幸せを望むどころか、その日一日を生きることが精いっぱいの人間もいる。倉数茂『あがない』(河出書房新社 1900円+税)は、かつて会社員時代に薬物依存症に陥(おちい)って家族と離れ、今は解体作業員として生活している男、祐(たすく)の話だ。その日一日、薬に頼らずに平穏に過ごす。彼が心掛けているのはそのことだけ。だが、ある日、若く気ままな男が新たな作業員として現場に加わったことから、祐の日常に不穏な空気が漂い始める。
 途中で挿入されるのは、祐が通う自助グループの人たちの告白。みな反社会的な人間だったわけでなく、思わぬところで足を踏み外し薬物依存から抜け出せなくなった。祐自身も妻子のいるごく普通の会社員だったわけだが、だが、実は思いもよらない体験をしていて……。祐の過去が明らかになる部分はサスペンスフル。

 ままならない心と身体と格闘しながら、毎日毎日を生き延びるのに必死なのは、薬物依存者に限らないだろう。むしろ現代社会において、そういう人は多いかもしれない。その切実さを実感する中篇だ。

 さて、いよいよシリーズ第二部がスタートしたのが、阿部智里『楽園の烏(からす)』(文藝春秋 1500円+税)。大人気和風ファンタジーである。八咫烏(やたがらす)たちが人間に姿を変えて統治している「山内(やまうち)」。平安王朝のような世界での妃選び、武漢養成学校で切磋琢磨(せっさたくま)する少年たち、敵対する大猿たちとの対決など、第一部ではさまざまな角度からその世界を描いて魅了してくれたが、なかでも驚いたのは第五巻の『玉依姫(たまよりひめ)』で、この「山内」の世界が我々の現実世界と繋(つな)がっている、と明かされたこと。


『楽園の烏』もまた、現実社会のエピソードから始まる。資産家の養父から山を相続した安原は、ある夜、謎めいた女に連れられて山へ向かう。そして彼は一人、山内へ送られる。突然異世界に飛び込んだ彼がそこで見たものとは……。

 第一部の最終巻、『弥栄(いやさか)の烏』の大猿との死闘から20年後の世界が舞台。物語の中心人物だった雪哉も歳を重ねて、威厳のある存在に。懐かしい名前もちらほら、新しいキャラクターも加わり、舞台も山内のあちこちへと移動。山内のことを何も知らない安原の視点があるため、改めてこの世界のおさらいができるのも読者には親切。だが、この安原、かなりのクセモノ。いくつかの事件を経て終盤には「!」の連続。いやあ、物語に引き込む筆力は健在。この第二部、今後どんな展開が待っているのか楽しみだ。

 最後に原田ひ香の『口福(こうふく)のレシピ』(小学館 1500円+税)を。さまざまな作品を発表するなか、最近は料理をモチーフにした作品で好評を得ている著者の新作だ。フリーのSEとして働く品川留希子は、電子レンジを使った手軽なレシピをSNSにアップし、駆け出しの料理研究家としても活動中。実は彼女の実家は老舗(しにせ)の料理学校を経営する一族で、留希子は後を継ぐことを嫌って家を飛び出した身だ。一方、留希子の曾祖父の時代、品川家に奉公するしずえは、セロリの調理法を工夫して食卓に出したところ学校長でもある旦那様から調理法を書くように言い渡され、苦労して何度も書き直していた……。
 時代のなかで生き方を模索する女性たちの物語。家庭料理の変遷(へんせん)もなるほどと思わせ、また、レシピには基本的に著作権がないといっても、試行錯誤を重ねて誰もが実践できる手順を研究してきた人々に敬意を抱かせる。料理を題材にした小説は多いが、こういう切り口もあったのだなと興味深く、新鮮な気持ちで読んだ一冊。