堺 三保

 平凡な会社員ジョン・ゴードンは、ある日、心の中に語りかけてくる声を聞く。それは、遠未来の地球からの呼びかけだった。呼びかけてきたのは巨大な星間帝国の皇子ザース・アーン。ザースはジョンに時間と空間を超えた精神交換実験の被検体にならないかと持ちかける。ほんの数週間、たがいの身体を交換して、それぞれにとって未知の世界を散策しようというのだ。提案を承諾し、いさんで二十万年先の未来にあるザースの身体に入り込んだジョンだったが、突如、武装した兵士たちに襲われ、帝国の存亡を賭けた権謀術数の渦に巻き込まれていくのだった……。

 本書『スター・キング』は、スペース・オペラの代表的作家の一人、エドモンド・ハミルトンが一九四七年に雑誌に発表した(単行本化は一九四九年)The Star Kingsの全訳である。東京創元社の邦訳版は一九六九年に初版が刊行されているが、今回新版が出るに当たって、新しい解説をつけ、若い読者諸氏を含めて日本のSFファンに向けて改めてハミルトンについて紹介することとなった。
 エドモンド・ハミルトンは、一九〇四年、オハイオ州生まれ。一九二六年、二二歳のときに作家デビューして以来、数々のペンネームを駆使して二〇~三〇年代にかけてさまざまなパルプ雑誌に、SF、ホラー、ミステリなどを多数執筆する。特に、星をもつぶしてしまうような壮大なスケールの宇宙活劇(スペース・オペラ)を書くことで、「世界の破壊者(ワールド・レッカー)」と呼ばれることとなる。この時期の代表作に〈星間パトロール〉シリーズがある。
 一方、三〇年代からは「フェッセンデンの宇宙」など、奇想と儚い読後感とが同居する本格SF短編も書きはじめ、評価を得る。
 そして、一九四〇年、代表作となるスペース・オペラ、〈キャプテン・フューチャー〉シリーズを書きはじめて人気を博すが、第二次世界大戦の影響でパルプ雑誌文化に陰りが見えはじめ、一九四六年には長編シリーズとしては休止してしまう。
 それとほぼ入れ替わるように、当時興隆してきたコミックスの原作を書くようになり、六〇年代までDCコミックスの看板作品である『スーパーマン』『バットマン』を数多く執筆することとなる。この四十年代後半から六十年代にかけては、それと並行して『時果つるところ』『虚空の遺産』といった単発の本格SFを何作も執筆、本書を含む〈スターキング〉二部作も書いている。
 六〇年代後半には現代的なスタイルのスペース・オペラを目指した〈スターウルフ〉シリーズを発表、その第四作を構想しつつも七七年に死去した。享年七二。SFとコミックスの黎明期から、その歴史とともに半世紀を歩んだ作家であった。

『スター・キング』は、一九四七年という、第二次世界大戦も終わり、スペース・オペラはもちろんパルプ雑誌の時代も終わりかけ、一九五〇年代の黄金時代に向けてSFが洗練の時代を迎えつつあった頃に書かれた作品である。それにしては、銀河系の覇権を賭けて王や貴族たちが宮廷陰謀劇を繰り広げるという、古色蒼然たる設定を用いているのが特徴なのだが、それもそのはず、実は本作はマーク・トウェインの『王子と乞食』(一八八一)を嚆矢とする「うり二つ」テーマの古典、とくにアンソニー・ホープの『ゼンダ城の虜』(一八九四)を下敷きとしているのである。
 しかも、導入部の「現代人である主人公が遠い宇宙に飛ばされる」という設定は、エドガー・ライス・バローズのあまりにも有名なスペース・オペラの古典〈火星〉シリーズ(一九一七~)を思わせるものとなっている。主人公が元軍人という設定も〈火星〉シリーズと共通しており、本作においてはそれが終戦直後当時の時代性を感じさせる点も興味深い(ちなみに、バローズもまた、『ゼンダ城の虜』を下敷きにした冒険小説『ルータ王国の危機』(一九二六)を書いている)。
 実は、いまではハミルトンの代表作と見なされている〈キャプテン・フューチャー〉シリーズもまた、当時人気を博していたパルプ雑誌のヒーローもの〈ドク・サヴェッジ〉(ケネス・ロブスン)を換骨奪胎してスペース・オペラ化したものであった。〈キャプテン・フューチャー〉は、それまでのスペース・オペラの特徴を集大成したようなシリーズでもあり、当時すでに下り坂だったこのサブジャンルにとっての挽歌(ばんか)という見方もできる作品であったと言える。
『スター・キング』は〈キャプテン・フューチャー〉シリーズが終了したその翌年に書かれた作品である。このころすでにアイザック・アシモフやロバート・A・ハインラインが活躍をはじめ、スペース・オペラはもっとシリアスなSFに道を譲っていた。筆者が思うに、そんななか、往年のスペース・オペラらしい活劇を成立させるために、ハミルトンは西部劇よりもさらに古い宮廷陰謀劇をモチーフとして引っぱり出したのではないだろうか。
 本作の後、ハミルトンは〈スターウルフ〉シリーズ(一九六七~六八)では考え方を逆転させ、現代的なSF設定と、ハードボイルド的なキャラ造形で、現代SFとしてスペース・オペラを再生しようとしている。 〈キャプテン・フューチャー〉、本作、〈スターウルフ〉と、執筆年代順に並べてみると、スペース・オペラの時代が終わった後で、いかにしてスペース・オペラを書き継ぐか、ハミルトンが試行錯誤を重ねていたことが見てとれるのである。
 もちろん、本作は単なる古典の焼き直しではなく、ハミルトンならではのひねりがきちんと盛り込まれている。
 ひとつはもちろん、次々に繰り出される新発明や超兵器だ。なかでも凄まじい破壊兵器“ディスラプター”は、当時としても非常に先進的なアイデアの産物だ。一方で、宇宙船に超光速飛行をさせる設定は、あまりにも強引かつ無理やりに相対性理論を打破しようとしていて笑ってしまうのだが、もちろんこれは本人も屁理屈を承知で書いていたのだと思いたい。
 もうひとつは、敵役であるショール・カンの造形だ。彼は自分の目的のためならあらゆる非道をも辞さないという、倫理観が完全に欠落した人物なのだが、その一方、徹頭徹尾実務的な人物でもあって、残虐さや悪辣さをまったく感じさせない。主人公のジョンに対する態度の、妙な公平さや共感などにも、それは現れている。いまの言葉で言うと、反社会性パーソナリティ障害者といったところだろうか。ビジネスライクに淡々と悪事をこなす姿には、いまも通用する現代性に加えて一種不思議な魅力すらある。
 これらの現代的な描写と、古典的なストーリーテリングとが@渾然{こんぜん}一体となって、遠未来の宇宙活劇と古式ゆかしい宮廷ドラマとがシームレスにつながっているところに、本作のいつまでも色あせない魅力があるのだ。

 ところで、ホープの『ゼンダ城の虜』には続編『ヘンツォ伯爵』(一八九六)があり(創元推理文庫版では正続合わせて一冊にまとめられている)、バローズの『ルータ王国の危機』もそれに則って二部構成となっている。どちらも正編の最後でもとの生活へ戻っていった主人公が、続編や第二部において再度冒険に乗り出していく姿が描かれている。
 すでに〈スター・キング〉は二部作であると書いたが、本作にも続編『スター・キングへの帰還』(一九六四)がある。やはり『ゼンダ城の虜』『ルータ王国の危機』同様、主人公のジョン・ゴードンが再び二万年後の遠未来へ赴き、帝国を襲うさらなる脅威に立ち向かうこととなる。しかも、本作の敵役であるショール・カンが意外な形で再登場し、大いに話をかきまわしてくれるあたりに、ハミルトンらしいストーリーテリングの妙がうかがえる。本作の少しわびしげなエンディングから一転して、『ヘンツォ伯爵』よりも『ルータ王国の危機』〈火星〉シリーズを思わせる大団円を迎えるあたりも痛快で心地よい。
 そして、翻訳はされていないが実はもう一作、"Stark and the Star Kings"(1975)という番外編も存在する。こちらは、ハミルトンの妻で同じくSFやミステリの作家だったリイ・ブラケットとの共作で、ブラケットが生み出した人気ヒーロー、エリック・ジョン・スターク(「金星の魔女」(一九四九)のみ邦訳がある。青心社文庫『赤い霧のローレライ』所収)がスター・キングの世界にやってきて世界の危機を阻止するという話になっている。しかも(筆者は未読だが、現物を読んだ翻訳家の中村融氏によれば)なんとジョン・ゴードンは脇にまわり、ショール・カンがスタークと組んで大活躍するらしい。
 もともとはハーラン・エリスン編のアンソロジーThe Last Dangerous Visions(最後の危険なヴィジョン)のために書かれたものの、肝心のその本が出版されなかったためお蔵入りしていたが、二〇〇五年に出た作品集Stark and the Star Kingsに収録された。長めの短編くらいの長さだという。どこかで翻訳が出ることを望みたい。

 ともあれ本作は、いま読んでもおもしろい、というより、いま読むとレトロフューチャーな魅力にあふれた、愉しい宇宙冒険活劇となっている。それこそ、コミックス原作を書いたりシリアスなSFを書いたりしながらも、一方でずっとスペース・オペラを書きつづけていたハミルトンの、職人技とこだわりの結晶だろう。初読の方も久しぶりに読む方も、等しく肩の力を抜いて、ジョン・ゴードンの冒険の旅につきあってほしい。