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 ジェイムズ・ホールディングは、1960年代から80年代にかけて、ヒッチコック・マガジンとEQMMで活躍した、短編専門の作家です。ヒッチコック・マガジンの作家を読んだときに「密輸品」という佳作があることを紹介しましたが、ここではEQMM発表の作品を中心に、あらためて見ていくことにしましょう。
 ホールディングの名を憶えている人が、まず思い起こすのは、ルロイ・キングという合作のミステリ作家(エラリイ・クイーンがモデルなのは明らかですね)、つまりマーティン・ルロイとキング・ダンフォースのふたりが探偵役を務めるシリーズでしょう。ふたりとその細君の四人が、世界周遊をしている客船ヴァルハラ号で各地を巡り、そこで事件に遭遇するのです。シリーズの第一作はThe African Fish Mysteryで、これは未訳ですが、題名が地名+名詞+Mysteryとなっていて、全編そのように統一されています。エラリイ・クイーンの初期の長編を踏襲しているのです。最初の邦訳は「香港宝石の謎」でした。ふたりの細君の宝石が盗まれるという発端で、犯行可能なのは停泊中の船体を塗りなおしていた、塗装工のクーリイたちだけです。すぐに気づいたので、彼らが岸壁を出るところで身体検査が実施されます。ところが、宝石が出てこない。身体検査が始まったので、咄嗟に隠したに違いない。その方法は? というもの。
 暗号解読が主たる興味の「イタリア・タイル絵の謎」――タイルの絵から単語を連想するところが、外国人の私には恣意的に見えて買えません――は別格として、シリーズはおおむねハウダニットですが、謎の設え方も解決も、さして面白いものはありません。ハウダニットからは少々はずれた「おしろい箱の謎」の、高級なおしろいを二箱もなぜ海にまいたのかというのは、なかなか巧みな謎の出し方ですが、解決は感心しません――というより、腰砕けでしょう、これは。毎回出てくる作家夫妻でさえ、とても描写されているとは言えず、軽く書かれたシリーズものの域を出ません。読んだ中では、カードマジックの方法をあてる「日本カードの怪」が、巧妙なコンゲームと見せて実は、というハートウォームな解決が微笑ましい出来ですが、鍵となる日本人女性の名に、もう少しリアリティがあればと思わせます。もっとも、『世界ミステリ作家事典[本格派篇]』で、森英俊が出来がいいとしているのは、未訳の二編なので、そういうことなのかもしれません。
 ホールディングのもうひとつのシリーズは、趣味的でおおらかな国名シリーズとはうってかわって、フォトグラファーと呼ばれる殺し屋を主人公としたクライムストーリイです。主人公のマニュエル・アンドラダスは、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロでカメラマンを生業とするかたわら、金のために組織からの指示で殺人を請け負う殺し屋です。警察から組織への依頼で、未解決の猟奇的な連続殺人犯を見つけだして殺す「カメラマンと殺人鬼」、本命馬に騎乗する騎手を、競馬の開催日までに殺せという――フォトグラファーはカメラマンの仕事として、その騎手を撮影したことがあったので、堂々と会いに行くのです――「抹殺者とジョッキー」、国策会社ふうの大企業ケミカル・ブラジル社の支配人として迎えられているアメリカ人が標的の「抹殺者マニュエル」といった具合に、一作一作工夫がこらされていて、こちらの方が、国名シリーズよりも楽しめる仕上がりになっています。
 私が推薦するのは「写真屋と葬儀屋」という一編です。標的の葬儀屋を下見に行って帰宅すると、いつのまにか当の相手が、自分のスタジオの前でこちらを見ている。その刹那、相手が同業者で、自分が標的だと察知するという話。組織が殺しあいをさせるという不条理な展開が不気味な上に、単純に相手を先に殺せばいいというものでもありません。その切り抜け方が巧みで、黒いユーモアをともなったサゲも見事でした。「抹殺者とジョッキー」も、ぬけぬけと標的に面会して、殺しの前に依頼の背景を調べてしまう展開が面白い。この二編が読む価値ありでしょう。
 ジェイムズ・ホールディングには、安易に流れることが、往々にしてあって、思いつきをあまり深く検討していないのではないかと思わせることがあります。「カメラマンと殺人鬼」の殺人鬼の正体を気づく冒頭などが、そうです。フォトグラファーと組織との関係にしても、末端の一殺し屋が、こんなに主導権を握れるものかと思うこともしばしばです。「写真屋と葬儀屋」のサゲは、組織全体ではなく、組織の末端には、それなりに使えないヤツがいるという結末なので、成立したものでした。

 ではノン・シリーズのクライムストーリイに目を転じてみましょう。
 いかにもヒッチコック・マガジン流というのが「爪楊枝」という、ショートショートふうの短編です。主人公が自分の犯した殺人について喋りたいという衝動にかられたというのが、まず、いかにもな冒頭です。妻が開いたパーティで、彼女に言い寄った男を死に到らしめるのですが、それは陰湿な方法でした。爪楊枝で相手のネクタイに染みをつけ、ホステス役の妻が当然やるであろう行為が、結果的に、その男に死をもたらす。そのことを妻に打ち明けたいという欲求が、冒頭の衝動――この衝動の中身が薄いので、話を作る段取りにしか見えないのが苦しいところです――なのでした。医学的というか薬学的なアイデアで、ひとつ書きましたという姿勢が露骨で、アイデアストーリイという言葉が、否定的な意味で用いられるのは、こういう場合なのですが、それでも結末のつけ方まで、ヒッチコックタッチではありました。
「脱獄お世話します」は日本語版EQMMの掲載ですが、ヒッチコック・マガジンに載ってもおかしくありません。主人公の囚人が、看守から脱獄用の三点セットを買わないかと持ちかけられます。足音を消すためのゴム(靴の裏に貼る)と刑務所内の地図(脱出経路の矢印付き)、そして独房の鍵です。これで、単に脱獄できましたでは、お話にならないだろうと思って読み進めていると、さして魅力的ではないオチを迎えます。「爪楊枝」のように、医学的なアイデア一発で書かれたのが「奇妙な被告」です。誘拐犯が、人質を連れて逃亡中に居眠りをして捕まってしまうという事件で、どんなに重大な局面でも、意に反して眠り込んでしまうことがあるという知見で、ひとつ書いたのでしょうが、「爪楊枝」に輪をかけて、アイデア頼みが露骨な上に、精神疾患による無罪獲得について、どうみても無茶な理解しかしていないようです。
「スワップ・ショット」は、故買屋とそこにブツを持ちこんだ男(ソニーのテレビというのが時代色ですね)のやりとりで、あれよあれよという展開を狙ったのでしょうが、そこに、この作家の甘さというか手軽さがあるように思えます。たとえば、ロバート・シェクリイのショートショート「では、ここで懐かしい原型を……」を、とりわけ、その中の「変装したスパイ」を思い出してみてください。ジェイムズ・ホールディングの温さかったるさが、分ろうというものです。同じことは、ファンタスティックかつ少々脱力もののオチを持つ「最後の決め手」にも、あてはまります。
 MWAが年刊傑作選として出していた短編集の1977年版『今月のペテン師』に収められた「再発見」の冒頭につけられた文章に、この作家には「美術の逸品とそれにからんだ陰謀家たちを扱ったものが、いくつかあります」とあります。「再発見」そのものは、米仏ふたつの美術館に所蔵されていた彫像が、実はもともとひとつだったことを、ひとりの学者が発見したところから始まり、その話自体はそれなりに面白いのですが、後半の意外性をもとめたオチのつけ方が、とってつけたようなもので、むしろ不要に見える。贋作を扱った「適正価格」にしても、美術詐欺の話として驚きがない。
 さまざまな寄港地を舞台にしたルロイ・キングの国名シリーズはもちろん、フォトグラファーのシリーズも舞台はリオ・デ・ジャネイロと、この作家は外国を舞台にすることを好みます。しかし、かの地の描写は通り一遍であることが多く、最後まで、60年代のアメリカ人の海外理解の限界を出ないように見えます。同時代のアヴラム・デイヴィッドスンと比較すると、分りやすいのではないでしょうか。あるいは「モンバサへの客」です。元ハンターで、独立運動後もアフリカに残って警察官となっている白人の主人公が、豹が町を徘徊していると通報を受ける。経験を生かして、見事に豹を発見します。そこまではなかなか面白い。ところが、後半になって呪術師についての密告者が現われ、クライムストーリイふうになると、途端にアイデアを消化するのに手いっぱいになります。アヴラム・デイヴィッドスンとまでは言いません。ジョー・ゴアズの海外ものと比べても、かの地が書割にすぎないのです。「密輸船長フォン」に登場する台湾人船長など、明らかに、この作家の手にあまっています。それでも「パチャカマックの財宝」は、インカ帝国考古学の権威である教授が、悪漢二人と財宝のありかを巡って対決し、一通り読ませる冒険小説になっていました。思い返せば「密輸品」も、半ば出来心で密輸の片棒をかついだ観光客の不安が描けていたのが、サスペンス小説特有の美点となっていました。そういう物語をしっかり作ることが、いかに大切かということです。

 70年代に入って、ジェイムズ・ホールディングは新しいシリーズを始めます。図書館付きの警察官という、珍しい職業で、いまでこそビブリオ・ミステリということばで包摂できますが、そんな言葉など耳にしない時代でした。
 未訳のLibrary Fuzzがシリーズ第一作と思われますが、同年の「たかが小説本」が、本国版掲載から、あまり間をおかずに邦訳されました。主人公の「ぼく」ことハル・ジョンソンは、公立図書館付きの警察官(というのが、本当にいるんですかね)で、貸出超過になっている本を回収し罰金を徴収するのが、おもな業務です。官と民の違いはあっても、職掌はダン・カーニー事務所に近いのでしょうか。ちょっと前までは殺人課の刑事で、そのときの上司がランドール警部。きなくさい事件に遭遇すると、そちらに通報し協力するのです。
「たかが小説本」はシリーズも初めの作品だけあって、ケチな故買犯罪と思ったものが実は……という、このシリーズらしいアイデアとオチをもっていて、書き方もいきなり主人公が灰皿を投げつけられるところから始めると、工夫しています。それが、75年の「警官魂」になると、ランドール警部(この訳ではランダル)から図書館の本について照会がくるという冒頭から、本の中に麻薬事件の重要な証拠となる写真のネガが見つかるという展開です。ただ、このお話の作り方は、相当に雑で、主人公を無理やり事件に関係させている作者の手つきが目立ちます。そして、最後にはランドール警部から「おまえはそれでも巡査なんだ」と言われます(原題はStill a Cop)。この部分には、意外に大きな意味があります。
 78年の「沈黙の蜂の巣」はハルが図書の回収に行って、死体となった相手を発見します。事件は恐喝事件に発展し、図書館の本を使った現金受け渡しの方法が見つかる。そういう意味で、図書館刑事の関わり方は、もっとも自然です。ただし、毎回主人公が死体の発見者になるのは無理でしょう。これが同じ78年の「『戦争と平和』を借りた男」になると、貸し出した本の書き込みから放火事件を発見するという、苦しい展開ですし、80年の「セクシーなご褒美」に到っては、ランドール警部が手間を惜しんで、ハルに図書館の貸し出し情報を尋ねてくるというきっかけから、かなり強引に空き巣事件の果ての殺人を手繰り寄せます。
 もともと、重犯罪とは無縁な図書館付きの警官を、読者の興味を引くような犯罪に関係させるのは、かなり無理がある。〈日常の謎〉というような流儀を知っていたら、また話は別かもしれませんが。ともあれ、職務上主人公が接することの出来る図書館の個人情報は、ランドール警部という警察権力にだだ漏れです。ひどいときには、それで昼飯にありついたりします。おそらくはミステリとしての作話の都合という、それだけの事情で。ここには法月綸太郎が同名のシリーズキャラクターの短編作品をめぐって、実際に司書をしている読者からの投書をきっかけに、個人情報に対する警察の介入という重大な問題とその実際について再考をうながされ、それをもとに書き改めたという真摯さは、かけらもありません。この作家の安易さというのは、つまり、そういうことなのでしょう。

※ EQMMコンテストの受賞作リスト(最終更新:2014年11月5日)



短編ミステリの二百年1 (創元推理文庫)
モーム、フォークナー他
東京創元社
2019-10-24


短編ミステリの二百年2 (創元推理文庫)
チャンドラー、アリンガム他
東京創元社
2020-03-19


短編ミステリの二百年3 (創元推理文庫)
マクロイ、エリン他
東京創元社
2020-08-24