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『短編ミステリの二百年2』は、好評発売中ですが、収録作品のひとつレイモンド・チャンドラーの「待っている」について、翻訳家の門野集さんから、面白いメールが来ました。
「How about lending me that phone number?は、ロールズが短い時間ホテルの部屋にいた:一時間後にこっそり出ていった:トニーがそれに手を貸した:部屋代も払った:そのあとトニーに(部屋にいたのとは別の男の声で)電話がかかってきた:ということで、フロント係は、短い時間部屋にいた男がちょっとしたお楽しみのために呼ばれた男で、その男が帰ったあと元締めというか派遣もとからトニーにその後始末のために電話がかかってきたのだと考え、トニーに対してそのエスコートサービスみたいなやつの電話番号をおれにも教えてくれないかときいたのではと読みました」
 いかがでしょう? 深町眞理子さんの意見も、うかがいたい気がしますね。
 さて、前回読んだジョー・ゴアズの読み残したものを読んでおきましょう。
 ジョー・ゴアズが、キャリアの晩年に、コミカルな要素を増したと書きましたが、少し正確さを欠いた書き方でした。そういう作品もありますが、暗いトーンの短編も、また書いているのです。「死者の舞踏」は1991年の作品ですが、サンフランシスコの再開発の一環として、ヒスパニックの画家グループによる壁画が描かれようとしています。その中心となる画家が殺されて、私立探偵のファーゴが、後を継いで絵を完成できる画家を探すように依頼を受けますが、つきとめた画家が、次々と殺されていきます。「夜霧のサンフランシスコ」は2001年の発表ですが、尾行対象の素性どころか名前すら知らされないという、奇妙な依頼を受けた古参の探偵ロマンス――コンピュータの時代に生き残った、卑しい街を歩いてきた男――が、尾行相手を見た瞬間、かつて自分が手掛けた事件を思い出し、その事件が回想されます。どちらも、依頼そのものに罠が仕掛けられたという意味で、私立探偵小説にしては凝ったプロットですが、それ以上に陰惨な事件であることが目を引くものでした。
 ジョー・ゴアズの追悼号に訳された「黄金のティキ像」は、「パフア」に登場したフェロとタヒチ人の相棒マチュアのシリーズ中の一編です。いかにも胡散臭げな依頼人から、潜水の腕を見込まれて、水没したという伝説のキティ像を引き上げる片棒を担げという話がくる。たまたま海中でそれを見つけた男から(拷問でもしたのか)場所を聞き出しているというのです。ティキ像にまつわる伝説を迷信とは考えないマチュアは二の足を踏みますが、フェロは分け前をつりあげる。依頼人のくえなさと、海中のアクションは見どころがあるものの、平凡な出来でした。
 ジョー・ゴアズはMWAのアンソロジーにはなかなか好意的で、ここまでに読んできた作品にも、アンソロジーの邦訳で読んだものも結構あります。立風書房が『現代アメリカ推理小説傑作選』として出した3巻(72,73,76年のアンソロジーの翻訳)にも、皆勤していました。しかも、いずれも、いつものゴアズとは肌合いが異なる。
「油断は禁物」は、73年のアンソロジー(ハンス・S・サンテッスン編)に、ジョーゼフ・N・ゴアズの本名で書き下ろされました。左翼過激派の中でも現実的(つまり犯罪の実行に自覚的ということです)な語り手――「カナダから公費でやってくるノンポリ学生たちのように、サトウキビを切ったりして、自分のキューバ滞在を無駄にはしなかった」と言って、手刀で相手の意識を奪う技を披露します――が、新入りが爆弾を誤爆させた事件の処理にあたるという、短かい話です。DKAのシリーズでも、ゴアズは60年代のフラワームーヴメントには皮肉な態度を見せていましたが、ここでも似た感覚がある一方で、短かい中で幾重にも罠を張り巡らせる感覚が、スパイ小説ふうクライムストーリイに仕上げていました。
「悲しくも血ぬられた時」「裏切りの縄」は、ともに歴史小説です。前者はアンソロジーそのものが、過去を舞台にした作品を集めたもので、ゴアズの一編も、1593年のロンドン(ペスト禍のただ中です)と明示されています。劇作家クリストファー・マーロウの死(酒場での喧嘩の末殺された)が、ウォルシンガム卿の陰謀ではないかという話で、ゴアズの教養のほどはともかく、凡庸な話でした。語り手の正体は、読まなくても分かりますね。「裏切りの縄」も、中東の民族支配に抗するスパイ小説ないしは謀略小説(ふうの書き方なのです)と見せかけて……という一編。「悲しくも血ぬられた時」よりも、こちらの方が、技はキマっていますが、だからといって、とりたてて秀れているとも思えませんでした。

 ウェイド・ミラーはアメリカの二人組の合作作家ですが、スピレイン旋風のころにキャリアを開始し、その後警察小説ブームにも、ついていった書き手です。ホイット・マスタースン名義の『ハンマーを持つ人狼』が、日本では広く読まれた方でしょうか。
 EQMMへの初登場は「事故への招待」のようですが、これは第十回コンテストの第二席作品でもありました。サンディエゴの旧家の末裔である主人公が、幼なじみである女性――離婚後再婚している――の家に招かれます。最初の夫はダメ男のようですが、それでも再婚相手に、よそ者を選ぶくらいなら、ダメ男まだしもと主人公は感じている。彼女の方も再婚に退屈さを覚えていて、別れた夫と一、二度会っている。訪ねたその日、彼女の身に事故が降りかかり、危うく生命を落としそうになります。主人公は、それを妻の不貞に気づいた再婚相手の仕業で、自分は事故の目撃証人として招かれたと見抜き、ふたりで釣りに行こうと誘われたのに乗じて、対決を試みますが……。主人公には、いささかドン・キホーテ的な部分があって、それゆえに危機に陥るというサスペンスストーリイですが、そこが説得力をもっては描かれていない上に、それがために、オチも主人公の愚かしさを出すまでには到っていませんでした。そうは言っても、凡庸な精神科医ものとしか言いようのない「追憶の時」に比べれば、「事故への招待」は、まだ、ましな方でしょう。
「厄日のドライヴ」は、自動車を運転していた男が、車になにかがぶつかったと感じて、停車するところから、始まります。見ると女性が死んでいて、そこへパトカーが通りかかる。パルプマガジンあたりのサスペンスミステリなら、殺人を疑われるのでしょうが、ブレーキをかけていないのは気づいていなかった証拠といった、捜査側の判断が描かれるのが、警察小説ならではです。男は心中穏やかではありませんが、警察は逆に生垣から被害者のバッグを見つけることで、別の車が一度轢いたものではないかと疑います。ただし、そうした手堅い警察小説が、最後に到って突拍子もないものに化けてしまうのを、面白いととるか唖然とするかは、評価の分かれるところでしょう。私は、あまり感心しません。
 これらに比べれば、ホイット・マスタースン(雑誌掲載時はウィット・マスタースンの表記もあります)名義の中編は、まともな作りです。
「ギルモア・ガールズ」は、高名な挿絵画家のギルモアが、ピストル自殺を遂げますが、彼に近しい三人の女(愛娘、イラストのモデルとなった女性、再婚の婚約者)は、どうしても彼が自殺したとは信じられない。直前に、サンフランシスコに行っていることや、死の直前の手がかりから、娘がサンフランシスコに、モデルがシカゴに飛びます。フィアンセは自殺した家で手がかりを探す。サスペンス小説というよりは、シャーロット・アームストロングあたりの長編に近い、ディテクション風味の冒険小説です。この手の小説は、しろうとが探偵役を務めるため、よほど構成に細心の注意を払わないと、都合よく見えてしまうものです。「ギルモア・ガールズ」も、その気がなきにしもあらずで、とくに、サンフランシスコの警官は、ウールリッチなみの好都合な警官でしょう。
「白昼の闇」は、出だしの謎めいた状況の作り方は一級品です。主人公は航空機会社の若き契約部長ですが、ある日、会社で脅迫状を受け取る。おまえの正体は知っている、生命がねらわれているぞ、金を出さなければ、おまえの居場所をやつらに教えるぞ。そういう内容です。しかし、主人公に心当たりはなく、家にいる妻に電話をかけて相談します。ところが、その電話が、たまたま、業務上の保安のため、無作為に行われる盗聴(!)の対象だったことから、副社長の知るところとなり、警察に通報することを社命で止められてしまう。折りしも、ライヴァル会社の部長が、それとは知らず近所つき合いをしていた、ラスヴェガスから来たギャンブラーが殺されて、新聞に連日社名つきで名前が出ています。会社としては、同じ轍は踏めないというのです。場面が変わると、主人公の行きつけのクラブのマネージャーが、主人公のことを、ラスヴェガスのギャングに密告しています。賭博の負けをごまかして姿を消した男が身分を変えてここにいると。早速、殺し屋がやって来て、ターゲットの元の妻を呼び寄せ、面通しの手配をします。
 身に覚えのない脅迫に戸惑う主人公と、彼を始末すべき相手と確信しているギャングたち。どちらが正しいのか、分からない上に、副社長の動きも怪しげで、彼の命で保安課員が主人公を尾行している。申し分のないサスペンスです。転職の予定がある部長仲間――会社の電話が盗聴されていることを知って、使わないようにしようとする――といった脇役の楽しさもあります。主人公が反撃に転じてからの展開も良く(ここでも、招集された部長たちが、巧く使われています)、殺し屋が主人公をターゲットと確信する理由も、巧妙でした。マスタースンで読める出来栄えなのは、この作品でしょうか。
「ティモシーはどこに」は66年にアーゴシーに発表されたものが、EQMMに発掘されたそうです。20年前に西海岸の富豪の、七歳になる息子が行方不明になっている。暴君の父親、愛情に欠けた母親、自分が無視されていることから兄を憎んでいたらしい妹。さらに使用人や保安官、事件を追った新聞記者など、関係者がみんな不幸になっている。ひょんなことから妙齢の女性となった妹と知り合って、互いに愛し合うようになった青年が、彼女のトラウマとなっている事件を掘り返します。丁寧には作っているものの、事件は予想されるように展開し、予想される結末を迎えます。解明に向かうプロットの単純さもさることながら、事件の関係者としてではなく、傍観者であるはずの私立探偵を媒介としたロス・マクドナルドが、いかに賢明であったかが、逆に分かろうというものでした。
 ウェイド・ミラー=ホイット・マスタースンは、ハードボイルドから警察小説に転身したと、従来解説されることが多かったようですが、こうして中短編をチェックしていくと、その時々のニーズに応じて、職人的に仕事を仕上げていった作家のように思います。

 ジョン・D・マクドナルドは40年代から執筆を始めた、息の長い作家です。
 初期の短編は、一見、型通りの話を型通りに書いているように見えるのですが、その実、どこか箍のはずれたところがある。「悪い奴ほどよく眠る?」「悪者は俺に任せろ」)は、ブラック・マスクが初出ですが、名刑事が手柄話を語るという、前世紀のイギリス以来、掃いて捨てるほど書かれた形式です。遠隔地にいると見せかけての妻殺しというのも、手垢がついているでしょう。書きぶりもありきたりです。ところが、全編語り終えたところで、唐突に不思議なオチがやってくる。こういうオチは、普通、なんらかの伏線を張るものでしょうが、それがなくて、突然やってくるのです。
 同じくブラック・マスクに書かれた「マンハッタン大活劇」は、ニューヨークじゅうを小刻みに立ち回ることで、絶対に賭けで損を出さない男が、より大掛かりな仕事師の企みに巻き込まれて、拷問さながらに痛めつけられる話です。拳銃を手に復讐に出るのですが、小鷹信光が「どこかなげやりで、やぶれかぶれ」と形容する結末が訪れます。
「三度裏切れ」は、これまた、富くじ賭博を仕切るギャングのシンジケートで、主人公がのし上がっていくという、いくつも書かれたような話です。主人公は、自分の親分が、トップのボスの生命を狙っているのをかぎつける。パーティの席で決行されたその企みを、直前で阻止することで、トップに取り入り、ふたりを殺し合わせるよう仕向けます。絵に描いたようなギャングの内輪もめの物語ですが、すべてが終わったところで、ほとんど、なくてもいいような、結末がくっついているのです。
 このあたりの不格好さは、ある意味で、目立ってやろう、足を出してやろうという足掻きなのかもしれませんが、それにしては、悪目立ちというものです。そういえば、以前読んだ「懐郷病のビュイック」も、警察小説ふうの書き方から、突如、奇妙な探偵役が登場し、謎を解くという構成になっていました。もっとも、この作家は、時おり、ありきたりなトリック小説を書くことがあって「ほら、死んでいる」など、誰も、この作家の作品だとは思わないのではないでしょうか?
「奇妙な結末」は1963年の作品ですから、長編作家となり、キャリアもそれなりに積んだのちの短編ですが、やはり、少し破格なところがあります。植木の手入れをしていた主人公の男(老境にさしかかっています)が、口汚くののしられながら、妻からパイプを投げつけられる。我慢も限界と、荷物をまとめて出て行こうとしますが、友人の保安官に語られるのは、24年前に、この地へやってきたときに、出納係だった職場から12万7000ドルを持ち逃げしたという事実でした。誰にもしられぬその秘密をうちあけ、その後、話は明後日の方向に逸れていきます。
 どうも、不思議な作品の多い、ジョン・D・マクドナルドの短編は、さらに次回も読んでいくことにします。

※ EQMMコンテストの受賞作リスト(最終更新:2014年11月5日)



短編ミステリの二百年1 (創元推理文庫)
モーム、フォークナーほか
東京創元社
2019-10-24


短編ミステリの二百年2 (創元推理文庫)
チャンドラー、アリンガム他
東京創元社
2020-03-19