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 パトリシア・ハイスミスというのは、評価の難しい作家です。日本においては、まず「見知らぬ乗客」「太陽がいっぱい」といった巨匠による映画の原作者として知られ、にもかかわらず、その原作が翻訳されるのに、十年ほどの月日がかかっている(両作とも初訳は70年代に入ってから)。しかも、それらの邦訳が出たからといって、評価が定まったかというと、そうでもありません。相変わらず、名画の原作者という位置づけでした。日本で積極的に読まれるようになったのは、『ふくろうの叫び』の翻訳が出たあたりからではないでしょうか。
 アメリカにおいても、その評価には曖昧なところがありました。ふたつの映画を観る、ないしは、その原作を読めば分かるとおり、ともに秀れたクライムストーリイですし、EQMMの本国版には定期的に短編を発表していたようですが、本人がサスペンス小説と呼ばれるのを嫌っていたふしもある。早くにヨーロッパに移住し、むしろ、かの地での評価のほうが高いと指摘する人もいました。事実、ドイツ語の翻訳版が、英語版に先んじて出版されたこともあるようです。作品的に、ヨーロッパで生きるアメリカ人を描くことも多く、もともと、小説の発想や書き方もアメリカ人らしからぬところがある。
 しかし、1970年代をティーンエイジャーとして過ごし、当時のミステリマガジンでクライムストーリイの面白さを知った私にとって、ハイスミスは(ときにファンタジーが混じることはあっても)イーリイと並ぶ、クライムストーリイのエース作家でした。当時のミステリマガジンは新作のクライムストーリイはルース・レンデルとジョイス・ハリントンが両輪で、そこにイーリイとハイスミスの旧作が加わるといった塩梅で、あとは年に一本エリンが新作を書いていました。その脇を固めるといったイメージで、マシスンやコリアの異色作家短篇集一派とラニアンやオハラの都会小説があったわけです。
 ハイスミスの日本語版EQMM初登場は、61年2月号の「趣味はスリル」でした。主人公は37歳の家族持ちのセールスマンですが、妙な趣味がある。面識のない女性(金持ちかプロフェッショナルな職業を持っている)の家を訪問する段取りをとりつけ、会ったところで些細な盗みをするのです。シガレットケースとか指輪といったものです。その日もテレビで見た人類学者の女性にアポをとりつけ会いに行く。ところが次の訪問予定者とかち合ってみると、それはかつて彼が盗みを働いた女性ジャーナリストなのでした。スレッサーなら、ここで終わるか、問い詰められて(彼女は彼の盗みに気づいていたのでした)手をかけてしまうとろで終わるのでしょう。ハイスミスの刻印は、窮地に陥り殺人を犯した主人公のその後にこそ書くべきものがあるとしたところに、くっきりと押されていました。
『太陽がいっぱい』の原作が映画と異なり、リプリーが捕まらないままに終わることは、当初から知られていました。しかし、露見しないその在り様は、原作独特のもので、緻密さに欠け、ある意味だらしない犯行が、だらしないままにヌケヌケと見逃される。原作同様にリプリーが捕まらない再映画化「リプリー」でさえ持ちえなかった、それは、ハイスミス以外には真似ようのない個性で、乱歩の言う奇妙な味が、奇妙さを通り越して不気味さに到るかのような風情が、そこにはありました。そして、その個性は、短編にも見てとれるものでした。
「完全なアリバイ」は、恋敵を射殺する男の話ですが、相手の女性の性格の不安定さをまったく無視した都合よさに裏切られる形で、すぐに犯行が露見するものの、ありえない偶然からアリバイが成立し、さらに、ありえない偶然からそのアリバイが破綻しました。「カメラ・マニア」は、請け負った殺人の遂行直前に、旧知の女性に出会ってしまい、彼女が撮った写真に、標的と一緒に写ってしまいます。それは作ってはならない被害者との接点でした。「だれもあてにできない」は、別居中の妻を殺し、アリバイも囮の容疑者も用意したのに、死体発見の役を想定した、通いの家事手伝いの女が、流感にかかったことから、死体の発見が遅れてしまいます。以下、自分以外の誰かに、死体を発見させようと躍起になるものの「だれもあてにできない」という話でした。コミカルなタッチで、犯人の異常性は影をひそめていました。これらの作品は、犯行が意外な形で露見するという、アイデアストーリイの常道の範囲内でもありました。
「趣味はスリル」は、殺人ののち、主人公の人が変わっていくプロセスが異様ですが、必ずしも説得力を持って描ききれているわけではありません。同様に、同僚に対する憎悪の塊のような郵便局員が、日記の中で次々と職場の人間を殺していく(その後、その同僚は死んでいるのだからと、いないもののように扱うのです)「憎悪の殺人」は、最初から主人公の異常性を提示することで、アイデアストーリイを脱しています。しかし、ひょんなことから、殺人犯となりえてしまった主人公のその後が、説明的な書き方になってしまっていて、大事なところで失速している。こうした作品は、ハイスミスらしさは見られるものの、その後、個人短編集に収録されていないのも分かる気がします。

 60年代の作品を中心として、ハイスミスの短編を精選した感があるのが『11の物語』です。集中では「ヒロイン」が、もっとも初期の作品ということになるのでしょう。ハウスメイドから、望んでいた保母の仕事に移ることが出来たヒロインが、良くしてくれる雇い主の期待に応えようとしながら、その一心が極端な(あるいは病んでいる)ために、破局を迎えてしまうというクライムストーリイでした。「アフトン夫人の優雅な生活」「ミセス・アフトンの嘆き」)はEQMMコンテストの入選作でしたが、精神科の奇妙な患者という平凡な話でした。
 巻頭の「かたつむり観察者」「かたつむり」)や「クレイヴァリング教授の新発見」といった、ハイスミスのかたつむりへの偏執が、ホラーと結びついたものもあります。これはかたつむりに限らず、もっと広く、動物というか生き物への関心といった形で現われることがあります。「すっぽん」「ヨットクラブ」とMWA賞短編賞を争った作品で、料理用に母親が買ってきたすっぽんに、生き物としての興味をもった男の子が、調理する母親に殺意を抱くという話でした。「からっぽの巣箱」「からの小鳥小屋」)に到っては、正体不明の生物――最後まで不明のままです――が、夫婦の生活に闖入します。これらの傾向は、のちに『動物好きに捧げる殺人読本』となって結実します。また、その拡張として、ある日突然、他の人には見えないらしい(写真に撮っても、自分にだけしか写っているように見えない)、サンドバッグを突っ立てたような無様な生き物がやってきて、ヒロインとの奇妙な共同生活が始まる「“もの”の魅力」といった佳作もあります。
 しかし、長編にも共通するハイスミスらしさと言えるのは、奇妙で箍のはずれた人物による犯罪を描いたときでしょう。
「恋盗人」「待ち焦がれた男」)の主人公は、ヨーロッパからの恋人の手紙を待ってい(るようですが、実は、恋人だと思っているのは、彼の方だけらしい)て、郵便受けを毎日のぞいている。ふと、となりの郵便受けに何日も放置されている手紙を見つけ、盗んでしまいます。しかも、その一通は、隣人からの手紙を待ち焦がれているらしい女性からの手紙です。主人公が隣人になりかわって、その見知らぬ女性に手紙を書くのは、自分と他人の境界が曖昧な、ハイスミス得意の人物像でしょう。自分が待っている手紙そっちのけで、相手に希望を与え、待ち合わせの約束までする主人公が、彼女に見たものは何だったのか? ハイスミスには珍しく明るいラストでした。
「愛の叫び」「復讐」)は、同居するふたりの人間の殺意を描いた一編です。かつてミステリマガジンに訳された「偕老同穴」「しっぺがえし」)という、やはり同居する似た者同士――殺人方法まで同じものを思いつくのです――が殺しあう一編もありましたが、ともに、相手から離れられない者同士なのを巧みに感じさせて、ハイスミスは、こういう不思議な綾のつけ方が出来る作家でした。逆に「野蛮人たち」のように、日曜ごとに裏の空き地でキャッチボールに興じる粗野な男たちへの嫌悪と、そのあげくの暴力沙汰を直截に描いただけのものもあります。
『11の物語』の中で、ハイスミスらしい短編となれば、「モビールに艦隊が入港したとき」「もうひとつの橋」の二編ということになるでしょう。「モビールに艦隊が入港したとき」は、眠っている男にクロロフォルムをかがせて逃亡する女を、彼女の回想を交えて描いていきます。題名になった「モビールに艦隊が入港したとき」は、それが、彼女がもっとも幸福だったときなのですが、その幸福のいじましさが痛々しい。そして痛々しいままに、その幸せを誰にも知られることなく終わっていきます。「もうひとつの橋」はヨーロッパのアメリカ人という設定が、まずハイスミス印です。妻と息子を交通事故で一度に亡くした主人公が、ショックを癒すためにイタリアを旅行中、自動車に乗っていて、飛び降り自殺を目撃します。自殺者が気になる彼は、新聞で名前を知ると、遺族に金を送り、貧しい男の子を見るとアイスクリームを与えますが、そうした自らの事故の記憶を癒すための行いが、ことごとく現実的には意味をなさないどころか、悪い結果をもたらすのでした。

『11の物語』は1970年にグレアム・グリーンの序文つきで刊行されました。訳書が出たのは1990年ですが、多くの作品が、日本語版EQMMやミステリマガジンで、それ以前に紹介されていました。その後、ハイスミスは75年に『女嫌いのための小品集』を書き下ろします。ハイスミス作品のドイツ語訳を多く出版していたスイスのディオゲネス・フェアラークから、まずドイツ語訳版が出され、英語版出版はその2年後でした。邦訳の訳書あとがきの冒頭で、原題は『女嫌いの小品集』であると、わざわざ断ったこの小品集(実際、ショートショートというべき掌編が17編収められた薄い本です)は、のちに『世界の終わりの物語』ともども「ハイスミスがある境界線を踏み越えてしまった作品集」と、若島正が評すことになりました。
巻頭の「片手」が、まず「お嬢さんをぼくにください、と若者がいった。娘の父親は箱を一つ贈った。中に入っていたのは娘の左手だった」と始まります。ぼんやり読んでいては、なんのことやら意味不明です。お嬢さんをくださいと言ったばかりに、不条理なめにあい気がくるってしまうという、青年のありえない悲劇。それがありえるのは、女性をものかなにかのように「ください」と言ってしまったことが、ミソジニーとして責められる社会だからでした。この短編集は「女嫌い」を描いただけのものではなくて、「女嫌い」を社会が内包していると同時に、では、そんな「女嫌い」を単純に罰して、それで問題解決と短絡したときの無理と矛盾を、ともに描き出したものでした。続く「陽気な原始人ウーナ」「男たらし」は、尻軽な女とそれを利用しつつ欲望のはけ口としか見ない男たちの関係を、救いのないままに摘出します。さらに、社会がそうしたものであることを前提に、そこで安楽をむさぼる女を描くと、題名は「天下公認の娼婦、またの名を主婦」となり、「女は最初から男を尻に敷いてい」て、ウーマン・リブを「あの連中は、いったい何のために大騒ぎをしているのだろう」と考える主婦が、リブの大会に参加する「中流の主婦」では、混乱のうちに主人公の頭に缶詰があたって死んでしまうのです。
 これらをもって、イーヴリン・ウォーを連想するのは、いたって自然なことで、ハイスミスが風刺作家としての領域に入ったことは明白でした。もっとも、邦訳の出た1992年には、ミソジニーとカタカナで書いて通用したとは思えません。「女嫌い」と訳されても、そこまでの含みを読み取るのは、困難でしょう。とてもではありませんが、そうした読み方など、私には無理でした。これが『世界の終わりの物語』になると、対象がミソジニーだけに限らないので、ブラックユーモアであることが明白でした。
 ハイスミス自身は『女嫌いのための小品集』を「ジョーク集みたいなもの」と言っていますが、それはそれで誤解を招くでしょう。ま、質の悪い冗談と言ってしまえば、そうなのかもしれませんが。ハイスミスの風刺作家、ブラックユーモア作家としての弱点は、理論に無関心あるいはそもそも忌避感があるらしいことです。それでなくても、もっとも楽な現状追認と紙一重の存在な上に、その楽な側に落ち込むおそれがあるのが、ブラックユーモアというものです。この短編集で言えば「小公女」など、単なるアンファンテリブルでしかなくて、これを加えることで一冊全体の趣向が損なわれることに、おそらく気づいていないでしょう。それでも、本書でブラックユーモアの書き手として歩み始めたハイスミスは、やがて『世界の終わりの物語』で大きな毒の華を咲かせることになります。



※ EQMM年次コンテスト受賞作リスト(最終更新:2020年11月27日)



短編ミステリの二百年1 (創元推理文庫)
モーム、フォークナー他
東京創元社
2019-10-24


短編ミステリの二百年2 (創元推理文庫)
チャンドラー、アリンガム他
東京創元社
2020-03-19


短編ミステリの二百年3 (創元推理文庫)
マクロイ、エリン他
東京創元社
2020-08-24