2017年ローカス賞第一長編部門受賞、
ヒューゴー賞・ネビュラ賞ファイナリスト
ユーン・ハ・リー『ナインフォックスの覚醒』解説

渡邊利道
 Toshimichi WATANABE


ナインフォックスの覚醒

 本書は、アメリカの作家ユーン・ハ・リーYoon Ha Leeの長編小説Ninefox Gambitの全訳である。エキゾチックな異世界ファンタジー風ミリタリーSF/スペースオペラで、2016年にSolaris社から刊行され、翌年のローカス賞でその著者にとっての最初の長編を対象にする第一長編部門を受賞、またヒューゴー、ネビュラ両賞のファイナリストに選出されるなど高い評価を受けた。

 物語は緊迫した陸戦の場面ではじまる。「暦法(れきほう)」と呼ばれる、高度な数学で算出された優暦(ゆうれき)に基づく集団行動によって超物理的な力を発揮し、宇宙にその版図をひろげた専制国家・六連合(ろくれんごう)は、独自の暦法を用いる「異端」との激しい戦闘の只中にあった。連合を構成する六つの属の一つで、主に軍事を担当するケルの若き女性軍人チェリスは、出自に似合わぬ数学の才能の持ち主だったが、優暦の順守を求める六連合の方針からはみ出す行動を厭わなかった。作戦中に突然上層部に呼び出された彼女は、優暦の重要な拠点で、政府の心臓部近くにある尖針砦を占拠する異端勢力の鎮圧を命じられる。考えられないような大抜擢だが、それはかつて戦争の天才として栄誉を恣にしながら、突然敵味方の区別なく百万人以上を虐殺したため、最悪の犯罪者として肉体を滅されたものの、その軍事的才能を惜しんで精神だけの状態で幽閉されている反逆者ジェダオを自らに憑依させ、参謀として(実際にはその指示に従う立場に過ぎないのだが)同行させよという命令なのだった。戦略の天才ジェダオには数学の才能が欠けており、チェリスはその穴を埋めながら、反逆者を警戒しつつ砦奪還に向かうが……、というもの。

 作者は名前からもわかる通り韓国系のアメリカ人で、そのためかどうかはわからないが、六連合は東アジア風の文化風俗を背景に造形されている。それが最も顕著なのが食事の場面で、箸や漆器、米飯や辛い白菜の漬物といった小道具を詳細に描くことで、暦法によって秩序づけられた魔術的世界を、地に足のついた生活に裏打ちされたリアルなものにしている。またヒロインのチェリスは辺境地域の出身で、言葉の問題や、進級・職業選択などで何度も人生の岐路に立たされた経験があり、そのあたりの描写にはポストコロニアルな問題意識を読み取れる。さらには、ジェダオも地方出身者で、互いの故郷や家族についての美しい述懐が交差する優しい共感に包まれた場面がしばしばあり、殺伐とした物語に可
憐な花を添えている。
 六連合は役割分担された六つの属によって構成されているのだが、その属間にある微妙な文化的差異や偏見の網、それに政府内部での権力闘争の陰謀などがさまざまに張り巡らされていて、敵味方双方の軍内部の人間関係や組織の慣例といったものが、政府内部の高官たちの会話や反乱勢力の内部文書などのかたちで挿入され浮き彫りになる。またチェリスに憑依したジェダオが思わせぶりに語る言葉の隅々からはその暗い過去や、虚偽の歴史教育など六連合内の暗部が推察される仕掛けになっている。
 物語の基本は、優暦と異端の暦それぞれの魔術的な力を駆使した戦いと、その裏に隠された政治的意図の権謀術数の戦いという大きな世界に、ジェダオとの会話を通して浮かび上がるチェリスの個人的な生活の細部と思い出が挿入されるかたちになっていて、場面としてはほぼ戦場の中で進行する。チェリスは、下級士官でありながら特別に作戦の司令長官に抜擢され、稀代の戦略家であるジェダオに指導される立場であり、いわば地を這う視点で戦場を俯瞰することになる。その視差のダイナミズムと、伝説的な人物に憑依されたオカルトな状況に追い詰められていく精神的な危うさが、乾坤一擲の作戦を余儀なく採らされる戦況とも相まって緊張の度合いをいや増しに増すのだ。
 設定の現代性と言えば、作中でのジェンダーの扱いにもそれは強く窺える。作中に登場する重要な役割の人物は敵味方を問わずほとんどが女性で、高い地位にある人物も男性よりも女性の方が多い。伝説の大反逆者ジェダオは男性だが、彼は才能と実績は抜きん出ているものの実は非常に弱い立場の人間に過ぎず、六連合は明らかに女性優位の社会である。またチェリスは同性愛者で、メロドラマを見るのが趣味という設定もいかにもフェミニンだ。彼女は、「僕扶(ぼくふ)」と呼ばれる六連合内で使役される知能を持った自律ドローンたちを、それぞれ独立した主体として敬意と愛情を持って接する一種の「変人」として描かれているが、そこには異質なものに対する繊細な気遣いが感じられる。
 もちろん、多くの女性キャラクターが登場するだけにその性格も多様で、女性的なステレオタイプから逸脱した描写も多く見られる。作者はジェンダー的にはトランス男性で、夫と娘と暮らしているそうで、作者のプロフィールから作品の内容を云々するのは危険だしつまらないが、伝説の男性に憑依された才能ある若い女性が、さまざまな内面的影響を受け葛藤するという本作のメインとなる物語には、作者のジェンダー経験がどれくらい反映されているのだろうかと考えずにはいられない。
 また、本作世界の基盤をなす「暦法」を支えているのが数学であるという設定になっているのが、これもやはり作者が大学で数学を学んでいたという経歴を思い起こさせる。
 数学は、自然科学に対して記述言語としての性質は持っているが、一般的には抽象的な観念の体系であって、論理的な一貫性が保たれていればその対象の実在性はあまり問われない。本作での、世界を記述する言語であるところの数学によって世界を統御し、物理的な法則を超える力を発揮するという設定は、数学のそのような特性をある種の言語SF的な方法で利用しているのだと言える。六連合世界の統制原理である優暦に対して、異端は「違う暦法」を用いてその世界の法則を揺るがすのだが、数学の天才たるチェリスは、異端の暦法を逆利用する戦術を採る。これは、算術の進化に伴い、例えば「3-3や2-4は自然数ではない」という観点から「0(ゼロ)」と「負の数」が、「3÷5は自然数ではない」から「有理数」が、「√2は有理数ではない」から「無理数」や「実数」が、「√-1は実数ではない」から「虚数」や「複素数」が、というふうにどんどん数の概念が拡張され、「数学的対象」の世界そのものが変容していったというような数学の構造的な歴史性を踏まえているのに違いないだろう。そしていうまでもなく、例えばはじめ実在とまったく何の関係もないようだった複素数は、現在では量子力学の数学的定式化に欠かせない本質的な概念になっている。数学的対象(概念)の実在性という形而上学的なテーマは、じゅうぶんハードSF的なテーマだと思われるが、同時にその法則性を世界の法則に重ね合わせることでハイ・ファンタジー的な「世界」を造形することも、ある意味で定番のあり方だ。これは実際のところ、虚構の世界を造形するという意味で、SFとファンタジーは思われているほど異質な物語ジャンルではないということだろう。
 たとえば本作における東アジアテイストの風俗描写やポストコロニアルな批評性、またフェミニズムを当然の前提としているかのようなジェンダー観などのいわゆる「多様性」の感覚は、現代英米SFの大きな潮流の中にあるように思われるが、その流れをなす作品の多くは、遠い未来を舞台にした宇宙SFやスペースオペラであると同時にファンタジー的な作品である。これは現実と地続きにある近未来を描いた作品の主流が現在の困難を誇張したいわゆるディストピア小説であるのに対し、多様性の観念を理想的な未来社会に投影したユートピア小説の側面をこれらの宇宙SF/ファンタジーが担っているように見え、なかなか面白い構図を作り出している。いずれにしてもSFは現代社会に対する文明批評的な意味合いを持っているということなのだろう。

 最後に作者について。ユーン・ハ・リーは1979年テキサス生まれ。年少時にはアメリカと韓国を行き来しながら暮らし、高校は授業などで主に英語が使われる韓国のインターナショナルスクールに通った。コーネル大学で数学を学び、スタンフォード大学で中等数学教育の修士号を取得。市場アナリストやウェブデザイナーなどの仕事に就いたこともある。前述したとおり、彼はトランス男性であり、夫と娘とともに現在はルイジアナに住んでいる。
 大学在学中からThe Magazine of Fantasy & Science Fictionなどに短編を発表。ガードナー・ドゾワの年間ベストに作品が収録されたこともあり、ドゾワはリーが「SFを21世紀に移行させている一人である」と評している。他にもスタージョン記念賞やローカス賞などにノミネートされるなど高い評価を受けており、オリジナル短編集も二冊刊行されている。2012年にはイギリスのゲームスタジオFailbetter Gamesと共同でテキストベースのアドベンチャーゲームWinterstrikeを作るなど、多くのTRPGを発表している。
 第一長編の本作はMachineries of Empireとしてシリーズ化され、三部作の第二作Raven Stratagem(2017)と最終作となったRevenant Gun(2018)はヒューゴー賞のファイナリストに選出された。また、このシリーズの短編も多数執筆されており、Hexarchate Storiesという短編集が刊行されている。他の長編には韓国の神話をフィーチャーしたスペースオペラというDragon Pearl(Rick Riordan Presents, 2019)がある。
 ホームページのアドレスはhttps://www.yoonhalee.com。このホームページからは多数の詩作品も読むことができる。ツィッター・アカウントは@deuceofgears



【編集部付記:本稿はユーン・ハ・リー『ナインフォックスの覚醒』(創元SF文庫)解説の転載です。】



■ 渡邊利道(わたなべ・としみち)
1969年生まれ。作家・評論家。2011年、「独身者たちの宴 上田早夕里『華竜の宮』論」で第7回日本SF評論賞優秀賞を受賞。2012年、「エヌ氏」『ミステリーズ!』vol.90掲載)で第3回創元SF短編賞飛浩隆賞を受賞。