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 EQMMがブラック・マスクのハードボイルドを評価し、多くの作品を再録したのは有名ですが、日本語版EQMMも、何度かハードボイルドの特集を組んでいます。最初は1959年の8月号ですから、創刊2年目のことです。ハメットの「1時間」や前々回読んだマスタースンの「白昼の闇」といった作品が並んでいました。もっとも、都筑道夫の前説によると「ちょっとひねった作品」を並べたようなので、以前EQMMコンテストのところで読んだフレッチャー・フローラの「焦熱地帯」のような、ハードボイルドと見せかけて(また、そういうスタイルで書いているし)実は……というものもあります。以下数編、作品としては中途半端なものばかりで、あまり買えません。
 60年4月号は、中編が二本、ハメットの「ついている時には」と、マスタースンの「ギルモア・ガールズ」で、これも、両作家の作品を読んだ時に取りあげました。この号の前説には「本来のハードボイルド小説、つまりは、内に人間的な哀しみを秘めたハードボイルド小説」という一文があって、小泉太郎(生島治郎)の筆だと思いますが、このあたりで形成されたハードボイルド観が、良かれ悪しかれ、日本においては、その後長らく主流を占めたように思います。権田萬治の一連の評論の力も大きかったかもしれません。その後、80年代にロバート・B・パーカーがネオ・ハードボイルドの代表格として読まれ遇されたあたりで、またイメージが少し変わった――斎藤美奈子のハードボイルド=男のハーレクインロマンス説は、そのあたりを想定しての発言ではないでしょうか?――ように思います。
 もっとも、雑誌マンハントのところで指摘したとおり、正統派ハードボイルドと通俗ハードボイルドという区分は、すでにあって、それとは別次元の区分として、ディテクションの小説とクライムストーリイが(分かりやすく言えば、チャンドラーとJ・Ⅿ・ケインが)混在し、ディテクションの小説は、私立探偵(しかし、限りなく犯罪者に近かったりします)が主人公のタフガイノヴェルが、現実味を意識するにつれて、警察小説へと傾斜していく。そうしたものをひっくるめて、ハードボイルドと呼ばれていました。60年4月号には、そうした混乱が反映されています。
 エミリイ・ジャクスンの「誤算」は、ある射殺事件の有力容疑者(証拠がつかめず、警察はやっきになっている)を、被害者の妻が脅迫しようとしているという異様なシチュエーションを、捜査当局者が見張っているという、凝った設定ですが、ハードボイルドというよりは、プロットのひねりを重視したミステリです。もっとも、たいしたツイストではありませんが。アルバート・ジョンストンの「ルイズヴィル・ブルース」は、貨物列車に無賃乗車するホーボー(「北国の帝王」という映画がありましたね)の男が死ぬまでを描いた、短かいクライムストーリイです。それなりに不気味な描写があって、読ませはしますが、たとえばハワード・ショーンフェルドの「神の子らはみな靴を持つ」と比べると、小説としての厚みと射程が段違いに劣って見えます。ローレン・グッドの「かくて砂漠に花咲かん」は、誰も訪れ手のない砂漠で暮らす老人ふたり組の、奇妙なクライムストーリイです。こういう小説は、被害者の側から描いて、サスペンス小説にするのが通常ですが、そこを逆に行っている。それだけに意外性はありませんが、ぬけぬけとしたところが面白く、ひねったクライムストーリイにはなっていました。しかし、これをハードボイルドと呼ぶ必要があるものやら。
 64年3月号は、ハメットの「夜陰」が掲載されています。対照的なのがフランク・ケーンの「血まみれのハレルヤ」です。冒頭から女の死体がころがっているという、通俗ハードボイルドの典型的な始まり方。舞台はニューオリンズで、バトン・ルージュから出てきたという女は自殺らしいのですが、父親はその理由を知りたくて、私立探偵のジョニー・リデルを雇ったのでした。被害者の交友関係から始めて、関係者へ次々と会っていく。ハードボイルドの常套的な展開のうちに、アクションとセクシャルなディテイルを盛り込んで、あっという間に読み終わるという、これが通俗ハードボイルドだという一編でした。ピーター・チェイニイの「遅すぎた行動」は、私立探偵オディのところに、依頼人が現われるという、これまたハードボイルドの典型的な冒頭です。依頼人の妻は高名な作家ですが、彼女が親しくしている男がいて、その男のことを詳しく調べてほしいというのです。オディは離婚問題はあつかわないのですが、そこへ男の妻から電話がかかってくる。自分の良人が訪ねてきているだろうが、自分はもう、夫も親しくしていた男も、なにもかも嫌になったので、これから家を出ていく。ついては、そのことを夫に伝えて、わたしのことは放っておいてほしいと言うのです。依頼人は大慌てで帰宅しますが、そこには妻が死体となって待っていた。ディテクションの小説ですが、「スペイドという男」がそうであったように、あるいは、それに輪をかけたような、シャーロック・ホームズのライヴァルに一歩及ばずといったトリック小説でした。

 特集の他にも、比較的ヴォリュームのある中編作品が載ること――もっとも、それはハードボイルドに限らず、パズルストーリイやサスペンスミステリにもあったことですが――もあって、いくつか、それらの作品にも目をやっておくことにしましょう。
 トマス・B・デューイの「肉体の荊」は中編というよりも、短かい長編といった長さで、『世界ミステリ作家事典[ハードボイルド・警察小説・サスペンス篇]』のデューイの項でも、森英俊が好意的に紹介しています。初出はコスモポリタン53年2月号となっていますが、同年に発表された長編Every Bet's a Sure Thingのコンデンス版のようです。シカゴの私立探偵マックのシリーズですが、今回の任務は、シカゴでは中位ながら全米に事務所を持つ探偵社からの下請け仕事です。列車でロサンジェルスに向かう、子どもをふたり――兄と妹――連れた女性を尾行するというもの。途中下車したら、やはり尾行を継続するよう、千ドルと一等の切符を渡されます。小説の冒頭では、サンタ・モニカの崖っぷちで、知的障害を抱えた息子を連れた白い背広の男と、マックが出会う場面が描かれていて、その場面の意味が、読者には小説半ばまで分からないという趣向です。ひょんなことから、マックは尾行対象の上の子どもと仲良くなったと思いきや、途中で謎の男が乗り込んできて、銃をつきつけ、マックを列車から突き落とす。ここで足を負傷するのが、最後までマックのハンデとなりますが、それに屈することなく、飛行機をチャーターしてロサンジェルスに先回りをします。
 舞台が大きく動くというのは、ハードボイルドにしては珍しい部類です。ロサンジェルスに着いてからは、尾行の任務の受け渡しをするのですが、そこにやって来る西海岸の探偵が、わずかな描写ながら腕利きであることを伝え、それに比べて、そこのボスは胡散くさい。マックの恩人であるレギュラーキャラクターのドノヴァンも、休暇がてらにロサンジェルスに現われます。事件そのものとそのからくりに、目新しいところはありませんが、知的障害の子ども(といっても青年くらいでしょうか)も含めて、子どもを持つ人々が子どもを持つことで自ずと滲み出てしまう労苦が、事件の背後に影絵のように浮かんでいるのが、平凡な追跡型のディテクションの小説に留まるのを救っていました。
 デイ・キーンの「口紅のように冷やかに」は、『明日に別れの接吻を』ふうのクライムストーリイです。語り手の主人公は、街を牛耳るギャングのアルツーロの覚えめでたく、チンピラの域を脱しようとしています。コニーという妻だか彼女だかが、感化院から出所してきたところです。どうやら、彼女が補導されるのを傍観していたらしく、それでも、暴力とセックスを組み合わせることで、馬鹿な女はてなずけられると信じている。折から、新任の地方検事のフィリップスが市の浄化に乗り出していて、その件でアルツーロから招集がかかっています。コニーは感化院で、そのフィリップスに諭されて、好意を持っているらしいのでした。アルツーロには参謀格の頭のいい男がいて、これがコニーに目をつける。更生したふりをしてフィリップスの行きつけのレストランで働かせ、夜学に行きたいと相談させる。周囲の目がふたりの仲を認めたところで、コニーの家にフィリップスを呼び寄せて、主人公に撃ち殺させようという算段なのでした。
 一人称でチンピラギャングの破滅を描くのは、どうしても『明日に別れの……』と比べられてしまうもので、主人公の陰影、屈託といったものが、キーンには欠けています。それを補うのが、中盤以降の、罠を逆手にとって、フィリップスとアルツーロを一挙に片づけてしまおうという展開です。もっとも、ここでも、主人公にそれを焚きつけるコニーの変化が上手く描けていない(スペルミスがなくなっていく手紙で描いているのかもしれませんが、それなら翻訳に反映させるべきでしょう)。罠全体へのフィリップスの関与のほども、この主人公の一人称であるかぎりは、書き込めないので、そこを描くのにも技量が必要でした。

「遅すぎた行動」がパズルストーリイ(不出来ですが)だったように、「口紅のように冷やかに」がクライムストーリイであったように、警察小説だったのが、フランク・ウォードの「轢き逃げ」でした。この作品は紹介時にハードボイルドと銘打たれてはいませんが、警察小説とも呼びにくい。ハードボイルドとくくっておくのが無難といった作品でした。主人公は語り手でもある警部ですが、上司である署長が意気消沈している。起きたばかりの轢き逃げ事件の被害者は、十一歳になる彼の愛娘だったのでした。主人公と部下の刑事が捜査を進め、被害者を轢いた自動車が、署長自身のもので、盗難にあっていたことを突き止める。見逃されやすいところに残っていた指紋に気づいて、自動車泥棒の青年を逮捕し、彼は自動車泥棒は認めますが、少女を轢いたことは否認したまま、裁判で二十年の刑が下ります。しかし、主人公には青年が犯人ではないのではないかと思うところがあって、再び事件を調べ始めます。
 捜査とそのプロセスを通して、主人公の警官の人間的な側面を描く。そういう意味では、警察小説と言えるのでしょうが、主人公ひとりに焦点があたっているところが、チームプレイを描くことの多い警察小説と、一線を画しているように見える所以でしょう。事件とその捜査を通して、探偵役個人の人間的な面を描くという意味で、ハードボイルドと呼んだ方が適切だとも言えそうです。もっとも、被害者の父親である署長も警察官ですからね。そこが、この小説の個性とも特徴とも言えます。小説は、教会の牧師が登場するあたりから、シリアスながらありきたりな展開になっていき、結末はむしろ凡庸でしょう。なにより、凶器となった自動車が被害者の家のものだった点を、当初なおざりにする説得力のなさが、最後までつきまといました。
 やはり警察官が主人公で、友人が脚本を書いた映画のプレミア上映会のアトラクション(出演者が舞台で短かい実演をする)の本番中に、拳銃の空包が実弾に詰め替えられているという殺人事件に遭遇するのが、フレドリック・ブラウンの「殺しの初演」(読み残していました)でした。55年の作品です。主人公である地方の警察署長――絵描きを志して当地にやってきて、そのまま居つき、若いころ警官だったことから警察署長の募集に応じた――が、小説の始まりから終わりまで酔っぱらっているというのが、趣向のひとつです。冒頭から、酩酊した主人公が殺人を目の当たりにする。犯人が実弾とすり替えた空の弾丸の隠し場所というのが、狭義のトリックとして使われていますが、そこよりも、犯人を割り出すための論理が、なかなか周到です。
 衆人環視の劇場での殺人――しかも、事件直後すぐに封鎖される――で、被害者が恐喝者と、クイーンの『ローマ帽子の謎』を思わせます。「踊るサンドイッチ」『死の接吻』を連想させたように。しかし、小説が始まった当初は、あまりパズルストーリイを読んでいる気にはなりません。主役の酩酊署長を始めとする、登場人物の描写に多くの筆が割かれているからです。逆に言うと、この部分に筆を割くパズルストーリイは、そう多くはなかった――その行き方をクリスティが多用するまでは――ということでしょう。
 フレドリック・ブラウンの「殺しの初演」(原題はPremiere of murderで、あまり信用できない翻訳のような気がします)や、ピーター・チェイニイの「遅すぎた行動」を読むと、これらはパズルストーリイであり、ハードボイルドとパズルストーリイは、同時にその条件を満たしうるということが了解されるでしょう。しかし、日本の多くの読者が、本当にそのことに気づいたのは、1980年代に入ったのち、瀬戸川猛資が『夜明けの睡魔』で、ロス・マクドナルドの『さむけ』をパズルストーリイとして評価したときだったように思います。

※ EQMMコンテストの受賞作リスト(最終更新:2014年11月5日)



短編ミステリの二百年1 (創元推理文庫)
モーム、フォークナーほか
東京創元社
2019-10-24


短編ミステリの二百年2 (創元推理文庫)
チャンドラー、アリンガム他
東京創元社
2020-03-19