渡邊利道 Toshimichi WATANABE


【編集部付記:本稿は『6600万年の革命』のストーリー展開の核心に触れています。】




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 本書は、カナダのSF作家ピーター・ワッツが二〇一八年に発表した中編小説The Freeze-Frame Revolutionの全訳である。原著には本文中に暗号が仕込まれていて、作者のウェブサイトに存在する短編へ誘導する仕掛けになっていた。暗号はこの小説の基底を為すモチーフであり、非常に心憎い演出ではあったのだが、本書ではそのボーナス・トラック的な短編“Hitchhiker”も訳出して収録し、暗号に関しては形を変えて組み込んである。
 この二作は、作者が二〇〇九年から断続的に発表してきた中短編のシリーズ《Sunflower cycle》に属しており、既発表作の「島」“The Island”、「ホットショット」“Hotshot”、「巨星」“Giants” は、創元SF文庫既刊の短編集『巨星』に収められている。物語の時間順と作品の発表順は異なっていて、必ずしも順番に読んでいく必要はないので、『巨星』を未読の方も安心して本書をお読みいただきたい。もちろんすでに読んでいる方にとっては物語の空白を埋める楽しみが味わえ、本書読了後にふたたび『巨星』のページを繰りたくなること請け合いだ。

《Sunflower cycle》の物語の大枠は以下の通り。
 二十二世紀から、人類は銀河系にワームホール網を構築するためのゲートを建造する恒星間宇宙船を複数打ち上げる「ディアスポラ計画」を開始した。計画を実行するのは小惑星を改造し、その中枢に時空特異点を据え駆動システムにした巨大な宇宙船で、通常の運行はAIに管理させ、一隻あたり三万人の乗組員は、単純な論理的推論では解決不能の複雑な事態に陥ったときにだけ冷凍睡眠から覚醒させられる。というのも、AIは勝手にシンギュラリティを迎えて計画を歪めることがないように設計されていたからだ。乗組員たちもまた、計画から逸脱しないように遺伝子改変と教育が施されていたが、恒星船〈エリオフォラ〉では、気が遠くなるほどの長大な時間が経過したことで地球との連絡が途切れ、船の外の人類がどのような進化の道筋を辿ったのか、あるいは絶滅してしまったのかも定かでない状況になって、自分たちの使命に疑問が浮かびはじめていた……
 そして本作(表題作)は、出発から六千五百万年が経過した未来、乗組員のサンデイとリアンが、構築したゲートの向こうから現れたグレムリンに襲撃される場面からはじまる。グレムリンとはコミュニケーション不可能な怪物で、人類が邂逅した異星人かもしれないし、もしかすると恐ろしい方向に進化した未来の人類なのかもしれない。そしてこの襲撃をきっかけに、リアンが「ディアスポラ計画」に反発心を抱き、さらにそれは知能が抑えられていることから「チンプ(チンパンジー)」と蔑称で呼ばれている、船を操るAIへの敵意へと発展する。地球を出発する前は「計画」に対して反抗的な態度をとっていたサンデイは、リアンから「革命」に誘われるが、現在の彼女はチンプと独特の精神的なつながりを感じていて、賛成も反対もしない傍観者的な態度をとる。しかし、船には秘密があって……と、数百万年をかけた「革命」の顚末と、サンデイとチンプの種族を超えた関係性が、スペキュラティヴかつエモーショナルに描かれる。
 本作の最大の特徴は、舞台となる宇宙船と、そこで経過する時間の桁外れの巨大さが、むしろ物語世界に非常に狭く閉じられた印象を与えるところだろう。〈エリオフォラ〉の乗組員たる人間たちは基本的に眠っていて、常に船を管理しているチンプが必要に応じて選抜した数人を覚醒させるわけだが、それはほぼ順繰りに数千年に一度という頻度であり、出発から六千五百万年経過してもみな十数年しか年齢を重ねていない。この外界の時間の流れと人間たちの内面の成長に要する時間のアンバランスさが、彼らに故郷である地球とのつながりを失わせ、いったん「ディアスポラ計画」を棚上げして、チンプの管理/支配を脱し、人間である自分たちの自由を獲得するための「革命」に身を投じさせるのだが、地球人類の歴史との断絶が強調されることで、小説としても、宇宙船の内部に視点が限定されてしまうのだ。たとえばゲートから現れるグレムリンなどは、普通のSFであればその存在の不気味さについて、それが本当にはどういう存在なのか? と追求されるはずだが、本作では終始物語のホラー的なサスペンスを盛り上げる背景的小道具に過ぎない扱いを受ける。
 また、全編が主人公サンデイの視点で語られているために、彼女が覚醒するたびに事態が変転していることになって、何が起こっているのか、物語のあちこちに空白が生じる。それが〈エリオフォラ〉の中に、サンデイが知らない空間が複数存在するのともシンクロして物語の見通しを悪くさせ、サンデイが「革命」に対してアンビバレンツを感じているのと同じような宙吊りの感覚に読者を陥らせる。もっとも、作者のこれまでの長編『ブラインドサイト』『エコープラクシア 反響動作』(ともに創元SF文庫既刊)の複雑な文体に比べて、本作の語り口はずっとストレートで明快なものであり、宙吊りの感覚は、宇宙船のすべてを管理し、あらゆる情報を握っているAIに、数千年に一度、ほんの数日覚醒するだけの人間たちがどうやって反旗を翻すのか、主人公であるサンデイがどういう行動を選択し、チンプとの一種独特な関係がどのような結末を迎えるのかという緊張感が最後まで持続する要因となっている。
 また、本作に登場する、行動心理学における条件付けを連想させる「設計」概念や、人間に期待されるのが「水平思考」であるという記述などから、それら懐かしの概念がお気に入りだったA・E・ヴァン・ヴォークトの作品を想起させることなども、本作がワッツの作品中ではどことなく往年のスペースオペラのようなリーダビリティの高さを獲得しているように感じる要因かもしれない。
 もっとも、相変わらず宇宙船などに関する物理的なディテールは緻密で、ファンタジックな物語にハードSFの世界設定をきっちり構築しているので、その点も大いに楽しめるはずだ。
 ところで、前述した本作全編を覆う宙吊りの感覚は、作者がこれまでずっと大きな主題としてきた「自由意志」という問題から意図的に構成されたものだろう。
 私は以前、作者ピーター・ワッツが、結果的に「自由意志」をラディカルに排除してしまう「デジタル物理学」をベースに宇宙を描いていることについて、『エコープラクシア』の解説で詳述したことがある。そしてその向こうに「神」を極めてアイロニカルな視点で導入していると論じた。
 本作の中で、チンプは単なるプログラムであって、“人格”と呼べるようなものでない、とサンデイはじめ〈エリオフォラ〉の乗組員は考えている。しかし、彼らは同時に、自分自身についても、遺伝子改変と教育によって、「ディアスポラ計画」に邁進するように「設計されている」と考えている。したがって、チンプの裏をかくことは、自分たちをそのように設計したものたちへの反抗なのだが、そのような〝設計者〞の存在は小説のかなりはじめの方からサンデイ自身によって何度も言及されているにもかかわらず、本作では最後まで曖昧な位置に止まっている。結末に至って、さらにその〝設計者〞をも超克する存在が示唆されるのだが、それはまるで作品に結末をつけるために取ってつけられた任意のもののようにさえ見える。
 短編集『巨星』の解説で高島雄哉氏は、デジタル物理学的世界観において排除される知性や意識や、愛が、機械論的な必然性を超える契機となりうるのではないか、とやや修辞疑問的に述べられているが、本作ではそれは、サンデイがチンプに感じるどうしようもない愛着と、チンプがサンデイに向ける“特別扱い”に似た親しみを持った態度に強く現れているようだ(もしかしてそこにリアンを加えた三角関係を見ることもできるかもしれない)。
 この二人(あるいは三人?)の関係性について考えるとき、まず私が想起したのはカントである[1]。その『純粋理性批判』に登場する第三アンチノミー「諸現象の説明のためにはまだ自由による原因性を想定することが必要である/いかなる自由もなく、世界のうちにあるすべてはもっぱら自然の諸法則に従って生成する」の対立は、自由意志と決定論の問題として理解できるが、カントはそれを独特のやり方で解決した。端的に言えばそれは、人間の認識には限界があって、これらの究極の問いには原理的に答えられない、とするものである。しかしカントは、自然を認識することにおいて理性の限界を認めつつ、人間が、他者を目的(人格)として扱うことによって、自由を獲得できると『実践理性批判』において主張する。人間の理性を、自然を認識する「純粋理性」と、社会(共同体)の中で道徳的に行為する「実践理性」に分けて考えることで、カントは人間の主体的な自由を確保し、それを「わが上なる星しげき空とわが内なる道徳法則」と極めて詩的に表現しているのだが、本作もまた、〈エリオフォラ〉という共同体の中でどのように振る舞うか、という実践理性の問題を描いていると考えることができるだろうと思うのだ。
 さらに私が想起したのが、SF読者には「サイボーグ・フェミニズム」という概念で有名な、アメリカの科学史家にして文化批評家のダナ・ハラウェイが二十一世紀になって提唱した「伴侶種」という概念である[2]。本作の中で、サンデイはリアンから「チンプのペット」と揶揄されるのだが、小説の描写を読めば、むしろチンプのほうがサンデイに“懐いている”ように見える。ハラウェイによれば、人間とある種の動物との関係性は、単なる支配や従属、あるいは保護や癒しといったありがちな観念を超えた特異性を有しているというのである。それは、「共棲(co-habitation)や共進化(co-evolution)、そして具体化された異種間社会性」であって、「人間と人間ならざるもの、有機的なものと技術的なもの、炭素とシリコン、自由と構造、歴史と神話、富者と貧者、国家と主体、多様性と枯渇、モダニティとポストモダニティ、自然と文化とを、予想もしないかたちで結びつける」試みなのだ。あらゆる存在は、自己を、他者を、それが何であるのかを誰もあらかじめ知ることはできない。互いに敬意を持って接する行為の中で、人とある種の動物はお互いを見出し、愛が生成する、とハラウェイは言うのだが、本作の中で、サンデイとチンプの間に愛が生成していると言えなくもなさそうだ。
 もっとも、本作のラストで示唆される存在が、暗号解読を通して読まれるべき、同時収録の短編「ヒッチハイカー」にそれらしき姿をあらわすや、あれほどポストヒューマンなたたずまいを纏っているにもかかわらず、そのすべてを「人間」の内側に回収するようなセリフを語るわけで、まったくもってワッツは意地悪な作家だと思わずにはいられない。おそらく彼(?)は、『ブラインドサイト』『エコープラクシア』に登場する吸血鬼と同質の存在であるに違いないのだが、しかし「わたしはきみたち以上に人間だよ」とは、どういう意味なのか?
 この謎は、次なる作品においてまた複雑に展開される、あるいはあっさり解き明かされることになるのかもしれない。

1 以下、カントに関する引用は有福孝岳訳「純粋理性批判 中」『カント全集5』(岩波書店)、坂部恵・伊古田理訳「実践理性批判」『カント全集7』(岩波書店)による。
2 以下、ダナ・ハラウェイに関する引用は永野文香訳『伴侶種宣言』(以文社)による。




【編集部付記:本稿はピーター・ワッツ『6600万年の革命』(創元SF文庫)解説の転載です。】



■ 渡邊利道(わたなべ・としみち)
1969年生まれ。作家・評論家。2011年、「独身者たちの宴 上田早夕里『華竜の宮』論」で第7回日本SF評論賞優秀賞を受賞。2012年、「エヌ氏」『ミステリーズ!』vol.90掲載)で第3回創元SF短編賞飛浩隆賞を受賞。