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 1970年代以降、晩年のパトリシア・ハイスミスは、ますますミステリからは離れていきました。そのことは、第五巻第十二章でハイスミスを読んだところでも指摘しました。そのハイスミスが行きついた地平の、短編における代表が、『世界の終わりの物語』の一冊でしょう。しかし、この短編集を読む前に、クライムストーリイにおける、ハイスミスの到達点を確認しておきましょう。すなわち、ウィンターズ・クライムに提供された、ふたつの短編。「またあの夜明けがくる」「家族決定」です。
「またあの夜明けがくる」は、77年のWinter’s Crimes9の訳書の表題作であるのみならず、訳書が出る前にミステリマガジン81年6月号に掲載されました。同書は、既訳の数編以外は中村能三の訳し下ろしでしたが、クリスティの『カーテン』訳了を目前に、中村能三が亡くなったその翌日、編集部に届いたWinter’s Crimes9の訳稿から、追悼(このときの大久保康雄と永井淳の追悼文は、中村の劇的な死もあって、たいへん興味深い)の一編として選ばれたのが、この作品でした。また、ジョージ・ハーディングが選んだウィンターズ・クライムの傑作選にも、採られました。
 この作品については、幼児虐待をあつかった秀れたクライムストーリイだということは触れてきました。しかし、冒頭一ページあまりで、四人の幼子の育児に追われ、夫の理解は得られず、子どもに手を出すに到ったばかりか、すでに身体の動きさえ鈍くなっている(末の子が血を流しているのに、髭剃り中の無頓着なはずの夫の方が、その子のもとへ行くのが早い)ことまで、描写の力だけで示してしまう。小説家ハイスミスの実力全開です。レイガンというアイリッシュ系の苗字が示すように、夫婦はカトリックで、そのことを言うと、ソーシャルワーカーも避妊を奨めなくなる(ヒロイン自身は避妊したいのですが、夫が許さない。「彼女ひとりならピルを飲んでいただろうが」を受けて「ひとりなら避妊なんかする必要もないのだ」というのが、とてつもなくおかしく、とてつもなく苦い)とか、夫は熟練工で結構な収入もあるけれど、幼子四人を抱えては無理なはずのローン(の払いも滞りがち)の買い物が多い。といったエピソードもリアルです。ヒロインはさらに五人目を妊娠し、コントロールの効かない子どもたちに苛立ち、夫が呑みに出ると、子どもを放置して、彼女も酒場へ行ってしまう。留守の間に悲劇は起こり、病院に電話するために近くの店の公衆電話へ行きます。小銭がないので店員が貸してくれ、それがために店員の視線が気になって……というくだりは、この一編のハイライトでしょう。人間の弱さ残酷さをハイスミスは絶対に逃さない。ある意味で予想される通りに展開する物語の中に、これほどまでの現実に観察されうる厚みを盛り込むことが出来るうえに、ヒロインの感覚が正常でなくなる、幻想的な領域に到るところまでも描ききる。ハイスミスの傑作でした。
「家族決定」は、その十年後87年の『ポメラニアン毒殺事件』に収められました。主人公はパーキンソン氏病にかかって、日に日に身体の動きが不自由になっている画家です。生きることそのものに苦痛を感じるようになっている主人公は、同時に妻をも嫌っている。がさつで無神経で、おそらくは彼の芸術を理解しない。大切なものは娘とその家族に残したいのでした。かくして、動きのままならない病人が殺人を企図するという、ありそうでないユニークなクライムストーリイでした。もっとも、それだけなら、危なっかしい犯罪遂行場面のサスペンス(少々ユーモラス)頼みの佳作に終わったでしょう。結末のひとひねりに、単なるアイデアや技巧といったものを超えた恐ろしさがあって、それゆえ、この作品をハイスミスが書いた短編クライムストーリイの最後の秀作にしました。

『世界の終わりの物語』は原著刊行が著者の亡くなる八年前の1987年。「家族決定」が発表された年です。邦訳は2001年に出て、若島正が解説を書きました。「小説はどんなことを題材としてもいいし、それをどう書いてもいい。それはそうなのだが、やはり『書いてはいけないこと』は歴然としてある」として、その領域にハイスミスも踏み込んだというのです。「これを評してブラック・ユーモアと呼ぶのは、事態をごまかすことにしかならない(中略)こうした作品群は書いてはいけない小説であり、読んで笑ってはいけない小説である」と。もちろん、ユーモアがあることは百も承知です。若島正自身、おそらく何度か笑ったんだろうなと、私などは考えています。ま、邪推ですが。私はもちろん、幾度も大笑いです。とくに「ホウセンカ作戦 あるいは“触れるべからず”」「〈翡翠の塔〉始末記」なんかですね。もっとも、初読時は「(ブラック・ユーモアと)呼んで、事態をごまかされてしまうなら、ごまかされてしまう方が悪い」などと書いています(『本の窓から』)が、そこは少々反省しています。平気でごまかされて恥じないどころか、真面目に正論だと思い込む人が、多いと知ったからです。
 巻頭の「奇妙な墓地」を読むだけで、この短編集の在りようは了解できます。病院の裏手にある墓地には、研究用の検体や堕胎や流産で世に出た胎児が、埋葬のために送られてきます。ところが、検体の中には癌細胞に、抗がん剤はむろんのこと、発がん物質を投与したものも含まれていて、日本と違って土葬ですから、そのまま廃棄されている。ある日、墓地の管理人が、そこでマッシュルーム様の奇妙な植物を発見します。気味悪いままに放置していると、それがみるみる繁殖していく。癌と戦うための科学研究が、「ありそうか、なさそうはともかくカタストロフ」(短編集の原題の意訳です)を招く。その狂騒的な戯画でした。オーストラリアの小さな町という設定ですが、登場人物の名は中東欧的でもあって、ファンタスティックな状況設定になっていました。
 これが「ホウセンカ作戦 あるいは“触れるべからず”」になると、さらにナチュラルです。スリーマイル島事故の直後のアメリカ。廃棄物の処理法に困った政府が発案したのは、地方の大学に陸上競技兼用のアメリカンフットボールの競技場を寄贈することでした。ただし、そこの地下には巨大な倉庫があって、秘密のうちに保管しようというもの。つまり、そこに貯め込んで頬かむりです。ところが予定に反して、すぐに倉庫は満杯目前で、おまけに原子力規制委員会のメンバーのひとりが視察途中で閉じ込められてしまう。そこから、すったもんだの騒ぎが始まります。
「ナブチ、国連委員会を歓迎す」は、若島正も指摘するとおり(というか、誰でも分かるでしょうが)に、イーヴリン・ウォーの『黒いいたずら』の「線に近い」のですが、今回読み返して、さすがに、これは古くさいと思いました。『黒いいたずら』はもうじき書かれて百年経ちますからね。そこから一歩も出ていなければ、そうなるのは必然。初読時にそう感じなかったのは、アフリカと西洋文明との関係について、こちらの認識がアップデイトされていなかったのでしょう。これと「自由万歳! ホワイトハウスでピクニック」が、いかにもブラック・ユーモアという作品でしょうが、こちらは初読時から指摘していたとおり、精神病に関する無知や理解のなさが露骨で、ハイスミスの弱点がもろに出た作品でした。にもかかわらず、ミス・ティラーとバートのコンビは、この短編集中唯一といっていい魅力のある登場人物で、彼らの部分は、むしろ、まっとうなユーモアに満ちていました。
「白鯨Ⅱ あるいはミサイル・ホェール」は、巨大な鯨が人間に追われ、死ぬまでの顛末ですが、本書よりも『動物好きに捧げる殺人読本』に、鯨編として収まるのがふさわしい一編です。超高級高層マンションを大量のゴキブリが占拠する「〈翡翠の塔〉始末記」も、ゴキブリ編として同書に入る資格があるかもしれません。むしろ『動物好きに捧げる殺人読本』のところで、ひとつだけ取り除けておいた「ハムスター対ウェブスター」が、『世界の終わりの物語』に入るべきでしょう。
「ハムスター対ウェブスター」は、きわめて単純な話です。有能なセールスマンのウェブスター氏は働きすぎから健康を損ね、仕事の量を減らし、ストレスのない生活を求めて、妻と息子を連れて郊外住まいを始めました。プールも作れる広い庭。ペットも飼おうという話になり、息子はハムスターの番(つがい)を手に入れます。ところが、ハムスターは繁殖力が強く、あっという間に数が増えるうえに、息子は息子で、持て余した友だちのハムスターを内緒で引き受けたりして、とんでもないことになる。怒られて庭に放したものだから、芝生の穴はハムスターだらけになってしまう。ここから、業者も匙を投げるハムスターとの闘いが始まり、スラップスティックコメディそこのけの混乱のうちに、ウェブスター氏がハムスターの大群に噛み殺されてしまうという話。人間対動物の対決という点では、他の『動物好きに捧げる殺人読本』の諸篇と同じですが、異なるのは、ハムスターが愛玩動物であり、人がペットとして飼い始めたという一点です。父の死を目前にして、なお「ハムスターは土地と、家庭と、子供を守る権利を持っている」とハムスターに声援を送ったウェブスター氏の息子が、一件落着したのち「自分がやっと一人前の男になったのを感じ」る結末の閉塞的な苦さは、この一編がブラック・ユーモアであることを示していました。
『女嫌いのための小品集』に連なる発想なのが「〈子宮貸します(レンタ・ウーム)〉対〈強い正義(マイティ・ライト)〉」です。代理母(人工授精した卵子を、夫婦に代わって自分の子宮で育てて出産させる)や堕胎を、宗教的な理由から非難する〈強い正義〉の、社会的キャンペーンに対抗するため、自ら〈子宮貸します〉というキャッチーな名称の団体を立ち上げるという話です。教会(そこは、どうも〈強い正義〉派らしい)の教えのままに、代理妻に嫌悪感をおぼえる、頑迷で老いた両親を持つヒロインは、自身が看護師で夫が医師、勤務する病院では代理出産を実施しています。おまけに親友は代理妻として妊娠中で、〈子宮貸します〉の主要メンバーなのでした。
これらの作品は、狂ったようなユーモアの果てに、無力感しか残らないという意味で、ブラック・ユーモアと呼ぶべき作品群でしょう。成功したもの(「ハムスター対ウェブスター」「〈子宮貸します〉対〈強い正義〉」。後者の読後感はほのぼのとしていますが)もあれば、失敗作(「ナブチ、国連委員会を歓迎す」「自由万歳! ホワイトハウスでピクニック」)もある。しかし『世界の終わりの物語』の最後の三編は、さらに異なった貌を見せています。
「見えない最期」は二百歳を超えて、養護施設で寝たきりで生きながらえている老婆の話です。すでに死んでいる息子はもちろん、周囲の生を吸い取るかのようにして、ただ生きながらえているだけの「思考も理性も経済力も、とっくの昔に失ってしまった」存在。陰々滅滅とした、ユーモアのないブラック・ユーモアでした。最後の二編「ローマ教皇シクストゥス六世の赤い靴」「バック・ジョーンズ大統領の愛国心」は、ハイスミスにしては意外な感を与える政治小説でした。前者はローマ教皇が、訪問先のメキシコで、突然「解放の神学」派の神父を認めるかのような発言をしてしまう。そのあげくの騒動を描いたもので、読み応えはあります。「解放の神学」が何かくらいは、知ってから読む方がいいでしょうが。後者はソ連が存在するころのアメリカ大統領の戯画化で、最後には核戦争による破滅に到る破滅SFでもありますが、破滅に到る道筋が杜撰にすぎて買えません。それにソ連相手というのは、もはや、失われた過去ですね。
 パトリシア・ハイスミスは、アメリカの作家の範疇からはみ出した独特の個性で、日本にも多くの読者を得ました。1970年代から本格的に顕かになった、クライムストーリイの優秀な書き手としての姿は、『11の物語』を代表とする短編集で知ることが出来ます。『女嫌いのための小品集』を経て、最後の短編集『世界の終わりの物語』で、余人の到達しえない地点に達したことを、ハイスミスは示しました。しかし、同じ年の暮れに、ウィンターズ・クライムに「家族決定」を提供することで、クライムストーリイにおいても、同様にユニークな存在であったことを、私たちミステリファンの心に刻んだのでした。


※ EQMM年次コンテスト受賞作リスト(最終更新:2021年9月9日)



短編ミステリの二百年1 (創元推理文庫)
モーム、フォークナー他
東京創元社
2019-10-24


短編ミステリの二百年2 (創元推理文庫)
チャンドラー、アリンガム他
東京創元社
2020-03-19


短編ミステリの二百年3 (創元推理文庫)
マクロイ、エリン他
東京創元社
2020-08-24


短編ミステリの二百年4 (創元推理文庫)
リッチー、ブラッドベリ他
東京創元社
2020-12-21


短編ミステリの二百年5 (創元推理文庫)
グリーン、ヤッフェ他
東京創元社
2021-06-21