊 小田雅久仁『残月記』

『本にだって雄と雌があります』の衝撃から九年。
「月」を題材にした三作品を収録する待望の新刊『残月記』を上梓した小田雅久仁さんにお話を伺いました。


――まず、『残月記』執筆のきっかけを教えてください。
 連作短編集の依頼をいただいたのですが、連作短編集は読むのも書くのも苦手なので、「月火水木金土日」という七つの文字をテーマにした、内容につながりのない七つの短編を書こうと考えました。しかし一作目の「そして月がふりかえる」が長くなって、この調子では一冊に収まらないと思い、一冊まるごと「月」をテーマにした作品集に路線を変更しました。
 デビュー作『増大派に告ぐ』は暗鬱(あんうつ)な作品で、二作目の『本にだって雄と雌があります』は、その反省もあり、ユーモアをちりばめた明るい作品を心がけました。三作目となる本作は、担当編集者の意向もあり、読後に希望の残るファンタジーにしようと考えました。結果的に「月」の出る夜の場面が多く、視覚的にも内面的にもかなり暗い雰囲気の一冊になったのは、おそらく僕の性格が暗いほうへ傾いているせいなのでしょう。

――三作の「月」の題材は、どのように生まれましたか?
 ネットで見つけた不気味な月の裏側の画像から、月が裏返ったら世界はどうなるのだろう、という発想が生まれました。そこに『流れよわが涙、と警官は言った』(フィリップ・K・ディック)の、主人公が誰も自分を知る者のいない世界に放りこまれる、というアイディアが結合し、「そして月がふりかえる」となりました。
 以前、石が出てくる話が書きたいと思い、本を調べていたところ、風景のような模様の浮き出た風景石というものの存在を知りました。それと「月」が結合し、表面に月世界の風景が浮かぶ「月景石(げっけいせき)」という題材になりました。また、前々から王道的なファンタジーを書いてみたくて、不思議な力を持つ石によって女が二つの世界を行き来する、「月景石」の物語が生まれました。
「残月記」に出てくる月昂(げっこう)という架空の感染症は、「月」と言えば狼男という安直な発想から生まれました。そこに、ハンセン病などの実在する感染症から着想を得て、全体主義国家による過酷な隔離政策という設定が加わり、現実の日本とは似て非なる殺伐(さつばつ)とした世界が生まれました。

――ディックの名前が出ましたが、影響を受けた作家はいますか? また、小田さんの濃密な文章は、どのように生まれるのかうかがいたいです。
 以前、好きな作家としてコーマック・マッカーシーやアゴタ・クリストフの名を挙げたことがありますが、僕の書く文章は、二人の偉大な書き手の文章とは似ても似つかぬものです。結局、文体とは作品の内容のほうから書き手に要求してくるものであって、その逆ではない、という結論に達したからです。強い物語は、どう書かれるべきか、どのような文体を選ぶべきかを書き手に主張してくる。書き手の中心に居座っているものがかけ離れている以上、僕は二人のようには書けないんです。
 最近では、大江健三郎氏の影響があるのではないかと思うようになりました。大江氏の文章は、言葉を書き重ねてゆくことで、対象と、読者ににじりよろうとする気配が感じられます。その筆致はときに難解で、ぎこちなさもありますが、自身の文学と、読者の両方に対し、誠実であろうと努めているように思われます。僕自身も、言葉を多く費やすことによって書くべきものと読者に肉薄したいという願望があります。そして何より、書き手であり第一の読者でもある自分自身をまず説得したい。まずい文章を書きつらねているなと自己嫌悪に悩まされながら作品を仕上げてゆくことは非常に困難だからです。僕の文章は読みにくく、テンポよくページをめくれないともどかしく感じる方もいるでしょう。でもそれは、僕自身が一読者として、目まぐるしい展開を駆けぬけるように追う読書よりも、作品世界にねっとりと包みこまれる読書を好んでいるからです。
 物語、世界観、人物造形など小説を構成する要素はいくつかありますが、文章はそれこそが小説のすべてでありながら、ないがしろにされがちな要素です。しかし僕は、小説における文章は、もっとも最後に効いてくる薬のようなものだと思っています。再読に耐える作品こそが優れているのだとすれば、読者に再読を促すものは、先行きの知れた物語だけでは充分ではなく、文章の力が最後のひと押しをするだろうと考えているからです。誰もが知るとおり、文章の道には終わりがなく、無限の険しさを持っています。いい文章を書きたいと思えば思うほど勾配(こうばい)はきつくなって、だんだん絶壁のように感じられてき、途方に暮れてしまう。書けない、ということに関しては、僕はすでに第一人者だと自負しています。

――人物描写で気をつけていることはありますか? また本作で特に印象深い登場人物を挙げるとしたら誰でしょうか?
 見た目の書きこみはあまり重視せず、その人物のまとう雰囲気を大事にしています。図体が大きく威圧感がある、とか、美人だけれど性格に難がありそう、とか、外見と一緒に、視点となる人物の内面的な身がまえ方を書くと、読者も印象を捉えやすくなると思います。そこにちょっとしたエピソードを書き加えることで、凡人なりのささやかな特徴を与えることができます。ほとんどの人は凡人なわけで、凡人を書き分けることこそが、人間を書く、ということなのでしょう。僕は、娯楽小説作家という立場にあぐらをかき、人間を書く、という難題からしばしば逃げているわけですが、いつか正面から向きあわねばならない日が来るような気がしています。
 本作の中でもっとも印象深い登場人物は、表題作に登場する独裁者・下條拓(しもじょう・ひらく)です。僕は理解しあえる人間にも興味を持ちますが、まったく理解できない人間にはさらに興味を搔きたてられます、独裁者と言えば、ヒトラー、スターリン、毛沢東(もう・たくとう)などが歴史に大きな爪痕を残し、現在でも、プーチン、習近平(しゅう・きんぺい)、金正恩(キム・ジョンウン)などが国際社会で強い影響力を持っています。言わば〝怪物〟、そしてブラックボックスのような存在です。これがノンフィクションであれば、想像力を働かせて独裁者の内面に踏みこむことは、あまり誠実な書き方とされないことですが、小説にはそれがゆるされています。今回は、独裁者の視点で書くことはありませんでしたが、もしかしたら、理解しがたい人物の内面を描くことは、映像作品ではなく、言葉のみを武器とする小説こそが得意とするところかもしれません。

――表題作は感染症、芸術などの題材が組み合わさり、終盤にそぎ落とされ、恋愛小説の面が強まったように読みました。
 僕はこの作品の骨組みを、一種の三角関係のようなものとして思い描きました。主人公である冬芽(とうが)、敵役(かたきやく)である独裁者の下條、そして冬芽の恋人である瑠香(るか)、その三人の物語です。しかしその三角関係の背景は、独裁国家と化した近未来の日本という、非日常的で、あまりにも大仰な世界です。そういった派手な背景を前にすると、普段われわれが経験するような、生活感を帯びていたり打算的であったりするリアルな男女の恋愛の機微が、無駄にちまちまとした白々しいものとして感じられてしまいます。この娯楽性と恋愛のあいだの不協和は、大がかりなことが起きがちな娯楽作品ではかならずと言っていいほど起こります。それを少しでもやわらげるために、僕はこの作品における恋愛を、できるだけ単純化し、原始的・寓話的・宿命的に描くことにしました。物語の後半で、冬芽と瑠香が、独裁者の支配下から離れると、二人の関係は、より原始的な背景の中でさらに単純になり、女の周囲を巡りつづける男、という図式が鮮明になりました。そのせいで、未来の物語であるはずが、とくに終盤は、古代の神話や民話のような素朴な純愛に収斂(しゅうれん)する展開になったように思います。

――日常生活を営んでいた人が、ふとした瞬間に別の世界に放り込まれる作品を書き続けているのはなぜですか?
 まず第一に、僕が日常生活に退屈しているからだと思います。これは僕ばかりでなく、フィクションを求めるすべての消費者に共通する普遍的な症状でしょう。僕も一小説家として、読者に現実を突きつけたい、真実について考えさせたい、という願望はありますが、読者としては、まさにその現実・真実から逃れたくてフィクションに手を伸ばすわけで、これは書き手の側にはまず勝ち目のない喧嘩です。
 第二に、僕の力量では、日常からはみ出ないかぎり新鮮味のある作品を生み出せそうにないからです。
 第三に、超自然的な要素を作品に持ちこむことで、現実に存在する抽象的なものごとを、より強調して語ることができるのではないかと考えているからです。たとえば「そして月がふりかえる」においては、夫婦の別れの寂寥(せきりょう)がそれであり、「残月記」においては、独裁者の残虐性・異常性や男女の宿命的悲恋がそれであると思います。

――デビュー後十年経ち、小説の書き方に変化はありましたか?
 先ほど話したような、主人公が、ありふれた日常から異常な経験に巻きこまれてゆくという展開、手法に飽きを感じはじめ、表題作の「残月記」では、架空の感染症が蔓延(まんえん)していたり、日本が一党独裁国家と化していたりと、物語の背景である日常自体を、誰もが知るこの世界ではないものとして設定することにしました。この手法は、今後も試してみたいです。

――本誌の読者に向けて一言お願い致します。
 小説の道ゆきは、今後ますます厳しいものとなると思います。映像技術の発展などにより、視覚表現は日々進化を遂げておりますが、小説の武器はきょうも、そしてこれからも、永久に文章これのみです。小説の利点はと聞かれたら、多くの人が、創作の手軽さや、長さの制限のゆるさをあげると思いますが、僕には、これらがどうしても消極的な理由に思えてしまいます。それでも僕はまだ、小説にしかできないことがあると信じており、小説家である以上、それを作品という形で世に示さねばならない立場にあります。それを成し遂げたという実感はまだなく、僕としては、これからの作品に期待するほかありません。みなさんも、小説をあきらめず、追いかけつづけてください。読者がいるかぎり、小説が消えることはありません。

――今後のご予定を教えてください。
 書きためた中短編をまとめて、怪奇小説集を出したいです。それ以外の予定は、まったくの未定ですね。僕は基本、行き当たりばったりで書いており、その時々でどうにか絞り出せたものを形にして、一喜一憂しています。それでも、いつか小説家としての活動を終えるとき、ふりかえって自作の全体像を見わたせば、自分がどういう書き手だったか、何に取り憑(つ)かれて筆を走らせていたかが、見えてくるだろうと思っています。



小田雅久仁(おだ・まさくに)
1974年宮城県生まれ。2009年、『増大派に告ぐ』で第21回日本ファンタジーノベル大賞を受賞してデビュー。12年刊行の『本にだって雄と雌があります』では第3回Twitter文学賞(国内部門)を受賞。21年刊行の『残月記』で、第43回吉川英治文学新人賞を受賞した。

【本インタビューは2022年2月発売の『紙魚の手帖』vol.03の記事を転載したものです】