家族観や人生観、ジェンダー観など、昨今は価値観が大きな変化を迎えているとよく耳にする、実際にそう感じる出来事も多々ある。そのなかで自分はなにをどう考えるか。大きな声に影響されずに、本当に自分が望むことを自覚できるのだろうか。
 須賀しのぶ『荒城に白百合ありて』(KADOKAWA 1700円+税)は、激動の時代のなかで、自分の本当に望むものを模索しはじめる男女の物語だ。
 幕末の江戸。会津(あいづ)藩の屋敷で生まれ育った鏡子は、藩と家族に尽くすことが女の務めと教え込まれ、それを疑わずに生きている。だが、安政(あんせい)の大地震の日、屋敷から飛び出して街が崩壊している様を見て、自分の中の価値観、人生観も崩れていくのを感じる。そんな茫然自失状態の彼女を助けたのが、薩摩(さつま)藩士の岡元伊織だ。伊織もまた、尊王攘夷(そんのうじょうい)と開国の間で揺れる世の中で、藩の動きに相容れないものを感じていた。心の奥底で世の中からはみ出していると感じている二人は、惹かれ合っていく。

 会津藩と薩摩藩がやがて敵対することは周知の通りだ。まして会津藩の行く末を知っている現代の読者は、この淡い恋に甘やかな未来は期待できないだろう。まさに悲恋ものだといえるが、須賀しのぶが描くだけあって、単なるメロドラマでなく、国家と個人、時代と個人の物語が骨太に描かれていくのが本作の魅力。

 社会といえば国家だけではない。たとえば現代日本の少女たちにとって、教室という数十人しかいない空間も社会である。井上荒野『あたしたち、海へ』(新潮社 1600円+税)は、その狭い空間のなかでの同調圧力に苦しむ少女たちの物語だ。
 中学生の有夢(ゆむ)と瑤子と海は幼馴染(おさななじ)みの仲良しで、ともにリンド・リンディというミュージシャンのペルーという曲が大好きな女の子たち。だが、マラソン大会でクラスの中心的存在のルエカに海が従わなかったことから彼女は村八分にされ、追い詰められたあげくに転校してしまう。そこで次のターゲットにされたのが、有夢と瑤子だ。そもそも海を守らなかったことに罪悪感を持つ二人。リンド・リンディの曲に影響されて「一緒にペルーに行こう」と言い合うのが二人の習慣だが、少しずつ、読者はその言葉の真の意味は「一緒に死のう」という意味だと分かってくる。

 視点人物は有夢や瑤子のほか、担任教師や親、ルエカ、海の母親など複数だ。大人たちが自分たちのことで精いっぱいである状況や、ルエカはなぜそんな卑屈な性格になっているのかも分かってくる(だからといって彼女を擁護しているわけではない)。救いとなるのは、海の母親の視点の章。彼女が勤務する高齢者専用マンションでも同調圧力が発生していることが語られ暗鬱(あんうつ)な気持ちになるが、ここで反発心を見せる波多野さんという女性がとても格好いい。

 もちろん、少女たちについて、苦しむ姿だけが描かれて終わるわけではない。最終章で彼女たちになされる提案に著者の思いがこめられているのだろう。今苦しんでいる誰もができることではないが、教室の中だけが社会でも世界でもない、という示唆(しさ)を与えてくれる。