さゆき様が亡くなったのは、それから数か月後、その年初めての雪が降った日のことだった。
 ユウラの前で、不治の病にかかっていると告白されてから、さゆき様が自らの病状についてふれられたことは、私が知る限りではいちどもなかった。俊之様の前でも、回復することをまるで疑っていないように振る舞われた。おそらく、さゆき様自身もそうすることで、病が治ると信じたかったに違いない。
 俊之様がおひとりで看取られ、私たちは亡くなった後で、お別れをするために対面した。
 寝台の上に横たわる、さゆき様の真っ白な顔を見た時、私は大声で叫び出したい衝動に駆られた。この時まで、私は知らなかったのだ。なんとなく理解していた〝死〟というものが、これほど残酷なものだとは。
 どんなに呼びかけても、その瞳も唇もけっして開かれることはなかった。残された骸からは、もう何も伝わってはこない。
 トオリを失った時の、ユウラの嘆きと絶望が、初めて理解できたような気がした。二度と会えないと思うだけで、息もできないほどに苦しい。
 庭へ出て、地面に両膝をつき、天に向かって吠えるように大声で叫んだ。私は自分の身の内に、このような激情があったことに、今まで少しも気づかなかった。
 あまりの苦しさに耐えかねて、俊之様に訴えた。
「どうか、私を浄化してください」
 〝浄化〟とは、玉妖の左胸にある〝心(しん)芽(が)〟を壊し、その存在を消し去ることだ。だが、それは人間の死とは異なる。私たちは浄化されても、人の〝気〟を受ければ、また生まれることができるからだ。むろん、記憶は失われるが、完全な消滅ではない。
 本当は、私の石を壊してほしかった。そうすれば、玉妖は二度とよみがえらない。このような苦しみを味わうなら、それでも良いとさえ思った。
 しかし、幾度となく頼んでも、俊之様は険しい顔で首を振るばかりだった。
「そのようなことは、さゆきの遺志に背くことになる。彼女がどれほどおまえたちを慈しんだか、よくわかっているだろう。後を追って消えることなど、最も望んでいないことだ」
 そこで、私はようやく、ユウラが消えた時のさゆき様の言葉を思い出した。
「俊之様にお伝えするよう頼まれました。さゆき様は、皆が生き続けて幸せになってくれることを望んでいると」
「そうだろう。彼女の望みは、私もよくわかっている。だから、誰も後を追うことなど許されないのだ。どんなに辛く、苦しい日々であろうと、私たちは生き続けねばならない」
 それは私ではなく、自分自身に言い聞かせていらっしゃるような気がした。今にして思えば、おそらく俊之様も、ご自身の絶望と闘っていらしたのだと思う。

 それからしばらくの間、俊之様はさゆき様の部屋に閉じこもり、他の誰も中に入ることを許さなかった。
 私は自身の感情を静めることができず、苦しい気持ちのまま庭をさまよい、さゆき様との思い出にひたった。だが、くろがねは以前と変わらず、拳法の修練に明け暮れている。
「あなたは悲しくないのですか?」
 思い余った私は、彼に尋ねた。おそらく詰問に近い調子だっただろう。それでも、くろがねは少しも表情を変えることなく、冷静だった。
「むろん、悲しい。寂しさも感じている。なぜ、わざわざそんなことを聞くのだ?」
「あなたがあまりにも普段と変わりない様子だからです」
「さゆき様は、ご自分がいなくなった後もあまり悲しまずに、変わりなく過ごしてほしいとおっしゃった。私はそれを実践しているだけだ」
 私は彼の言葉に少しも納得できなかった。このやりきれない悲しみと虚しさを、なかったことにはできない。彼は私ほどにはさゆき様のことを思っていなかったのだろう。そう考えるとさびしくなって、ことさら彼をさけるようになった。 
 けっしてくろがねが悲しんでいないわけではなく、ただ私とは感じ方が異なるだけなのだと理解できたのは、もっとずっと後のことだった。
 つらく、絶望に満ちた無気力な日々が続いた。悲しみは癒えることがなく、私は無為に時を過ごしていた。くろがねと共に俊之様に呼び出されたのは、さゆき様が亡くなってから、一年近く経った頃のことだと記憶している。
「さゆきの幼なじみに、高(たか)崎(さき)菊(きく)枝(え)さんという女性がいる。その方が先日、ふたりの娘さんを残して亡くなられた。おまえたちは彼女らの許へ行き、異界妖から守ってやってほしい。これは、さゆきの遺言でもある」 
 異界からやってくる妖(あやかし)の中には凶暴な種族もいて、目が合っただけで襲いかかってくることがある。だが、そういったものに対して人々があまり脅威を感じていないのは、たいていの人間には異界妖が見えないからだ。だが、俊之様の話では、姉妹はふたりとも、そろって異界妖が〝見える〟体質らしい。
 すぐに話を進めなかったのは、当初、母親が玉妖を娘たちのそばに置くことを望まなかったからだという。だが、後に残る彼女らを心配し、俊之様の申し出を受けることにしたようだ。
 私にとっては青天の霹靂ともいうべきもので、いくらさゆき様の遺言だと言われても到底、承服できるものではなかった。
「さゆき様と過ごしたこのお屋敷を離れたくありません」
 私は即座に拒絶したが、隣にいたくろがねは意外なほどあっさりと、それを受け入れた。
「仰せの通りにいたします」
 俊之様はうなずいてから、あらためて私のほうを向き、とりつくしまもないほどきっぱりと告げた。
「申し訳ないが、おまえをここに置いておくことはできない。その姉妹のもとへ行くのが嫌なら、どこか他の所を探す。とにかくいちど、彼女たちに会ってみてくれ」
 そこまで言われては、悟らないわけにはいかなかった。私に選択の余地などないのだと。
 あまりにも簡単に承諾したくろがねに腹が立つ。俊之様の部屋を出た後で、私は彼をなじった。
「主はさゆき様ひとりだと言っていたのに、心変わりしたのですか?」
 くろがねは驚いたように私を見た。普段、表情を変えない彼にしてはめずらしいことなのだが、その時の私にはそんなことに気づく余裕などなかった。
「どうして、そんな風に冷静でいられるのか、私には理解できません」
 じっと考え込んだ後で、ようやくくろがねは答えを口にした。
「さゆき様がいらした頃と、私の心は何も変わっていないからだ。今でも、私の主はさゆき様だけだと思っている。その方の命(めい)だから応じる、ただそれだけのことだ。それに、もうさゆき様はいらっしゃらないのだから、このお屋敷にこだわる必要もないだろう」
 くろがねには揺らがない信念があるのだ。頑固で融通がきかないと思っていたが、今はその頑なさがうらやましくもあった。
  
 どんなに不本意であろうとも、やはりさゆき様が遺された言葉は、私にとって重いものだった。
 数日後、私はくろがねと共に、高崎家の姉妹と対面した。父親のほうもとうに亡くなっていて、遠縁の家に引き取られることが決まったのだと、この時に初めて聞かされた。
 ふたりとも私が想像していたよりもずっと若く、まだ少女というべき年頃だった。姉の百合乃は十五歳で、妹の彩音は十二歳だと聞いていたが、妹のほうはもっと幼く見えた。
 姉は妹を背中にかばうようにして立っていた。だが、妹は好奇心の強い性格なのか、物怖じすることなく、大きな瞳でじっと私たちをみつめている。
 この年頃の少女に出会ったのは初めてだったが、私は姉である百合乃のほうに、何か痛々しいものを感じた。妹を守るために虚勢を張っているように思えたからだ。おそらく妹の彩音のほうは、すでに姉の庇護を必要としていないだろう。にもかかわらず、百合乃は自分がしっかりしなくてはという責任を感じているらしかった。
「あなた方は強くなって、か弱き者を守ってほしいの」
 不意に、さゆき様の言葉が脳裏によみがえった。両親を亡くし、年長者であるがゆえに、妹を守ってやらねばならないという思いに駆られているのだろうが、私から見れば、妹よりもずっと彼女のほうが心細そうで、頼りなげに見えた。誰かが守ってやらなければならない、そんな風に思った。
 あまり容姿の似ていない姉妹だったが、性格もずいぶん違うようだ。
 どちらを選ぶかと俊之様に問われ、何の相談もしていないにもかかわらず、自然と妹のほうはくろがねに近づき、背の高い彼を見上げてにっこりと笑った。そして、姉のほうはおずおずと私の前に立った。
 私をみつめる百合乃の目に、明らかな賛美の色が浮かんでいるのがうれしかった。自分を認めてもらったような気がしたからだ。
 さゆき様はもう、どこにもいらっしゃらない。後を追って消えることも許されないのなら、かわりにこの子を守ろうと決めた。いちど目覚めてしまった激しい感情は、再び胸の内に閉じ込め、眠らせるのだ。百合乃にはいつでも優しく、紳士的でありたい。
 もし、再び主と決めた人を失えば、私はどうなるかわからない。またあの苦しみに耐えられるだろうか。それでも、この子とともに行こう。心の中に芽生えた新しい感情、守りたいという思いを信じて。きっとそれこそが、さゆき様の意思を受け継ぐことだろう。私は新たに存在する理由をみつけたのだ。

   ※

 百合乃と出会ってから、幾年もの歳月が過ぎた。いちどは別離を余儀なくされたものの、私は彼女の許へ帰ることを許され、今もずっとそばにいる。
 さまざまな経験を重ねるにつれて、私の思いもしだいに変化していった。たとえいつか、百合乃に必要とされなくなっても、私は絶望したりしないだろう。彼女さえ幸せならばそれでいい。
 亡くなられたさゆき様は、あまりにも早くこの世を去ることが無念ではあったろう。だが、それでも、残された私たちが幸せに過ごすだろうと考えられたなら、それがどんなにか救いとなったに違いない。今なら少しだけ、そのお心が理解できる。大切な人の幸せを願うこともまた、自らの幸福につながるのだと。

<了>