mysteryshort200


 老舗のミステリファンクラブであるSRの会は、毎年、その年に出たミステリから、日本のものと翻訳ものの両方で、ベストを選出しています。第一回が1962年と言いますから、60年近く続いていることになります。1971年に、そのベスト選出10周年を記念して、会員の投票をもとにした、62~71年の10年間のベスト10が発表されました。翻訳ミステリは次の10作でした。
 ロス・マクドナルド『ウィチャリー家の女』、ジョン・ル・カレ『寒い国から帰ってきたスパイ』、セバスチアン・ジャプリゾ『シンデレラの罠』、パトリシア・モイーズ『死人はスキーをしない』、ジョナサン・ラティマー『処刑6日前』、ハリー・クレッシング『料理人』、ギャビン・ライアル『深夜プラス1』、ディック・フランシス『度胸』、ジョイス・ポーター『ドーヴァー4/切断』『切断』)、ランドル・ギャレット『魔術師が多すぎる』
 このうち、パズルストーリイはモイーズ、ポーター、ギャレットの三作です。とはいえ『死人はスキーをしない』は原著刊行が59年ですし、モイーズの作品は上品ではあっても外連味がない。しかし、ポーターとギャレットは、そうではありません。
 ランドル・ギャレットは本来SF作家であり、ダーシー卿のシリーズを書いた(発表はおおむねSF雑誌でした)ので、ここに名前が残ることになりました。ちなみに、ケメルマンの短編集『九マイルは遠すぎる』は71年の7位(2位が『魔術師が多すぎる』8位が『密室殺人傑作選』)で、10年間のベスト10には入りませんでした。60年代から70年代にかけての、パズルストーリイ低迷の時代に、わずかに気をはいていたのが、ジョイス・ポーターとランドル・ギャレットだったとは言えるでしょう。
 私が本格的にミステリを読み始めたとき、ジョイス・ポーターは、すでに最初の四長編の翻訳が出そろっていて、破天荒なユーモアパズルストーリイとして評価が定着していました。なにしろ、探偵役がまともに捜査をする気がない。飲み食いに熱心で、容疑者をあてずっぽうで犯人呼ばわりする。登場したときの、ドーヴァーもののユニークさは、そうしたドーヴァーの無茶な言動に、犯人が勘違いしたり、神経を逆なでにされたあげく、自滅していくところにありました。ドーヴァーが謎を解くのではなく、ドーヴァーの前に、謎が勝手に解けてしまうのです。それは確かにユニークではありましたが、何度も使える手ではない。シリーズの代表作が『ドーヴァー4/切断』になることは、異論がないと思いますが、『切断』が評価されたのは、奇想天外な真相のもたらす解決の意外性と、考えオチめいた結末でしょう。また。それらのことが、ドーヴァーの個性と無関係だとは言えません。しかし、パズルストーリイとして、真にユニークで、爆笑のうちにミステリのパラダイムを壊していたのは、それ以前の長編でした。
 ドーヴァーものの中短編は60年代の末から書かれ始めます。最初の邦訳は「急げドーヴァー!」でした。傍若無人で食い意地のはったドーヴァーの個性と、それに耐え忍ぶマグレガーというふたりの関係は、長編と同じどころか、むしろ、おなじみのコンビといった感じで小説が始まります。いつものごとく腹をこわしたらしいドーヴァーは、事件現場に着くなりトイレに駆け込みますが、おかげで犯人を見つけました。70年の「どうどうドーヴァー」は、没収した容疑者の所持品の中から万年筆を失敬したために、ドーヴァーは犯行方法を看破できました。もっとも、ドーヴァーの解決は、自分だけが見つけた事実による、推理というより決めつけに近いのも事実で、犯人の自供とワンセットか、マグレガーとの間で交わされる会話どまりであることが多いのです。
 やはりトイレが鍵となる「臭い名推理」や、周囲に被害者を知る人間が誰もいないという「ドーヴァー汗をかく」といった作品では、ドーヴァーの推理は、普通の名探偵に近いものになっています。それらの中では「ここ掘れドーヴァー」が、まともな推論を積み重ねながら、なおかつ根本的なところでずっこけているという、ドーヴァーらしさが巧くパズルストーリイに溶け込んでいました。ドーヴァーが恐妻家というのも面白くて、かつ、謎解きと不可分なのが、また楽しい一編でした。
 さらに、取り上げる価値があるのが「ドーヴァー森を見ず」「ドーヴァーもみ消す」です。一大企業を所有する大金持ちがいて、遺産を相続したがっている親族が何人もいるのに、オーストラリアにいる会ったこともない青年を唯一の相続人に指定している。他の親族はあてがい扶持の飼い殺しです。そんなところに、オーストラリアから青年がやってくると、それが他の親族に輪をかけて会社を任せられそうにない(青年がパンクらしいのが時代色でしょうか)。大金持ちが男か女かという違いや、会社の営業内容の相違はあるものの、「ドーヴァーもみ消す」「ドーヴァー森を見ず」の改作なのでした。ところが、犯人も動機も同じで、展開も大きくは変わらないにもかかわらず、この二作は、同工異曲ではありませんでした。「ドーヴァーもみ消す」では、ついに、ドーヴァーは、それまでの単に不愉快な警官から、悪徳警官への一歩を踏み出したのでした。「ドーヴァーもみ消す」は、ミステリマガジンの依頼でポーターが同誌に書き下ろしたもので、英語版が発表されているのかどうか分かりませんが、シリーズ中の異色の一編となっていました。
 ポーターには、ドーヴァー警部のほかに、もうひとり、オノラブル・コンスタブル・エセル・モリスン・バーグことホン・コンおばさんというシリーズキャラクターがいます。田舎住まいのオールド・ミスという点で、クリスティにおけるミス・マープルと対応すると見る人もいます。女版ドーヴァーともいうべき強引さと、マグレガーにあたるミス・ジョーンズ(ホン・コンはボーンズ=骨と呼びますが)が、ついています。
 働かずとも食べていけるホン・コンは、持ち前の行動力のはけ口を求めて、私立探偵の看板をあげているというので、ドーヴァーよりは積極的に(他人および警察の迷惑も顧みず)事件に介入していきます。それだけに、ホン・コン自身が、推理し捜査するので、普通のパズルストーリイになっていて、それにしては魅力的な謎や解明に乏しいうらみがあります。その中では「気になる隣人事件」が、隣家で買い入れる牛乳が多すぎると、ホン・コンが疑い始めるのが、面白い着想で、その後の展開も動きが多いのが、功を奏しています。仮説をたてては確かめるための行動に出て、あげくは進行中の事件に闖入してしまい、サゲがまた愉快でした。このほか、相棒のミス・ジョーンズの窮地を救う「“瓢箪から駒”事件」や、切手収集家の些細な紛失事件から、陰湿な企みを発見する「盗まれた切手」といった作品が、目を引きますが、ドーヴァーものに比べると、平凡なことは否めません。

 ランドル・ギャレットのダーシー卿とマスター・ショーンのシリーズは、その根本アイデアによって、作品の成功は半ば約束されたと言ってもいいでしょう。つまり、歴史のある時点から現実とは別の歴史を刻んだ、パラレルワールドの現代――科学の代わりに魔術が基礎となって文明が成り立つ、プランタジネット朝の英仏帝国を舞台にして、ミステリを書いたところに、魅力のほぼすべてがありました。とくに最初の翻訳となった唯一の長編『魔術師が多すぎる』は、魔術師の大会における密室での魔術師殺害という、魅力たっぷりの設定でした。名探偵ダーシー卿には魔術師のタレントがなく、相棒のマスター魔術師ショーンが、数々の魔法で卿をサポートしますが、そこには一定のルールがあって、出来ること出来ないことがある。それゆえに、現実とは異なった不可能興味が喚起されるという仕組みです。
 原著刊行66年の『魔術師が多すぎる』に先立って、ギャレットはこのシリーズの中編を三作書いていて、それらも追って訳されることになりました。「その眼は見た」「シェルブールの呪い」「藍色の死体」です。70年代半ばのことで、『魔術師が多すぎる』が文庫化されたのに続いて『魔術師を探せ!』としてまとめられました。ジェイムズ・ヤッフェのママ・シリーズ同様、これもアメリカでは一冊になっていなかった、日本独自の短編集で、『魔術師が多すぎる』のインパクトがいかに強かったかを物語っていました。
『魔術師を探せ!』は、その後改訳版も出ましたが、ダーシー卿ものの特色が長所も短所も現われている作品集です。「その眼は見た」は、殺人の被害者が死の直前に見たものを、魔術で再現するという、非常に魅力的なアイデアが出てきます――しかも、その像からは簡単に目撃したものが判明しないという設定が、また巧み――が、如何せん、それを謎解きに結びつけていないのが、もったいない。「シェルブールの呪い」は、宿敵ポーランドのスパイによる陰謀が登場し、スリラーとしての面白さを発揮しています。このシリーズが、外套と短剣と魔法の国の話であることが、分かります。そして三作めの「藍色の死体」「青い死体」)では、公爵崩御にあたって、予め丹精込めて作っておいた棺を取りだしたところ、中から全身を青く染められた死体が転がり出るという、これまた魅力的な発端で、謎解きの仕上がりも見事でした。難を言えば、解決の仕方がいささかすっきりしないことで、ありていに言うと、ギャレットはミステリを書くのが、あまり上手ではない。それに、本来は長編を構成すべき内容なのかもしれません。それでも『魔術師を探せ!』は愛すべき中編集でした。
 これら三作の予行演習ののちに『魔術師が多すぎる』が書かれました。たっぷりと分量を取り、魔術の支配する世界での、密室の謎解きとスリラーの魅力を盛り込んだ秀作です。ただし、密室の謎解きはカーター・ディクスンのトリックの改良形で、解決の仕方が地味というか、もう少し外連味があっても良い内容だとは思います。
 ダーシー卿のシリーズは本国で短編集が編まれなかったことなどから、アメリカでの評価は、いまひとつなのかと私は思っていました。ただ21世紀に入り、ギャレットが亡くなってみると、結局は彼の代表作となったようです。シリーズはその後も中短編が書き継がれましたが、出来はいまひとつです。中では、ショーン(が中心となります)とダーシー卿が、密命を帯び、変装して乗り込んだ大陸横断急行で殺人が起きる「ナポリ急行」が、クリスティの『オリエント急行の殺人』を下敷きに遊んでみせて愉快です。最初からまる分かりながら、変名でショーンが描かれていくのに、ニヤリとします。もっとも、それなら『オリエント急行』の下敷き部分を、もっと早い段階で明かした方が良かったでしょう。このあたりにも、ギャレットのミステリ下手が出ている気がします。アシモフのSFミステリのアンソロジーに採られた「イプスウィッチの瓶」は、ダーシー卿とポーランドの女スパイの対決が面白く、「苦い結末」は、なぜ被害者は毒の苦みに気づかなかったのかというホワイダニットが新鮮ですが、どちらも中編と呼ぶべき分量で、それだけの美点では、この長さは持ちません。

 ジョイス・ポーターは、破天荒で掟破りの探偵役を創造することで、パズルストーリイにショックをもたらしました。ランドル・ギャレットはSF的な発想の世界観をミステリに持ち込むことで、パズルストーリイの新しい在りようを示してみせました。しかしポーターの行き方は、あくまで例外的なものであり、真似手もなければ、真似たところで二番煎じにしかならないものでした。ギャレットのダーシー卿ものは、その後、歴史ものに雪崩をうっていったイギリスミステリを予言するかのようでしたが、魔術による謎とその解明というユニークさと同等なものを、後続の歴史ミステリに発見するのは至難の業でした。
 60年代の末に、ハリイ・ケメルマンのニッキイ・ウェルトとジェイムズ・ヤッフェのママが退場し、ジョイス・ポーターとランドル・ギャレットというユニークな書き手は、そのユニークさゆえに潮流を形成するには到りませんでした。ウィリアム・ブルテンはいかにも非力であり、エドワード・D・ホックは出来に差がありすぎた上に、玉よりは石が多かった。こうして、パズルストーリイの命脈は一度尽きたかに見えたのでした。


※ EQMM年次コンテスト受賞作リスト(最終更新:2020年11月27日)



短編ミステリの二百年1 (創元推理文庫)
モーム、フォークナー他
東京創元社
2019-10-24


短編ミステリの二百年2 (創元推理文庫)
チャンドラー、アリンガム他
東京創元社
2020-03-19


短編ミステリの二百年3 (創元推理文庫)
マクロイ、エリン他
東京創元社
2020-08-24


短編ミステリの二百年4 (創元推理文庫)
リッチー、ブラッドベリ他
東京創元社
2020-12-21