探偵小説がお好きな方の必読リストに載っている、その一書が『ある詩人への挽歌』ではないでしょうか。その概念は江戸川乱歩由来だと思われます。
 本書の解説で若島正さんが乱歩の評に関して、「イネスという作家の存在を知らしめた」功と「初めの部分がさっぱりわからなかったという乱歩の述懐が独り歩きして、難解な作品というイメージを作ってしまった」罪、相半ばすると述べておられます。
 まさしく。
「初め三分の一ほどが古いスコットランド方言丸出しの記録で、普通の字引に無い言葉が多く、殆んど理解し得なかった」という乱歩の言は、もちろん原書で読んだからです。
 インターネットを駆使できる現代にあってもスコットランド方言には手を焼くでしょうが、そのへんの苦労と面倒はすべて訳者の高沢治さんが引き受けてくださいました(詳細は「ある詩人への哀歌」でどうぞ)。
 幸い我々には邦訳があり、スコットランド方言や英語の構文に明るくなくても作品を味わえるようになりました。
 それでも何となくの苦手意識は残って、手が出にくい気がするものです。そのハードルを少し下げられないかというわけで、試みに主な登場人物の側から眺めてみましょう。

【ユーアン・ベル老】
 キンケイグ村の靴直し。学がないと言われないように本を読み自己研鑽を積んできた自負がある。事件について書くことを勧められるや、ねじり鉢巻き、腕が鳴る鳴る。勢い、話はあちらへ飛びこちらへ曲がりだが、総じて村人から見たエルカニー城主ラナルド・ガスリーを描く。ベル老の姪が乳母だった関係で、城に住むクリスティーンは「ユーアンおじさん」と呼ぶ。

【ノエル・ギルビイ青年】
 ベル老パートの最後で、村に迷い込んだ車2台のうち1台の持ち主。ロンドンで恋人ダイアナとクリスマスを過ごす予定が、大雪で動けなくなりエルカニー城に助けを求める。足止めされている間に城主の墜落死に遭遇。恋人に宛てて到着前後の状況を記した書簡は、随所に文学の香気を漂わせながら、不時の客が見て取った城の住人の印象を投影している。

【アルジョー・ウェダーバーン弁護士】
 開巻劈頭に名前が出てくる、ベル老をおだて上げ手記を書かせた張本人。ギルビイ青年の電報により一件に関わることになった。世のしがらみで依頼を断れず現地入りしたが、探偵小説好きの血が騒いだか、気乗り薄から一変して情報収集に勤しみ、地元のスペイト警部に一泡吹かせる。

【ジョン・アプルビイ警部】
 重要参考人の移動に付き添ってキンケイグへ。スペイト警部から話を聞き、遺体を調べ、審問を傍聴し、ノエル・ギルビイの書簡記録を読んで、全容解明に努める。ノエルとは『ハムレット復讐せよ』で知り合った間柄。

 ノエルの書簡はほぼ時系列の記述で、1章と2章は事件発生の直前まで、以降は発生後です。それを押さえた上で、主に生前のガスリーを描いているベル老のパートに戻る手もあるかもしれません。ウェダーバーン弁護士のパートは、さすがと言いましょうか、論理的で明快な筆致です(そのように翻訳されている、ということでもあります)。
 ベル老とノエルのパートで事件の背景と状況が出揃います。構図が頭に入ったら、捜査当局と法曹関係者の出番を待ちましょう。
「最後のほうだけ読めば事件の全容と真相が一挙に理解できる」ファスト映画のような仕掛けは、少なくとも本作にはありません。うっかり後方のページを繰ると一生後悔しますから、くれぐれも御注意ください。

ある詩人への挽歌 (創元推理文庫 M イ 1-2)
マイケル・イネス
東京創元社
2021-11-29