mysteryshort200


 1968年から70年にかけて、スタンリイ・エリンは、毎年、フランスを舞台にした作品を一編ずつ発表しました。「最後の一壜」「贋金づくり」「画商の女」です。ちなみに、それぞれの年のMWA賞短編賞の受賞作は「世界を騙った男」「さらば故郷」「リガの森では、けものはひときわ荒々しい」でした。エリンは60年代に、イタリアを舞台にした作品を二編発表していますが、このフランス三部作は、イタリアの場合とは異なり、パリのアメリカ人がそれぞれ重要な役割を果たし、現代のアメリカ人を見つめ続けたエリンが、世界の中でのアメリカとアメリカ人を描いてみせたものでした。
「最後の一壜」の語り手は、フランス人の共同経営者を亡くしたばかりの、パリ在住のアメリカ人ワイン商でした。死者が持っていた幻のワインの一壜を、彼は誰にも売らず、開けようともしません。壜を開けてワインがダメになってしまっているのを恐れてのことです。そこに大富豪のワイン通が現われて……という話。自信家の大富豪が唯一失敗したと感じているのは、まるで子どものような、あどけない女性(大事にされることが価値のギリシア人です)を妻にしたことでした。フランス人の生命とも言えるワインの、最後の一壜を握ったのは、アメリカ人で、そんな値をつければ、買おうという人は誰もいないはずの法外な価格を、しかし、フランス人が払うと言い出したのでした。「最後の一壜」は、端正な短編小説ですが、人目を引く復讐の方法そのものよりも、冒頭と最後に配されたシーンに、微笑ましさとともに、アメリカ人の主人公の驚きが込められていました。
「贋金づくり」の主人公は、まさにパリのアメリカ人そのものでした。つまり「正真正銘いなかっぺのアメリカ人観光客」です。戦争中の武勲はあるものの、うだつのあがらない主人公は、たったひとつの取り柄を買われて、印刷会社に所を得たのでした。その取り柄というのは……。フランス三部作の中では、唯一ハッキリしたクライムストーリイです。それは第二次大戦で決定的にヨーロッパに対して優位に立ったアメリカが、戦争後も、同じことを今度は民間でやることで、ヨーロッパの非合法なギャングどもを、アメリカの合法的なカンパニーが食い物にし、場合によっては葬ってしまっているのでした。
「画商の女」は、前二作ではヨーロッパを金で牛耳っていたアメリカが、逆に食い物になっている現実を踏まえていました。表向きの主人公はパリの因業な女画商です。目端の利いた彼女は、戦後、アメリカに絵の需要があると読むや、いちはやく安価な風景画をさらに買いたたくシステムを築いて、アメリカからの大量受注に備えたのでした。そして、そこでもっとも理想的な絵画の供給源は、アメリカから流れてきた貧乏画家だったのです。持ち込まれる絵は、即決の現金払い。ただし、売り値を言うチャンスは一度だけで、それが画商の女の買い値より高ければ、商談は不成立なのです。彼女が買わなければ、売れるかどうか分からない(たいがいは売れない)画廊への委託販売です。アメリカ人の画家は、唯々諾々と安い値で自分の絵を売るのでした。弱者が弱者を毟る。ヨーロッパ的ないじましさが、たまりません。その画家にくっついたのが「小柄で肌の浅黒いアルジェリア人の娘」でした。「ご面相はいたってお粗末ながら」「官能的な肢体を持っていた」のです。なにしろ、ジダンがまだ生まれてさえいないころの話です。画商の女には、アルジェリア娘を軽んじる気持ちがある。ふたりの間の子どもを身ごもった彼女は一計を案じ、ただ一度のチャンスで、故郷アルジェリアへの渡航費用を賄う算段をします。
 三部作の中では「最後の一壜」の世評が高いようですが、私は「画商の女」を推します。もちろん「贋金づくり」も平凡な作品ではありません。むしろ、70年代に入ってからのエリンの発想は、この「贋金づくり」から始まったと考えています。しかし、「画商の女」は、シンプルな構成の中に、登場人物の性格の襞に到るまでを描いたうえで、毛ほども緩みのない短編に仕上げた見事な作品です。後期エリンを代表するのは、この一編であると考えます。もっとも、この作品、最後にアルジェリア娘が書いた値を明かさない終わり方もあったはずで、そうなっていたら「決断の時」に続く、リドルストーリイとなっていたかもしれません。

 久しぶりに舞台をアメリカに移したのが、第三巻の幕間で詳細に読んだ、71年の「清算」です。フランス三部作でエリンが描いた、国際社会の中でのアメリカ人の姿は、国内においても描けること、そういう視野を持つことで、より、現代のアメリカ人を描きうることを示した傑作でした。
 72年の「壁の向こう側」は、冒頭と結末の部分を除いて、ほとんど会話だけで終始する、心理療法士と患者の話ですが、エリンには珍しい失敗作でしょう。手の内は早い段階であらかた分かる上に、手法としても目新しくはない。むしろ手垢がついている方です。ミステリマガジンの二百号記念号に掲載されましたが、その時も、いたく失望したのを憶えています。この年、エリンは長編『鏡よ、鏡』を書いています。そういう作法に傾いていたのかもしれません。
 73年の「警官アヴァカディアンの不正」は、唯一、小鷹信光名義で訳されたエリンです。EQMM73年12月号掲載を、ミステリマガジン74年2月号(73年内の発売です)で翻訳という異例中の異例の速さなのは、1973年が短編ミステリ評価の鍵となる年だったことの、ひとつの現われでしょう。この「警官アヴァカディアンの不正」は、最晩年のエリンのアメリカ観を示す、ひとつの典型となる作品でした。実直で不正を嫌う、職務規定に忠実な警官アヴァカディアン(セルピコみたいな感じですね)が組んだのは、ヴェテラン中のヴェテラン、すなわち、便宜もワイロもお構いなしの、退職を目前にしたシュルツでした。そのアヴァカディアンが、医者の誘拐事件に出くわすことをきっかけに、「警察官の腐敗とか不正といった問題に関して、あまり固苦しく考えるべきではない」と認識するに到る話です。同じ70年代に、パトリシア・ハイスミスが書いた「ネットワーク」を想起させる、個人的なコネクションが効果を発揮するニューヨークの姿が、そこにはありました。そして、日常を上手くまわすためには、犯罪すら、そこに組み込んでしまう。「清算」ののちに、エリンが見たアメリカは、そんな社会でした。
 翌年の「天国の片隅で」は、住みにくさが加速していく70年代前半のニューヨークを舞台にした、クライムストーリイでした。マンハッタンの一画で、コリウスの鉢植えに話しかけるのを唯一の生きがいにしている主人公が、殺人者になるまでの話です。けれど、『特別料理』に登場する殺人者たちと異なり、「天国の片隅で」のホッチキス氏は、一度だけの殺人を巧妙にやり終えたのち、犯罪とは無縁で平穏な、しかし住みづらいであろうニューヨーク暮らしに戻っていきます。「特別料理」「ブレッシントン計画」といった、エリンの代表作に顕著なように、殺人が計画的に社会に組み込まれているという発想は、そのキャリアの最初期から、エリンにしばしば見られるものでした。「倅の質問」のように、それが合法な場合さえありました。しかし、フランス三部作(とりわけ「贋金づくり」)と「清算」を経て、「警官アヴァカディアンの不正」以降、犯罪は時として、平凡な個人の生活にも不可欠なものとして組み込まれるという発想に達したようです。ホッチキス氏の殺人を「一度だけ」と先に書きましたが、火の粉が降りかかれば、二度目があるのは、言わずもがなです。
 76年の「世代の断絶」は、そんな犯罪が平凡なものとなった社会に生きる被害者の話でした。すなわち、危険なヒッチハイクを、周囲が止めるにもかかわらず(わずかな金を浮かせるために)続けているティーンエイジャーの娘です。いくらでも陰惨になりうる話を、そうはせずに、ヒヤリとしただけの話に留めながら、そうした社会が個人――被害者にまわる側であっても――の内側に何をもたらしたかを、巧みに描いていました。そして、それは戦後アメリカが時間をかけて招いたものだと、題名が示しています。続く77年の「内輪」と78年の「不可解な理由」「ゆえ知らぬ暴発」)の根本にあるのも、同種の発想です。「不可解な理由」は、一流企業の高収入が、高収入であるがゆえに不安定であるという、資本主義の論理の残酷さに、ある日突然、主人公が直面します。このある日突然(つまり事前に知らされない)のがキモで、高収入に慣れた生活設計は一朝一夕に変えられません。終身雇用が一般的であった、当時の日本では、実感しづらいクライムストーリイでしたが、四十年経って再読すると、実感は出来るものの、日本では異なった展開(よりタチが悪い気がしないでもありません)になるだろうなと思わせました。「内輪」は、反対に、これほど平和なクライムストーリイ(?)もないという話です。しかし、人のいい善良な主人公が、この結末を選んでしまう。犯罪が常態として組みこまれていなければ成立しない話でした。
 70年代の終わりから80年代にかけては、レンデルやハリントンが手厚いクライムストーリイを書く一方で、ローレンス・ブロックが、アメリカ社会が持つ、一歩間違えば誰でも遭遇しそうな陥穽を、巧みなプロットで描くクライムストーリイを書いていました。それらに比べて、「天国の片隅で」以降のエリンの短編は、鋭さに欠けるように初読時の私は感じていました。しかし、エリンの手厚さというものは、レンデルやハリントンとは別種の、屈折した手厚さであり、ローレンス・ブロックふうの行き方は、そもそも60年代までにエリンがやりつくした発想でもありました。
 どういう理由かは分かりませんが、「不可解な理由」よりものちの作品は、『最後の一壜』がポケミスで出る際に、収録されませんでした。なにか不可解な理由でもあるのでしょうか? 79年の「思わぬ買い手」、80年の「デザートの報い」、83年は「落書き」「ミセス・マウス」そして85年の最後の短編「秘薬」です。この年には、最後の長編Very Old Moneyも発表しています。亡くなったのが、その翌年の1986年ですから、生涯現役という言葉が当てはまると言っていいでしょう。その後EQ93年3月号に、「ファンレター」というコスモポリタン54年3月号に掲載された作品が、発掘されました。
「思わぬ買い手」は、地方の役場を舞台にして、地元有力者にささやかな便宜を図っているうちに、そこに勤める女性を有力者が見初めるという、お定まりの話なのですが、主人公の文書課主幹インス氏が、「魔がさし」て口をついたことから、一気に話が脱線していきます。エリンにしては軽く書かれた部類ですが、七〇年代のエリンの発想はやはり持ち込まれていました。翌年の「デザートの報い」は、「最後の一壜」の二番煎じとしか言い様がなく、さすがにエリンも衰えたかと思わせますが、翌年の「落書き」が、また奇妙な一編でした。ハンガリーからの亡命物理学者が、ニューヨーク名物の落書きの洗礼を、自分の自動車に受けます。ハンガリー時代からの学友でもある、もうひとりの科学者(世界的な言語学者なのでした)に愚痴ったところ、落書きに対する寛容さの違いや、学者としての格(どちらも優秀ではあるのですが)の違い、被害者がケチだったことなどが重なって、言い争いとなり、愚痴られた言語学者は、いささか不愉快な気分のままに食事をおごらされてしまう。翌日、その言語学者は、軽い復讐を思いつきます。食事時を狙って、昨日同様同席すると、さらに良いことに、ウィーン出身の冗談の分かる同僚が居合わせています。その席で、街じゅうに溢れる落書きのうち、ある種のものだけは言語学的に意味のある文章を構成したものだと、まことしやかに言ったのです。地球外から侵入した謀略工作員の相互連絡なのだと。「例えば、君は有能な物理学者だ。目の前に数式を突きつけられて、そこに見たこともないような記号が使われていたとしてもだよ、それが数式であることは一目でわかるだろう」なんて言われるので、つい信じるわけです。同席したオーストリア人が吹きだすまでは。第三者がいたために、復讐は予想以上の効果をあげ、物理学者が席を蹴ったあとも、残ったふたりは、本当にそうだったら怖いよなと大笑いです。しかし、翌日、事態は一変します。言語学者の家は落書きされ、しかも、昨日同席したふたりが事故に遭っている。言語学者の結末での描き方が、ばかばかしいだけのオチになることを救っていました。
「ミセス・マウス」は、コンピュータ・テクノロジーの最先端を行く技術者を、決定できない二者択一が襲いますが、「決断の時」の緊張感は、かけらもありませんでした。「秘薬」は、ニューイングランドの田舎で、クビ寸前の警察署長が、街の有力者を前にした会議で、入念に行った調査報告をするという話です。いかにも怪しげで胡散臭い医療関係の会社を、莫大な経費を使って追跡調査したものでした。そんなムダ遣いばかりしてと、難色を示していた一同が、最後に警察署長の首をつなげてしまうばかりか、新規パトカーの購入まで認めさせられてしまいます(購入に関するサゲが愉快)。スタンリイ・エリンという作家が、最後の最後まで、アメリカ社会の素描を描き続けたことを示した一編でした。
 エリンの死後邦訳された「ファンレター」という一編(初出はコスモポリタンでした)は、忘れられたサイレント映画の剣劇スター(台詞でつまずいてトーキーでは活躍できなかった)が、いまも復帰の声がかからないかと往時の肉体を保持しています。そこに現代(50年代です)の若い女性からファンレターが来て、喜びのあまり食事に誘った結果が……という話でした。ミステリではありませんが、短編小説としての綾にはさすがなものがあります。しかし、EQMMに書く時には、結末をこんな明示的な書き方にはしないだろうと思わせました。

「特別料理」がフレデリック・ダネイの眼にとまったのが、1946年11月でした。最後の短編「秘薬」はEQMM1985年12月号に発表されました。約四十年の間に、発掘された「ファンレター」を含めて五十に満たない数(コスモポリタン掲載作で未訳のものがいくつかあるようです)の短編を、エリンは残したことになります。そのキャリアを通じて、アメリカ人の手になるアメリカ人とアメリカの社会を描いたクライムストーリイを、一貫して書き続けました。しかも、その着想も技法も、常に一編一編が一から組み立てられていて、わずかな例外を除いて、自身の過去の手法やパターンの再生産再利用といったことには、見向きもしませんでした。そうした、ひとつことを成す頑固さや信念と、それが支持される環境は、たとえば、劇評家のブルックス・アトキンスや、イラストレイターのアル・ハーシュフェルドといったニューヨークで名を成した人々――アメリカの文化のもっとも洗練され力強い部分――を、私に連想させます。ニューヨーカーという人種の地力を、ミステリの世界で体現した作家。それが二十世紀最高の短編ミステリ作家スタンリイ・エリンへの、私の評価となります。


※ EQMM年次コンテスト受賞作リスト(最終更新:2021年9月9日)



短編ミステリの二百年1 (創元推理文庫)
モーム、フォークナー他
東京創元社
2019-10-24


短編ミステリの二百年2 (創元推理文庫)
チャンドラー、アリンガム他
東京創元社
2020-03-19


短編ミステリの二百年3 (創元推理文庫)
マクロイ、エリン他
東京創元社
2020-08-24


短編ミステリの二百年4 (創元推理文庫)
リッチー、ブラッドベリ他
東京創元社
2020-12-21


短編ミステリの二百年5 (創元推理文庫)
グリーン、ヤッフェ他
東京創元社
2021-06-21