ペーター・ヴァン・デン・エンデ『旅する小舟』(求龍堂 2800円+税)は、まったく文章が入っていない大判の絵本。作者はアントワープ生まれのベルギー人で、デザインと生物学を学び、ケイマン諸島でネイチャーガイドとして働いた経験があり、本書がデビュー作になるらしい。

 物語は、軍人の正装のような不思議な服で頭にツノが生えた人物とボーダーシャツの普通の青年が二人で大きな紙を折って小舟を作る場面ではじまる。海に放たれた小舟は、鷗(かもめ)が飛ぶ大海原を、マングローブが生い茂るジャングルを抜け、オーロラが輝く夜を渡り、氷山に穿(うが)たれた洞窟をくぐり、黒煙を上げる海底油田の採掘装置に穴をあけられ、海月(くらげ)でいっぱいの海中に沈み……と不思議な生き物でいっぱいの世界を航海していき、やがて街に辿り着く。

 巨大な船舶や潜水艦、灯台なども精緻に描き出された絵は、たった一本のペンによるものらしいのだが、静謐(せいひつ)で、余白を強く意識させるモノクロの線が世界の広さをとても強く感じさせる。孤独で小さな存在であることが、世界の豊饒(ほうじょう)さをもっともよく感じさせてくれる条件であるようだ。物語のエピソードは絵の中からいくらでも汲(く)み出せそうで、解説エッセイで岸本佐知子が書かれている通り、何度もページを繰って、小舟の旅を辿り直してみたくなる。
 
 マーサ・ウェルズ『ネットワーク・エフェクト』(中原尚哉訳 創元SF文庫 1300円+税)は、二〇一九年に、四つの中編を上下巻にまとめて刊行された『マーダーボット・ダイアリー』の続編で、シリーズ初の長編。保険会社が部品代をケチったため不具合が生じて大量殺人を犯してしまった過去を持ち、統制モジュールをハッキングして自由の身となった内気で愚痴(ぐち)っぽい、何故(なぜ)か配信の連続ドラマが大好きな暴走警備ユニット「弊機(へいき)」は、前作で世話になった恩人、メンサー博士の依頼で惑星調査隊に護衛として同行するが、何者かに襲撃され、謎の異星遺物の存在が予想される未知の星系に拉致(らち)されてしまう。果たして「弊機」は調査隊のメンバーを守ることができるのか、また襲撃者たちの目的は? という物語。

 冒頭からすでに戦闘がはじまっていて、一気呵成(いっきかせい)にアクションが連続し、血みどろ破壊シーン満載で、背景となる世界観も悽愴苛烈(せいそうかれつ)なのだが、ひたすら屈折した「弊機」の独白と優しい配慮に満ちた面倒くさい会話のために、どこかのどかでユーモラスな感触が漂っている明るいエンターテインメントSFなのが却ってちょっと怖い。

 宮澤伊織『裏世界ピクニック7 月の葬送』(ハヤカワ文庫JA 780円+税)は、実話怪談好きが高じて文化人類学を専攻している地味大学生空魚(そらお)と、超美形の帰国子女で重火器に詳しいやはり大学生の鳥子(とりこ)が、この世界の〝向こう側〟にある、草原や廃墟が広がる物理法則を無視した怪異現象が頻発(ひんぱつ)する〈裏世界〉を探検する人気シリーズの最新刊。怪異が二人の生活圏を侵しはじめ、それを「怪談」というプロトコルを通して〈裏世界〉そのものが接触してきているのではないかと考察するSF性を交えながら、二人の関係の深まりを描くエモーショナルな展開は、シリーズ冒頭からラスボス感を醸(かも)し出していた閏間冴月(うるまさつき)との最後の対決(=葬送)というかたちで最初のクライマックスを迎える。他の登場人物たちが冴月との思い出でしめっぽくなりがちなのに、一人殺伐(さつばつ)と「ぶっころ!」と息巻く空魚がめちゃめちゃ可笑しい。

 周囲からちょっと浮いていて、みなから情緒的に心配されているのに、結構一人で勝手に決断して暴力的に物事を解決しようとするあたり、『ネットワーク・エフェクト』の「弊機」と空魚はよく似ている。どちらも一人称の小説で、愚痴が多く好きなものには饒舌(じょうぜつ)だ。他人からの好意に素直に応えることができない面倒くさい主人公の成長物語として、続きが楽しみな両シリーズである。


■渡邊利道(わたなべ・としみち)
作家・評論家。1969年生まれ。文庫解説や書評を多数執筆。2011年「独身者たちの宴 上田早夕里『華竜の宮』論」が第7回日本SF評論賞優秀賞を、12年「エヌ氏」で第3回創元SF短編賞飛浩隆賞を受賞。