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 パトリシア・ハイスミスの『風に吹かれて』は、79年にまとめられた短編集で、70年代に書かれたハイスミスのクライムストーリイが中心になっています。内容的には『11の物語』の延長にあると言っていいでしょう。とはいえ、巻頭の「頭のなかで小説を書いた男」は、題名のとおり、死ぬまでに、頭の中でだけ十四冊の小説を書き上げ、出版することはもちろん、原稿としてさえ残さなかった男の、短かい話でした。それ以外にも、「池」のようなホラーや、シュールレアリスティックな幻想譚である「島へ」といった、クライムストーリイではない作品も含まれています。「木を撃たないで」は、近未来の原子力テクノロジー万能の時代に、突然、天変地異が襲いパニックが起きるSFでした。
 そうした、ハイスミスの多彩な抽斗を示すものの中では「ネットワーク」が出色の出来です。76年の作品ですが、主人公はニューヨークに住む、58歳で病気療養中の会計事務員です。医療給付を受けることで、働かずに生活が出来ていますが、職場からは復帰を求められる一方、他の会社からの誘いもある。しかし、彼女は同時に、多様な職種のニューヨーカーたちから成るネットワークの世話人として、その連絡係の役割を果たしているのでした。彼らは生活や仕事の上で、互いに便宜をはかり合うことで、ニューヨークでの生活を安全で――ニューヨークは危険な街ですから――快適なものにしている、いや、それ以上に、そこで生きていく上で絶対に必要なものとしているのでした。そんなところに、あるメンバーの甥(正確には甥の息子)のグレッグが、家具のデザイナーになるためにやって来る。さっそく、メンバーの一人が開くパーティで、みんなに引き合わせ、家具デザイナーの第一歩となる道筋へのコネを探し始め、それはすぐに見つかります。ただ、当の本人は、そういう関係にいささかうっとうしさを感じていて、自分の力だけでやれると考えているらしいのです。以前紹介したクリストファー・ラ・ファージの「プライドの問題」が、第二次大戦前の東部上流階級内部のコネ社会を描いていたように、「ネットワーク」は70年代のニューヨークで、ホワイトカラーの中産階級として生き抜いていくために、やはり必要なものとしてのコネ社会の在り様を描き、その背景には、危険と隣り合わせの街という実態――グレッグがネットワークの軍門に下ったのは、立て続けに追いはぎと空き巣の被害にあったからでした――があります。登場人物の誰もが、自分たちのネットワークによる利便を、当然のものと考えて、最後まで微塵も疑わないことで、逆にグレッグが当初感じたはずの息苦しさにさえ慣れてしまう不気味さが出ていました。
 クライムストーリイとは言っても、ハイスミスのそれが、一筋縄でいかないものなのは『11の物語』「モビールに艦隊が入港したとき」「もうひとつの橋」といった短編に明らかです。「池」同様に70年代のうちに邦訳がでたのは「ウッドロウ・ウィルソンのネクタイ」「チボール蝋人形館」「大統領のネクタイ」)と「風に吹かれて」そして「またあの夜明けがくる」です。
「ウッドロウ・ウィルソンのネクタイ」はマダム・タッソーがモデルとおぼしき蝋人形館に通い詰めた男の話です。ある夜、こっそりと閉館後も居残り、ウッドロウ・ウィルソンの人形のネクタイを持ち帰ってしまいます。彼にとっては、血まみれの展示物の間を深夜に徘徊するのは、大きな冒険で、ネクタイはその冒険の証なのですが、それは他の人には与り知らないことにすぎないどころか、どうも、ネクタイの紛失にさえ誰も気づかないようなのです。彼がさらなる刺激を求めて計画したものというのは……。「風に吹かれて」の主人公は成功した経営コンサルタントで、半ば引退する恰好でメイン州に館を構え、一人娘はスイスの寄宿学校で学んでいます。ところが、隣人というのが代々の居住者で、土地も川の所有権も握って手放さない(おかげで釣りが出来ないのです)。おまけに、帰省した娘はそこの息子と良い仲になる。怒りが殺意に嵩じて……というクライムストーリイでした。両作ともに、犯行を隠す気がないどころか、死体を展示してしまう不気味さですが、「風に吹かれて」の方が、主人公のオブセッションが薄気味悪く、しかも、犯行に気づきながら沈黙を守る使用人が、これまた怪しくて、異様な犯行を粘っこく描くハイスミスらしさが出ていました。
「またあの夜明けがくる」は、両親による幼児虐待を冷酷な筆致で描いて、一級品のクライムストーリイです。1977年の作品ですから、EQMMコンテストのところで読んだエリザー・リプスキイ「慈悲の心」から四半世紀が過ぎ、事態は過酷さの度合いを増していました。ただし、この作品はウィンターズクライムに書き下ろされた一編でもありました。このアンソロジーのシリーズは、のちに重点的に読み返す予定なので、この作品もそこにとっておくことにします。
 これら以外の「奇妙な自殺」「ベビー・スプーン」「割れたガラス」といった作品も、犯行そのものよりも、犯行以後の展開がもたらす奇妙な人間像に焦点をあてていることで、ハイスミスらしさを見せていました。とくに推奨したいのが「一生背負っていくもの」です。夫が留守中のある夜、押し込み強盗に遭遇した妻が、これを逆に殺してしまう。罪に問われることもなく、誰一人彼女を責める者もない。にもかかわらず、それまでの生活との違和感が、彼女が気づくところにも気づかないところにも、しこりのように残ってしまう。夫婦ふたりともに。結末の一文のほんのりと苦いこと、絶妙の一言につきました。

『ゴルフコースの人魚たち』は訳者あとがきに「純粋な意味でのミステリを集めたものではない」とあるように、クライムストーリイでさえないような短編も多く含まれています。表題作は、大統領の経済顧問の男が、狙撃された大統領をかばって負傷したことから、時の人となり、大統領からは豪邸をプレゼントされています。有卦に入った彼は、さらに女性ジャーナリストに気をひかれている。豪邸でのパーティで彼女とのツーショットを撮られてしまい、それが妻には気に入らない……という話。最後に拳銃沙汰になるので、クライムストーリイと言えなくもありませんが、無理に言う必要はない。拳銃沙汰はあくまで結果であって、そこでの夫婦間の機微が眼目だからで、それを描くのに拳銃沙汰は必須ではありません。
「事件の起きる場所」はマスコミの寵児となったカメラマンを通して描いた、出版界と講演商売の関係の風刺というか戯画でした。「クリス最後のパーティ」は、多くの俳優を育てた名演出家(とは明言されていませんが、多分そうなのでしょう)の最期を看取るために集まった、彼の弟子たちの話。ともに平凡な部類でしょう。「僕には何もできない」「残酷なひと月」「ロマンティック」は、対人関係をうまく築けない人々の素描という点で共通しています。三作とも、ハイスミスにしては毒がないというか、対象に同情的でさえあります。この中では、秘書の仕事先でしか男と出会う術のない若い女が、最初のチャンスで約束を反故にされ、待ちぼうけを食ったことで、異様な形で自分ひとりの内に籠ってしまう「ロマンティック」が、その異様さゆえに佳作となっていました。
「狂気の詰め物」は、ペット好きが嵩じて、死んだペットを剥製にしては庭のそこかしこに置いている妻に、主人公がうんざりしています。しかも、通信社の記者がカメラマンともども取材に来ることになる。そこで一計を案じて、かつての愛人(関係が発覚したときに妻が妊娠中だったので、泣く泣く別れたのでした)そっくりのマネキンを、剥製の中に紛れ込ませて展示します。「無からの銃声」はメキシコ旅行中の主人公(アメリカ人です)が、シェスタのさなか、町のど真ん中で少年が射殺されるのを目撃します。ところが、誰も警察に連絡を取ろうとしないばかりか、事件をないものにしたいようなのです。見かねた主人公が通報すると、警察は彼を逮捕してしまうのです。
「凶器の詰め物」の主人公が到る狂気も、「無からの銃声」の主人公が陥る異様な状況も、着眼点は不気味なのですが、ハイスミスの基準――といって、ハイスミス以外には書く人もいないのですが――で言えば、細部の説得力にやや欠ける。同じことは、この短編集全般に言えて、少々落穂ひろいの感なきにしもあらずです。
 そんな中で「カチコチ、クリスマスの時計」は、主人公の英文学教授が、かつての優秀な教え子で、いまは才能のない詩人である男を、精神的経済的に支えています。そこに些細な紛失事件が起きて、疑いをかけるところから、ふたりの関係にひびが入る。『風に吹かれて』「ベビー・スプーン」に似た展開ですが、「ベビー・スプーン」の裕福な主人公と貧乏な子どもよりも、こちらの方が、ふたりの関係に綾がある。もっとも、そうしたシチュエーションは、ウィリアム・オファレルの「その向こうは――闇」を想起させて、そうなると分が悪いのも事実でした。
 クライムストーリイとして異色なのが「ボタン」です。主人公は税理士ですが、申告の期限を目前にして、毎年多忙を極める時期です。彼の息子は知的障碍があって、意思の疎通も難しい。妻は仕事を投げうって、育児に専念しているのですが、彼にはストレスに満ちた生活です。顧客や同僚への不満やありとあらゆる生きづらさが、結局は息子の障碍のおかげと考えてしまうのが避けられない。あげく、彼は見ず知らずの人間を衝動的に殺してしまいます。そして、被害者の上着のボタンを、ポケットの中で握りしめる暮らしが始まります。犯行後の主人公の心の動きは、分かるようで分からない。少なくとも、そのおかげで障碍を持った子どもを受け入れられるというのは、無理があるというものでしょう。にもかかわらず、彼はそうかもしれないと思わせる。ハイスミスのクライムストーリイが、もっともブラックユーモアに接近した一編でしょう。

 80年代以降のパトリシア・ハイスミスは、サスペンス小説やクライムストーリイという範疇には収まりきれない作品を残すことになりました。長編で言えば『孤独の街角』がその代表だと、私は考えます。短編においては「黒い天使の目の前で」が、それに相当するのではないでしょうか。邦訳では短編集『黒い天使の目の前で』と表題作になっていますが、原書はそうではありません。
 この短編集も『ゴルフコースの人魚たち』同様、ミステリからははずれたものを多く含みます。それでも巻頭の「猫が引きずりこんだもの」は、宿泊客と四人でスクラブルをしているところに、猫が人間の指をくわえて帰ってくるという、ミステリの発端として魅力充分です。警察に届ける前に自分で調べてみようとするのが、イギリスを舞台にした効果で、はめていた指輪を手がかりに、被害者をつきとめる。過程はあっさりしすぎていますが、ディテクションの小説以外の何物でもありません。しかし、この指の持ち主(行方不明になっている)の関係者に接触したのちの展開は、どんどん通常のミステリからはずれていきます。犯行の暴露から犯人の処罰へと進まない。ミステリの常識を逆手にとって、奇妙な効果をあげていました。
「仲間外れ」は、先にふれた「ネットワーク」のグループの中に、皆から嫌われるような人間が紛れ込んだ時を描いて、無邪気な残酷さに満ちています。ほとんど無意識に、ひとりをいじめ、死に到らしめるプロセスは、葬儀ののちにわずかな悔恨を各人の胸に呼び起こし、そして、そのまま元の生活に戻っていきます。これと同じことが、日本の学校でも起きているともいえるし、それが未解決のまま、よくある話になっている分、日本の現実はたちが悪いとも言えるでしょう。「わたしはおまえの人生を軽蔑する」の親子の断絶は、よりルーズな無関心で彩られた日本の現実を思うとき、対立のある分、正常であるようにさえ思えます。
 といったように、リアリスティックでありながら、異様な心理を描いていくのが、晩年のハイスミスのひとつの特徴で、それが実を結んだのが「黒い天使の目の前で」です。主人公は老齢で介護施設に入っている母親の医療費に、毎年二万ドルもの金をかけています。もともと反りのあわない母親で、向こうも傍若無人な人柄で、主人公は会いたくもない。実務は弁護士まかせです。しかし、ついに故郷の持ち家を売って、金を工面しなければならなくなり、シカゴからやって来たのでした。そして、そこで待っていたのは、長年にわたる裏切りでした。彼の母親はとっくに死んでいたのです。意外な事実(発覚の段取りが巧みなこと!)が判明してからの、裏切り者を裁く気がないのに、犯人たちが勝手に裁かれていく一方、それを冷ややかに見る、主人公の心の動きが出色です。結末の一文まで、巧みに語りおおせて、まずは晩年の一方の代表作でしょう。


※ EQMM年次コンテスト受賞作リスト(最終更新:2020年11月27日)



短編ミステリの二百年1 (創元推理文庫)
モーム、フォークナー他
東京創元社
2019-10-24


短編ミステリの二百年2 (創元推理文庫)
チャンドラー、アリンガム他
東京創元社
2020-03-19


短編ミステリの二百年3 (創元推理文庫)
マクロイ、エリン他
東京創元社
2020-08-24


短編ミステリの二百年4 (創元推理文庫)
リッチー、ブラッドベリ他
東京創元社
2020-12-21