まず翻訳から。クリスティーのデビュー100周年・生誕130年の節目の年ということで、早川書房クリスティー文庫から6ヶ月連続の新訳版刊行がはじまっています。その第一弾はアガサ・クリスティー『予告殺人〔新訳版〕』(羽田詩津子訳 クリスティー文庫 1120円+税)です。同叢書で書名に新訳が謳(うた)われるのは記憶の中では初めてですが、新訳じたいは創刊時から徐々におこなわれていて、ハヤカワ・ミステリ文庫版からは既に全体の三割ほどが切り替わっています。


 田舎(いなか)町のローカル新聞〈ガゼット〉紙は投書欄や広告欄が住民の交流に欠かせない存在です。その新聞に、町のある屋敷で殺人事件が起きるという広告が掲載されました。好奇心から集まる隣人たちに屋敷の女主人は心当たりが無いと告げますが、予告された時刻に灯りが消え銃声が轟(とどろ)き、本当に事件が起きてしまいます。

 ミス・マープルものの長篇代表作です。凝った催しなのかと隣人が集まってきてしまう長閑(のどか)さが裏切られる抜群の発端が素晴らしい。作中で目を引くのは、犯人の殺意の萌芽(ほうが)となる大胆すぎる伏線を敷いていることで、ここは誰しも読み返したくなるところでしょう。個人的には、被害者がいずれも無垢な振舞いであることが、犯人の印象を際立てる要因として注目すべきだと考えています。

〈名作ミステリ新訳プロジェクト〉からはG・K・チェスタトン『知りすぎた男』(南條竹則訳 創元推理文庫 800円+税)が出ています。上流階級の出自で政財界に顔がきく探偵役ホーン・フィッシャーを主人公とする連作短篇集で、既訳は原書にならってノンシリーズ短篇が併録されていますが、この新訳版はフィッシャー登場作に絞られています。


「知りすぎた男」フィッシャーが事件の政治的背景を察知できてしまうため、英国の国益を損ねるわけにはいかないので迂闊(うかつ)に真相を公(おおやけ)にできないという特異な設定が面白い。時代背景として、第一次大戦を経験し情勢が不安な大戦間の英国で書かれた小説だというのは押さえておく必要があって、最終作「彫像の復讐」が迎える驚きの結末もその延長線上にあるでしょう。ミステリとしておすすめしたいのは「釣師のこだわり」で、発端から結末までフィッシャーの設定が存分に活きた筋ですね。似たような動機をもちながらこちらは寓話のように落としていく「塀の穴」のほうが、チェスタトンの小説としては優れているかもしれません。

 国内ではまず天城一『天城一の密室犯罪学教程』(日下三蔵編 宝島社文庫 1180円+税)が、復刊というよりは待望の文庫化ですね。密室ミステリに関する理論とその論に基づいた創作をまとめる、〈本格ミステリ大賞【評論・研究部門】〉を受賞した代表作です。



 第一部実践編・第二部理論編の構成でまとめられた同題の私家版に、シリーズ探偵摩耶正の登場作を第三部として増補集成した作りとなっています。巻末に付された「密室作法〔改訂〕」の冒頭の一文で(極論すれば、ひとつの論理式で)密室ミステリを定義するあたりは天城の面目躍如(めんもくやくじょ)たるところで、「逆密室」「超純密室」といった言葉の選び方も一様に琴線(きんせん)にふれます。実践編は極端に表現を切り詰められて、小説を読むというより試験問題の模範回答集さながらです。とにかく密室ミステリについて言及する上では必読の資料で、若い方にはぜひおすすめしたい。

 ただ編者が新たに寄せた序文でも触れられていますが、親本はもともと「わかっている天城ファン」に向けた編み方だったため、第二部理論編で第三部の内容にふれてしまう箇所があります。この文庫版で初めて目にするという方はまず創作をひととおり読んでから、「密室作法〔改訂〕」~第二部理論編の順番に進んでいただくのがよいでしょう。また評論では自作に限らず著名作の内容に多数踏み込んでいますから覚悟が必要です。