数学と推理を対置させたミステリは、歴史上、多くの作例が存在する。真相を解明する際に、Q.E.D.と洒落(しゃれ)た言葉が使われる例も、それこそ枚挙(まいきょ)に暇(いとま)がない。しかしながら、作中での推理の論理強度を、数学上の命題の証明と同等にするのは、ほぼ不可能である。その論証が数学と同じ高みで輝くミステリを、人類は未だ持たない。

 そしてここに、数学への敗北、Q.E.D.への力不足をあからさまに認める小説が登場した。陸秋槎(りくしゅうさ)『文学少女対数学少女』(稲村文吾訳 ハヤカワ文庫HM 960円+税)がそれだ。ミステリ好きの女子高生・陸秋槎と、同級生で数学の天才・韓采蘆(かんさいろ)とが、《犯人当て小説》に興じる。本短篇集には、そんな短篇が4つ含まれている。

 いずれの短篇でも、作中作に適用される推理ロジックが、数学の世界では有名な命題になぞらえて解釈される。その解釈の果てに、犯人を特定せんとした推理は、根本的かつ原理的な欠缺(けんけつ)を指摘され、破壊されるのだ。それを言っちゃあお終い(おしめえ)よ、というツッコミが入ると考えてもらえば良い。しかもその後に《わからないものはわからない》《決めねばならないことは、決めれば良い》と、身も蓋もない決着を見る。

 ただ、その過程には、高校生活の空気感が実に鮮(あざ)やかに流れ、女子高生である陸秋槎と韓采蘆の、青春期の交流がくっきり立ち上がる。あの時期に特有の酸味と鋭さと痛みが、見事に表現されているのが良い。また、推理小説と想像力の持つ自由の魅力が、ぱぁっと読者の視界に広がっていくのだ。なるほど推理は確かに論理的には敗北する。だが小説の豊穣(ほうじょう)は失われたか? 推理の輝きは失われたか? 私は全くそうは思わない。あなたにはどう見ますか?

 豊穣な小説世界と言えば、アン・クリーヴスの名を忘れるわけにはいかない。『地の告発』(玉木亨訳 創元推理文庫 1400円+税)は、シェトランド諸島シリーズ第7弾であり、ジミー・ペレス警部が出席した葬儀中に大きな地滑りが起きる、という衝撃的な場面で幕を開ける。その直後、土砂で壊れた空き家からは、身元不明の女性の死体が発見される。しかも彼女は地滑り前に殺されていた。この物語は、《アリス》と称される彼女の身元捜しと、殺人事件の捜査により構成される。

 事件は主役ペレスの自宅近くで起きており、視点人物を務めるような登場人物も、軒並みペレスとは以前から親しく付き合っていることが多い。これは本作に限らず本シリーズの魅力であり、シェトランド諸島というスモール・コミュニティ(プライベートの情報が周囲に筒抜け)の特徴が活かされている。他方で、他人の家庭に口出しするなどの過剰な詮索やプライバシー侵犯は少なく、いかにも二十一世紀のヨーロッパらしい節度が描かれている。

 本作では、彼と仲の良い一家の描写が徐々に不穏になる中、被害者の身元調査が意外に難航する。ドラマとしては比較的スロースタートだが、その分丁寧(ていねい)に人物描写を行って小説として馥郁(ふくいく)たる余情を醸(かも)す。特にペレスと上司のウィロー――駐在地は本土であり、今のところは事件がない限りシェトランドには来ない――との恋愛模様は、ペレスの以前の恋人がああだっただけに、心理的障壁がいや増しており、恋愛小説としてなかなか味わい深いものがある。

 この物語のテンポの遅さは、伏線の緻密(ちみつ)さとリンクしているように思われる。本書で提示される真相の絵図はなかなか込み入っており意外性もたっぷり、それを指し示し解きほぐす伏線は、非常に丁寧に張られている。読者は終盤で、感心しきりとなるだろう。シェトランド諸島シリーズは、謎解きと小説が幸福な結婚を果たした最高の実例であり続けてきた。今回もその充足感を味わえることを喜びたい。