渡邊利道 Toshimichi WATANABE


フレドリック・ブラウンSF短編全集4

 フレドリック・ブラウンは、アメリカSFの、いわゆる〈黄金時代〉を代表する作家の一人である。奇抜なアイディアと巧みなストーリーテリングを駆使した洒脱なスタイルで、ユーモアたっぷりの軽妙な作品からサスペンスタッチのシリアスな作品まで、長編も短編も得意とし、さらにはSFのみならずミステリでも多くの傑作を書いた。日本でも早くから翻訳紹介され、星新一、筒井康隆、坂田靖子、草上仁など多くの作家、漫画家が愛読者として知られている。

 一九〇六年、オハイオ州シンシナティに、フレドリック・ウィリアム・ブラウンFredric William Brownとして生まれた。インディアナ州のハノーヴァー大学に学び、四〇年ごろ「ミルウォーキー・ジャーナル」で校正係として働きはじめ、同時期に小説の執筆も開始。いくつかの小文やミステリ短編を発表、SFでは四一年に雑誌デビューを果たした。その後は出版社でさまざまな大衆雑誌の校正に携わりながら数多くの短編、ショートショートを発表。四七年に最初の長編で、SFではなくミステリの『シカゴ・ブルース』The Fabulous Clipjointを刊行し、MWA最優秀第一長編賞を受賞した。四九年には最初の長編SF『発狂した宇宙』What Mad Universe、五一年には短編集『宇宙をぼくの手の上に』Space on My Handsを刊行。旺盛な執筆活動を続けながら、慢性的な呼吸器疾患に苦しみ、中西部からニューメキシコ州タオス、アリゾナ州ツーソンへと転居を重ね、ついに七二年帰らぬ人となった。作品のいくつかは映像化され、また自身ハリウッドで、アルフレッド・ヒッチコックのテレビ番組への脚本を提供したこともある。

 ブラウンは「笑い」を好んだ作家であった。マック・レナルズとともに編んだアンソロジー『SFカーニバル』Science-Fiction CarnivalのテーマをユーモアSFに設定し、序文で人間とその他の生物を分つのは笑いを解するかどうかであるから、とその理由を説明しているが、ブラウンにとって「笑い」とSFには本質的な結びつきがあったように思える。
 ことに短編において好んだのが駄洒落である。駄洒落とは、言葉の発音の類似や、意味の多義性、同じ意味を持つ違う言葉や、逆に音が同じで違う意味になる言葉などを利用した言葉遊びだが、多くの場合、類似した発音の言葉の意味上の違いが対比されることでナンセンスな効果が生まれるのを狙ったものだ。
本巻収録の作品では、「ひどすぎ」「ジェイシー」「不運続き」などがそれにあたる。一読、ああそういうことかと脱力するタイプの作品とも言える。ブラウンは校正係だったという職歴の影響か、とくに「印刷された言葉」の表記的な言葉遊びにも熱心で、本全集一巻に収録された「天使ミミズ」などはそれを一種のメタフィクション性を備えた〈世界の創造〉にまで結びつけた傑作である。また言葉の意味の多義性を軸に、意味の取り違えや文脈の勘違いを使った作品も多く、本巻収録のものでは、タイトルに色を示す言葉が入った「悪夢」の連作がある(こちらのほうはずっと陰惨な印象を受けるものだが)。笑いにせよ陰惨さにせよ、それらの感情を生み出すのは人間が〈理解する〉という行為そのものの脆弱さである。それは自分が理解している〈意味〉が、他人にはまったく共有されていないのではないか、という一種根源的な人間の孤独をブラウンがつねに意識していたということだろう。
 先日めでたく新訳が刊行された傑作ミステリ短編集『真っ白な噓』Mostly Murder)に収録された「叫べ、沈黙よ」では、「森の奥で人知れず倒れた木は、音を立てなかったと言えるのか。聞く耳のないところに音はあるのか」という疑問が冒頭に置かれ、短編の語り手はそれに対し次のような解答を与える。
「〝音〟という語を辞書で引くと、ふたつの意味が載っている。ひとつは〝一定の範囲内における媒質――通常は空気――の振動〟で、もうひとつが〝そうした振動が耳にもたらす効果〟だ。(中略)だから、きみたちの主張は両方とも正しいわけだ。〝音〟という語をどちらの定義でとらえるかの問題にすぎない」(越前敏弥訳)
 本巻収録の「唯我論者」という作品では、この世界のすべては自分の想像上の産物で、ただ自分しか世界には存在しないと考える人物が登場し、実際その通りであることが示される(物語には無論その〈先〉がある)。
 このような、一種極端なまでの観念論的な世界観は、ブラウンの作品に哲学小説というか、ここはSFらしくスペキュレイティヴ・フィクションの相貌を与えていると言うべきだろう。またこの思弁性というのは、現在でも世評が高い三つの長編ではSFというジャンルそのものに対する批評性として発揮されている。前述の『発狂した宇宙』は、熱狂的なSF読者の内的世界を多元宇宙テーマでスラップスティックにパロディ化して見せ、五三年発表の『天の光はすべて星』The Lights in the Sky Are Starsは、若者を主人公にすることが多いSFで、あえて老境にさしかかった五十七歳の宇宙飛行士の物語であり、五五年の『火星人ゴーホーム』Martians, Go Homeは、あきらかにSFの始祖の一人であるH・G・ウェルズの『宇宙戦争』を意識して、最初から最後までひたすらギャグを繰り返し続ける唯一無二の破天荒な作品であった。どの作品も短編と同質の世界観を共有しつつまた違った魅力を放っているので、この短編全集が気に入った人はぜひご一読を。
 ところで、本全集三巻の解説で若島正氏は、ブラウンの個人の精神内で世界のありようがすべて決定されてしまうような傾向を「狂気」のモチーフに結びつけ、それを同時代のアメリカで隆盛を迎えていた精神医学と関連づけて論じているが、同時代の事象としてもう一つ重要な影響を与えていると思われるのが核戦争の恐怖である。
 当時、第二次世界大戦後に台頭したアメリカとソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が、世界の覇権をめぐって激しく対立し「冷戦」と呼ばれる状態が生じていた。原子爆弾から水素爆弾へと大規模な破壊と殺戮を可能にする兵器が開発され、さらに大量に装備され続けたことで、もしそれらの核兵器が使用される戦争が起これば、人類が絶滅することは間違いないという事態にまで至る。
 それまで人類の破滅といえば天変地異によるものと相場が決まっていて、それも大抵は天罰とか神様がらみの宗教観に支えられたものだった。それがいまやただ愚かなだけの戦争による自滅という、きわめて世俗的、現実的なものとして現れたのだ。ドイツの哲学者ハイデガーは、神なき時代において、死を覚悟することにより、人は自己の生の有限性を自覚し、より良き生を目指す倫理的切実さを得ることになる、
と考えたが、核戦争による人類絶滅の危機は、人類全体にそういう存在論的な不安を抱かせたのだと言える。
 このような時代背景が、「科学技術と人類の運命」についての原理的な考察を促し、この時期のアメリカSFに〈黄金時代〉と呼ばれる大きな飛躍を生み出した要因の一つだったと考えられる。
 そういう視点で見れば、例えばアーサー・C・クラークの『地球幼年期の終わり』などは、さしずめ、消えたはずの神様を宇宙人というかたちで密輸入したものと言えなくもない。ブラウンは、短編集『天使と宇宙船』Angels and Spaceshipsの序文で、SFはファンタジーの超自然的要素を科学的な説明に置き換えれば書けると語っているが、実際多くのSF作家が、進化論を都合よく使って破滅しかかっている人類を超人類に変容させたり、ハイデガー風にいえば「決意」によって破滅を回避する「より良き」技術的発展を目指す未来を描いたりしたわけだが、それらも基本的に宗教を科学に置き換えたものと言えなくもないだろう。
 ブラウンの作品の中にも、神様や人間よりもはるかに文明の進んだ宇宙人のような〈高次の存在〉がしばしば登場する。しかしそれらの存在は、人間に対して大抵の場合きわめてサバサバしていて、人類の運命はほぼ偶然に(時には駄洒落のようなナンセンスな理由で)決まってしまう。
 そこでブラウンがもっとも重視している要素は、前述したようにやはり「笑い」である。
 フランスの詩人シャルル・ボードレールは、「笑い」についてあるエッセイで、次のように書いている。
「笑いは本質的に人間的なものであるから、本質的に矛盾したものだ、すなわち、笑いは無限な偉大さの徴であると同時に無限な悲惨の徴であって、人間が頭で知っている〈絶対存在者〉との関連においてみれば無限の悲惨、動物たちとの関連においてみれば無限の偉大さということになる。この二つの無限の絶え間ない衝突からこそ、笑いが発する。滑稽というものは、笑いの原動力は、笑う者の裡に存するのであり、笑いの対象の裡にあるのでは断じてない。ころんだ当人が、自分自身のころんだことを笑ったりは決してしない、もっとも、これが哲人である場合、自分をすみやかに二重化し、自らの自我の諸現象に局外の傍観者として立ち会う力を、習慣によって身につけた人間である場合は、話が別だが」(「笑いの本質について、および一般に造型芸術における滑稽について」『ボードレール批評1』阿部良雄訳、ちくま学芸文庫)
 ブラウンの小説世界は、すでに見たように文脈から切り離された〈意味〉が浮遊し偶然によって接続される極端な観念論的世界である。そこでは事実と妄想が区別されず、もちろん自己と他者も区別されない。ゆえに、滅びゆく愚かな人類の悲惨を味わいつつ、それを観念的な高みから笑うことができるのだ。
 重要なのは、ブラウンが、自分が書いているものが小説(フィクション)であることにつねに自覚的だったことである。人間は誰しも必ず死ぬし、現代の科学が教えるところによれば、ほぼ確実に人類もいつか死滅する。その現実的条件から逃れる術はない。しかし、想像の世界において、人は誰でも(というわけにはいかないかもしれないが)死ぬ自分自身の愚かさを親しみのこもった笑いをもって見つめることができる。その慰めにこそユーモアの最大の力があり、エンターテインメント作家としてのブラウンの真骨頂があるのだ。



【編集部付記:本稿は『フレドリック・ブラウンSF短編全集4 最初のタイムマシン』解説の転載です。】



■ 渡邊利道(わたなべ・としみち)
1969年生まれ。作家・評論家。2011年、「独身者たちの宴 上田早夕里『華竜の宮』論」で第7回日本SF評論賞優秀賞を受賞。2012年、「エヌ氏」『ミステリーズ!』vol.90掲載)で第3回創元SF短編賞飛浩隆賞を受賞。