(※真相に触れている箇所があります。本文未読の方は御注意ください。)

「高沢さん、イネスを訳してみませんか?」編集のIさんから電話があったとき、「イネスって、マイケル・イネスですか、新本格派の?」と答えるだけの知識は僕にもありました。と言うか、知識はそれが精一杯。『貴婦人として死す』の翻訳が終わり、次作品の翻訳依頼を心待ちにしているときです。因みにスコットランド独立住民投票があってから二年ほどあと。「新本格派」と口にしておきながら「イギリス新本格派」で親しく読んでいるのは、マージェリー・アリンガムくらいで、創元推理文庫にイネスの作品がほとんどないこともあって、僕にとってイネスは名のみ高い縁遠い存在でした。イネスがオックスフォード大学の英文学教授だったと言うことも聞きかじっていたので、なんとなく近寄りがたい(そう言えば、ニコラス・ブレイクも桂冠詩人でしたね。イギリス新本格派は学識豊かすぎる)。しかし、ありがたい申し出だったし、訳者としてあまり育ちのよくない僕は、出されたご馳走の皿がほかに回されるのを怖れ二つ返事で引き受けました、この作品がイネスの代表作であることも知らぬまま。(創元推理文庫でカーター・ディクスン名義のカー作品の翻訳をする前は、主として、受験生相手の予備校に頼まれて模試の問題を作ったり、入試問題の全訳や解答解説を書いたりする仕事をしていました。育ちがいい、とは決して言えない)
 底本到着。「アプルビイ警部ミステリー」と副題がついている。しかし、このとき既に僕は、本書が複数の語り手による、やや錯綜した語りの構造になっていること、アプルビイの推理が最終的真実には到達しなかったことを知っていました。さらには、原書がAmazonの読者評で概ね好評な一方、「スコットランド語のせいで読みが遅々として進まず」「アメリカ人読者は読むな」といった星一つの評価が散見されること。つまり、訳者にとってはスコットランド語が大きな障壁となるということ。しかし、本当に心強いことに、桐藤ゆき子さんによる先行訳があることも確認していました。
 翻訳開始。予想通り、翻訳のペースがまったく上がらない。最初の語りはユーアン・ベル。自らを教会の重鎮と恃み、若いときに苦学してラテン語そして古典文学を修め、現代文芸評論にも目を通していた、屈強な靴直しの老人。人物設定が狂っているとしか思えない。おまけに「この話はまたあとで」「そう言えばこんなこともあった」と話がまっすぐには進まない。そしてスコットランド方言だらけ。僕は僕で、受験問題の解説をやっていた育ちの悪さが災いし(幸いし、と言い直すべきか?)、一つでも意味の不確かな単語があると不安で、徹底的に潰さずにはいられない。文脈上この意味にしかならないとわかっていても、確証を得るまで調べてしまう。訳者に向いているのか、不向きなのか。お蔭で、当時パソコンのブラウザーのブックマークには、中世英語やスコットランド語の辞書サイトがずらりと並んでいました。真夜中過ぎに、散々ジャンプした後で、お目当ての語義と使用例を見つけたときの喜びといったら!(ところで、このご老人、「創作の才は悪魔の誘惑」とのたまっておきながら、ある語りの陥穽をしれっと仕掛けています。気になる方は是非本書を!)
 原書には、went benという表現が繰り返し出てきます。benは普通の辞書にも載っている副詞で、この場合「部屋の奥へ、内部へ」といった意味ですが、雨の多い日本に雨を形容する言葉が数多くあるように、牧師のジャービー博士の言葉を借りれば「いつも変わらぬ灰色の空と心まで曇らせる冷たい海霧」の晴れないスコットランドでは、野外での楽しみよりも暖炉のそばを好む傾向が強いから、こんな副詞があるのだろうと、僕は勝手に納得しました。この頃までには、スコットランドへの共感、と言うよりスコットランド贔屓がしっかりと根を下ろしていました。
 次の語り手がノエル・ギルビイ。名前から想像できるようにクリスマス・イヴ生まれで、「僕の車は大きいから小さな車と一緒になるのはいつも気まずい」と言ってのける金持ちの御曹司。ええしのぼん。恥ずかしいことに(本当に恥ずかしい!)、この青年が『ハムレット復讐せよ』の主要登場人物の一人であることを、前作未読の僕はIさんに指摘されるまで気づきませんでした。この部分は、彼が恋人に宛てた日記風の書簡という胡散臭い形を取っているものの、冗長な語り口が僕にはありがたく、ここでほっとひと息。ところどころに文学上の造詣をにじませながらも、ガスリーの死までは軽口を叩くように綴られていく。僕の駄文にここまで付き合ってくれた方ならおわかりでしょうが、冗長は大好物。ギルビイとは気が合い、このパートは翻訳がはかどりました(推理小説との馴れ初めが、小学生のとき少ない小遣いを貯めて買ったポプラ社の『怪盗ルパン』シリーズや『少年探偵団』シリーズであり、友だち数人とめいめいの買った本を貸し借りして読んだ僕が、いいとこのお坊ちゃんと気が合うのは愉快)。しかし、ギルビイ青年も、ガスリーの死に接すると責任感の強さが顔を覗かせ、本来の生真面目な性格が記述にも反映され始めます。この切り替えは見事で、それがちゃんと訳出できていることを願うばかり。
 次の語りは弁護士のウェダーバーンによってなされ、ここからが言わば解決篇。ここには、というより、彼には、翻訳上の大きな罠がありました(然るべき知識があれば難なく避けられるし、そもそも罠じゃないだろうという指摘はごもっとも。当方スコットランドの事情には詳しくないので。翻訳を引き受けた者が臆面もなくよく言うな、と自分でも思います)。ウェダーバーンはwriterであると述べられているのです。当然のことながら(当然のわけない)彼は「作家」でもあるのだと思って読み進めていました。ご丁寧に、彼には近々本を上梓する計画があることまで述べられていて、罠の偽装は完璧。事情を知っている読者は、笑い、軽蔑さえするかもしれませんが、こっちはスコットランド方言の海の中を泳ぎ切ったつもりでいたので、こんな言葉に引っかかるとは思ってもいない。それが、Signet Libraryという言葉が出てくるあたりから、どこかおかしい、と思い始める。結論から言うと、writerは事務弁護士。作者には無知な日本人の訳者を引っかけようとする意図などまったくなく(これは当然)、最初からウェダーバーンの素性をはっきり明かしているので、こっちが勝手に躓いている体【てい】たらく。makerが詩人なら、writerが弁護士であるのは、前もって知らなくても類推できるだろう、と言われたら返す言葉がありません。ウェダーバーンは、法廷外弁護士協会(スコットランド王の玉璽使用を監督する権限を与えられた事務弁護士の集まりに起源を持つ組織)に所属する優秀な弁護士なのです。彼の説明によるガスリー墜死の真相は、本当によく考えられたもので、様々な伏線を綺麗に回収します。これだけで一つの作品にしてもいいと貧乏性の僕は思いましたが、わずかに解決されない部分が澱【おり】のように残る。
 それを解きほぐし、ウェダーバーンの描く犯罪の構図を一変させるのが、次の語り手であるアプルビイ。学者ネズミ(奇想にも程がある、もはや脱力ものの仕掛け)によってもたらされる、フリンダーズ医師(どんな人物か知りたい方は是非本書ご一読を!)の手記を挟んで、アプルビイは、ジグソーパズルに喩えられる犯罪の構図をもう一度組み立て直す。ベル老に「目から鼻に抜ける」と評されるだけあって、心理学用語や象徴を巧みに織り込んだ説明は鮮やかで、訳している僕が、真相が明かされた後の残りはどう展開させるつもりなんだろうと、余計な心配をしたくらい。
 しかし、僕も気にはなっていた一つの疑問がまだ解決していない。あれはどうなるのだろうと漠然と考えていると、ある衝撃的な事実が外部から(!)もたらされる。このあたり、日本の昔の推理小説によくある「神戸の市役所に行って戸籍を調べてみると……」といったご都合主義が匂わないでもない。(推理小説解決篇あるある?)しかし、イネスはこれにも伏線を張っていて、人物造形の一環だと思っていたものが巧みな伏線だったことを読者は思い知らされることになります。この事実を踏まえて、犯罪の真の動機を解明するのがジャービー牧師。いかにも頭の切れるアプルビイを差し置いて、ジャービー牧師が(もう、職業上の知見と言ってもいいと思う)心理的洞察を働かせて、七つの大罪の一つに数えられる動機を指摘する。この後、さらなる悲劇があり、ガスリー殺害の犯人が最終的に明らかになる。いい場面を攫っていくのが、ジャービー牧師とユーアン・ベルという老人コンビであるのが、終活という、真面目なんだかふざけているのかわからない言葉が視界に入って来つつある僕には好ましい。アメリカにいる関係者を思って二人が交わす会話にしみじみしたり、最後にエルカニー城まで足を延ばし、過去に落ちたままの城を眺めながらも、農場に帰ってきたギャムリー一家に未来の希望を見ているベル老の姿に、「これがやっぱり年寄りの正しい姿かな」と思ったり。
 訳し終えたとき、僕は素晴らしい作品を翻訳できた喜びを「僕だったら『世界傑作文学全集』の一冊に入れますよ」と、担当のIさんに熱に浮かされたような言葉で伝え、笑われた記憶があります。

 しかし――それ以後、出版にたどり着きそうな気配がまったくない。『白い僧院の殺人』が先に出たり、また別の作品の翻訳を依頼されたりしたものの、『ある詩人への挽歌』は、海外推理小説翻訳の迷宮の中にすっぽり落ちてしまった観あり。この間に、海外では本書に関係することで大きな政治的動きがあり、吃驚しました。イギリスのEU離脱です。スコットランドが独立を思いとどまった直後の、親方ユニオンジャックのEU離脱。スコットランドにはEU残留を望んでいた人が多く、これなら、独立住民投票のときに北海油田を抱えてイギリスから独立した方がよかっただろうと、すっかりスコットランド贔屓になっていた僕は考えました。北海油田の埋蔵量に不安があったか、独自通貨を持たないままの独立は危険だと思ったか。

 動きがあったのは、今春、すなわち二〇二一年春。めでたく出版の運びになったことが担当のIさんから知らされました。しかも「年寄りの言葉であることを示すのに、一人称の〈わし〉と語尾の〈じゃ〉だけで済まそうとするのは訳者の怠慢である」という旨の、尊敬措くあたわざる学窓先輩の言葉を引いて。ヘンリ・メリヴェール卿シリーズを〈わし〉と〈じゃ〉で乗り切ってきた僕にとっては、校正に際して釘を刺されたも同然。ドラキュラの心臓に刺すくらいの太い釘ですね。ですが、今の時代、年齢は性別以上に言葉遣いで表現するのが難しいもの。老齢を示そうとして不自然な言葉を用いるくらいなら、〈わし〉と〈じゃ〉で通すつもりでした。ちょっと控えめに用いて。完全な面従腹背で、育ちが悪いのは隠しがたい。野良生活が長かった猫が、保護された後もなかなか懐かず、ち○ーるをもらうときだけゴロゴロ言って、あとはシャーッと威嚇するのと同じ? 喩えが強引? 幸い、作品の時代が時代であり、場所がスコットランドの辺境、加えて作者の力量のお蔭で、僕の頭の中では登場人物の造形がくっきりと出来上がっていたので、これで悩むことはありませんでした(悩めよ、と自分に)。とにかく、それ以外で悩むところが目白押しでしたから。
 校正については、担当編集のIさんと外部校正の方のご尽力に甘え放題。先述したように、冗長な表現と同語反復は得意技であり、さんざ指摘されても直らない。訳語の統一もいい加減で、ある作品など、「〈台所〉と〈キッチン〉が混在しています。ちょうど半々、どうします?」と呆れたような問い合わせをされたくらい。翻訳あるある?……なわけないか。
 こうして、校正も無事に終えた今、「ギルビイの言うように『書き散らし』でいいですから」と乗せられ、あまり大っぴらにできない「独立あとがき」を本当に書き散らしています。育ちが悪いにもかかわらず、翻訳作品には恵まれてきました。とりわけ本書は素晴らしい。複数の語り手という設定を生かして、事件の構図を手品のように変化させる手際は誰もが名人の冴えと認めるでしょう。「だまし船」と言うのでしょうか、帆掛け船の帆をつかんで、目を一瞬閉じてから開けると、舳【へさき】をつかまされている、という折り紙がありますが、僕にはこっちの喩えの方がジグソーパズルよりもしっくり行くように感じられます(TVドラマ『相棒』にも出てきましたね、トリックとは関係がありませんでしたが)。あるいは、広げ方を変えると絵柄が変わる、子供向けの紙細工「変わり絵」の方がより適当かもしれません。
 しかし、最後に強調しておきたいのは、謎の展開もさることながら、語りが進んでいくにつれ、ラナルド・ガスリーという人物の輪郭が、より深く、暗い色調を帯びて浮かび上がっていくことです。鑿【のみ】で削られるようにして、細部の陰影に富んだ彫像が出来上がっていくと言ってもいい。初めは、奇矯な吝嗇家としか映らなかったラナルドが、最後には、過去の罪障に押しつぶされ、出口のない迷路に閉じ込められて精神に破綻をきたしていく悲劇的人物として迫ってくる。Lament for a Maker『ある詩人への挽歌』は、確かにダンバーのLament for the Makaris『詩人たちへの挽歌』を下敷きにしていますが、より直接的には、かつて真摯に詩作に向き合っていた詩人であるラナルドが、自らの罪のために魂を蝕まれていく悲しい過程を謳った『ある詩人への哀歌』でもあるのです。それゆえ、僕には、ユーアン・ベルが、以前ラナルドの詩に対して寄せられた心ない批評に憤る描写が深く心に残ります。本書において「詩人であること」「詩をたしなむこと」は特権的立場にあるのです。そう言えば、最後にベル老が未来への希望を感じ取るのは、ギャムリー家に嫁いできた女性が畑で歌う歌でした。「大地が声を限りに楽しげに歌っているように聞こえてくるから、きっとこれからも歌い継がれていくだろう」


■高沢治(たかさわ・おさむ)
1957年茨城県生まれ。東京大学、同大学院人文研究科に学ぶ。英米文学翻訳家。共訳書にディクスン『黒死荘の殺人』、訳書に同『殺人者と恐喝者』『ユダの窓』『貴婦人として死す』『白い僧院の殺人』などがある。


ある詩人への挽歌 (創元推理文庫 M イ)
マイケル・イネス
東京創元社
2021-11-29


貴婦人として死す (創元推理文庫)
カーター・ディクスン
東京創元社
2016-02-27


白い僧院の殺人【新訳版】 (創元推理文庫)
カーター・ディクスン
東京創元社
2019-06-28