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 スティーヴン・バーは、『37の短篇』に収録された「最後で最高の密室」が、飛びぬけて有名です。というより、この一作で、日本では記憶されているように思います。実際には、それだけで済ませられるような凡庸な作家ではないのですが、そもそも、この作家の経歴その他が分かっていない。『37の短篇』の著者紹介は、小鷹信光が担当しましたが、スティーヴン・バーに関しては、実質的なことは、なにも書かれていません。「ある囚人の回想」が、EQMMコンテストの処女作特別賞を受賞したことも、つきとめられていませんでした。同作が翻訳されたのは、その2年後なので、仕方ありませんが。私にしても、この連載の、EQMMコンテストのところで、シリーズキャラクターを持たないなどと書いていますが、誤りもいいところです。「最後で最高の密室」の探偵役である、リージェント・クラブの最古参会員シルヴァン・ムーア博士は、数少ないバーの邦訳作品の中でも、いくつかで活躍しています。
「最後で最高の密室」は、他のシルヴァン・ムーア博士のシリーズと同様に、クラブでの雑談の場で、ムーアがそのときの話題に異を唱えて、その実例として、自分の探偵談を話すという構成になっています。この作品では、論理学者による密室ミステリ談義――密室ミステリの多くは、実際には犯人が犯行現場から出て行ったにも関わらず、フェアでない叙述のために出て行ったように見えないというだけの話――に、ムーアが割って入り(きみはね、いつかわたしが犯したのとおなじ誤りを犯しているんだよ)、犯行現場から、犯人が消え失せてしまった事件を語り始めます。冒頭に、こうしたやり取りを加えることで、そういう解決――そうは見えなかっただけで、実は出て行ったんだよ――にはならないと宣言しているわけです。シンプルで極端な解決を与えて、「最後で最高の密室」は、密室ものの短編でベストテンを編むとなった場合、選ぶ人がしばしば現われる作品となりました。
 このほかに、邦訳されたムーア博士の登場する短編には「A(n+1)の信頼」「時はゆるやかに走る」があります。前者は、「最後で最高の密室」がそうであったように、アイデアの骨子は、ハウダニットの思いつきにあります。殺人事件の現場にのこされた銃に容疑者の指紋がついている。彼が触れることのないはずの拳銃でした。容疑者の妻は夫を信頼していて、その信頼は限りないほど(つまりn乗なほど、と英語では言うんですね)でした。このハウダニットのアイデアは、「最後で最高の密室」ほど、破天荒なものではないので、その分印象は薄くなるのですが、冒頭のリージェント・クラブでの問答を、そちらの話題にせずに、容疑者の妻の信頼の表現にしたのが、この作家のセンスの良さでしょう。
「時はゆるやかに走る」は、ミステリマガジン1972年4月号に、本格探偵小説特集の中のひとつとして翻訳されました。各編に付されたサブカテゴリーは〈逆説〉となっていました。リージェント・クラブでの話題は、ある賭け事についてでした。一昨日バーミンガムにいたメンバーが、BBCの天気予報で、翌日には低気圧が近づき、午後の3時ごろロンドンは雨に見舞われると告げられます。ロンドンの北西にあるバーミンガムは、それよりも早く低気圧の襲来を受け、雨になることが予想されます。それでひとりが早めに――午前11時ごろ――発つことを提案します。そこでもうひとりが、その予想よりも早くバーミンガムが雨になる方に1ポンド賭けると言い出します。賭けは、その男の勝ちとなり、得意顔でクラブでも話していたのですが「とにかくそいつはビルが予想していたよりも速く進んだ、そしてその結果――」と言った瞬間、ムーア博士の挑戦を受けます。「どうも、あなたは根本的に思いちがいをなさってる」と。彼は、低気圧が「思ったよりも速く移動しなかった――それよりもずっとおそく移動した」と言うのです。
 事件そのものも、クイズのような設定です。容疑者のふたりは、それぞれ自転車と自動車で通勤している。両者の家(同じ町です)と職場の中間に被害者である上司の家があり、ふたりが時間をおいて訪ねてきたことが判明しているが、どちらが先に来たかは分かっていない(いかにも作った状況設定ですね)。警察は早くは動けない自転車では、犯行後遅刻せずに出社することは不可能だが、早く移動できる自動車ならそれは可能だと判断します。しかして、その解決は? ムーア博士は、のろのろしているものの方が早く着くことを証明してみせるのです。エラリイ・クイーンが冒頭につけた文章で、得心がいかない読者には「よろこんでその疑問を著者におつたえします」が「わたしたちにはそれをご説明する気はもうとうございません!」と断ってみせた、綱渡りのようなロジックで、スティーヴン・バーは解決をつけます。アキレスが亀を追い越せないという、有名な詭弁を連想させる、推理問題でしたが、それは確かにチャーミングな推理問題でもありました。

 ムーア博士のシリーズ以外の作品では、「恋がたき」が革命以前のフランスを舞台にして、イギリス貴族やイタリアの喜劇役者を配した三角関係の末の殺人事件を描いています。喜劇女優をはさんで、英仏両国の貴族が決闘に到るという状況で、若いフランス貴族が殺される。ハウダニットの解決そのものは、さして魅力がない上に、謎の提出も平凡ですが、舞台と人物設定の面白さはありました。
 初出が58年のプレイボーイだという「信じられない話」は、ある貴族のところへ見知らぬ男がやって来ます。願いをかなえてやるかわりに、あるものが欲しいと、これは誰が見ても悪魔の取り引きという話。この悪魔、サーヴィスが良くて、第一の願いは見返りなしで叶えると言います。ところが、叶ってみると、いいことばかりではない。「猿の手」みたいになるのかなと思っていると、あれよあれよというまに、ユーモラスな展開のうちに、パターンからずれていきました。
 この二作品は、ユーモラスな筆致が共通していますが、奇想天外に掲載された「目撃」は、うって変わってシリアスで悲劇的なトーンです。冒頭から、突然の夫の暴力に妻がショックを受けています。夫はバードウォッチングが趣味ですが、妻は植物の方に関心がある。ふたりで山道を歩いていても、互いの興味は少しずれていたのです。夫はすぐにあやまりますが、草花に気をとられている妻を置いてけぼりにして、鳥のいそうなところへ歩いていく。妻が急いで追いつくと、見晴らしの良い場所から戻ってきた夫は、何かを見たらしく、表情が一変しています。けれども、妻がいくら尋ねても、何も見なかった、何もなかったとしか答えません。そして、それを機に、夫は妻を遠ざけるようになり、彼女が生活の心配はないように処置したうえながら、行方をくらましてしまいます。不可解なままの長い年月が過ぎ、彼女はようやく、名前を変えて隠棲している夫を見つけ、会いにいき、そこで彼がかつて見たものを知ります。
 ミステリと言えるかどうかも怪しいながら、主人公の女性の陥った状況は、サスペンス満点です。彼女の一生のほとんどをかけて描いたサスペンス小説とも言えて、ようやく、彼女は、夫の見たものを知る。その長い時間を落ち着いた筆で描いた好短編ですが、ここでも光っていたのは、夫が何を見たのかという、謎の投げかけ方の巧みさでした。
「翼を拡げてさようなら」は、語り手が大不況のただ中のニューヨークを回想する話です。〈牧師〉と呼ばれる、人懐こい浮浪者からダイムをねだられます。この男には、催眠術師めいた魅力があって、声をかけられた人はみんな、相場を上回る小銭を、つい恵んでしまう。時おり交えるラテン語(だから〈牧師〉という通称がついたらしい)も、初等教育以上のものを思わせる。語り手ともども読者も、街じゅうにあふれる浮浪者の世界を、この男に案内されて――たいていの浮浪者は危険ではないが、その中でどんな男が危険なのか――いきます。語り手が〈牧師〉とともに体験した出来事から、警官が捜査すらしそうにない浮浪者殺し――殺されたのは、危険なはずの男でした――が起きますが、暗示に留められながらも、語り手と読者には、どのような事件が起きたかは明らかでした。同じニューヨークでありながら、誰にでも起こりうる転落の果てに待っている闇の世界を、クライムストーリイを通して垣間見せながら、その闇の深さを知ったその時には、語り手の立場も異なっていたという苦さが秀逸でした。
 EQMMコンテストのところで、スティーヴン・バーの「ある囚人の回想」を称揚した上で、「ミステリマニアあがりの作家だったのだなと、あらためて気づいた」と評しました。
 それほど、この処女短編において、心憎いまでに、巧みにミステリのテクニックを使いこなしていたからでした。誰しもがパズルストーリイのそれとしてか考えるであろう、公認されたアイデアを、クライムストーリイに仕立てることで、はなれわざのようなパスティッシュを完成してみせました。「目撃」のように、ミステリから離れたかのような一編でさえ、目立つのはミステリのテクニックの巧さであり、それがあってこそ、ミステリとしても読みうるものになったのでした。
 ムーア博士のシリーズはもちろん、他の作品でも多く見られる、語り手の回想という形式と、そこから必然となる過去の事件――謎解きミステリの黄金期を追慕しているかのような――を描くというスタンスは、スティーヴン・バーの技巧的な短編作りを、良い意味で活かしているように、私には思えます。もしも、スティーヴン・バーの短編集を編むことが出来るならば、アタマとトリに「最後で最高の密室」「ある囚人の回想」という、ミステリファンに対しては鉄板と思える二編を配し、「目撃」「翼を拡げてさようなら」のように、小説としての厚みも充分な短編がそろうという、私好みの一冊になることでしょう。

 ミリアム・アレン・ディフォードの名前が、ミステリファンの間で意識されるようになったのは、1971年にハンス・S・サンテッスン編の『密室殺人傑作選』が出たときではないでしょうか。この本は、テーマ別アンソロジーの邦訳の嚆矢となったもので、エドワード・D・ホックの「長い墜落」の紹介や、トマス・フラナガンの「北イタリア物語」(玉を懐いて罪あり)の再評価を促しましたが、「時の網」というディフォードの掌編が収録されていました。この作品は密室もののSFミステリという読まれ方をしたように思いますが、今回改めて読み返してみると、タイムトラベルテーマと悪魔との契約の話を、上手く組み合わせて、軽妙な一編にしたてていました。
 ディフォードの本邦初紹介は、私が思っていたよりも古くて、日本語版EQMMの58年9月号に「死手譲渡」というクライムストーリイが、それのようです。重篤な持病を持った大金持ちの看護婦が、主人公なのですが、主治医が数日留守にする間に、一服盛って金庫の金を持ち去ってしまおうと計画しています。シンプルな完全犯罪と思いきや、被害者に察知されていますが、その大金持ちは、むしろ自分の病気に嫌気がさしていて、死にたがっていることが分かるという、後半の展開から、グロテスクな結末まで、短い枚数でたたみかけるのが見事でした。
 ディフォードには、こういう完全犯罪をねらうクライムストーリイが、しばしば見られます。「探しだされ読まれるために」「正直な届出人」といった作品が、そうです。前者はギャングの手下同然の三流弁護士が主人公ですが、自分の計画した殺人が、目論見通りにはいかずに、しりぬぐいをさせられます。後者は、保険のセールスマンが、酒場で顧客のひとりと出会い、財布などの貴重品を預かるよう頼まれ、引き受けますが、その後顧客からの連絡が途絶えます。不審に思い警察に届けると、その男が殺されて発見される。しかも、直後に、そのセールスマンは失踪してしまうのです。「正直な届出人」は、捜査側から描かれているのですが、冒頭から、失踪した男から貴重品を預かった男が届け出てきて、しかも、この男に不審感があるという、ちょっとひねった出だしでした。もっとも、両作ともに、出来はいまひとつです。「正直な届出人」は、凝った犯行のわりにはリスクが大きく、そもそも、真相を隠すのが難しい話ではありました。
「正直な届出人」よりは、「わが子帰る」の方が、謎の投げかけ方という点では成功しています。西部の富豪で暴君的な男が、息子をいじめぬいて育てたあげく、家出されています。その富豪が殺され、しかも、死の直前の虫の息の状態で「ゴードン」と息子の名前を告げます。ニューヨークの新聞で、父親の死を知ったという、そのゴードンが家に帰ってくるなり、母親が警察に通報する。息子を逮捕してほしい、と。一方、息子の方は、自分は偽物で、本物そっくりなために、詐欺の片棒をかついだのだと主張します。本当の息子は、死んでいて、彼から実家の詳細を聞き出した黒幕が、ニューヨークにいるというのです。母親と自称息子の偽物は、まっこうから証言が食い違っていて、しかも、母親は息子と信じ切っていて、優秀な弁護士をつけて、精神疾患による責任能力なしの無罪を勝ち取ろうとする。ただ、この作品も、凝った計画犯罪が、かえって不自然さと真相の露見を早めたきらいがあります。
「正直な届出人」にせよ「わが子帰る」にせよ、犯罪計画の複雑さそのものよりも、前者の孤独な関係者の群像や、後者の暴君に支配された家族といった、背後の人間関係についての嗅覚に、この作家の特徴はあります。また、それあるがために、複雑で手の込んだ犯罪が作り物めくことがない。そうした美点が、サスペンスに満ちたミステリとして結実したのが、ディフォードが第12 回EQMMコンテストに投じた「ひとり歩き」と言えるでしょう。

※ EQMMコンテストの受賞作リスト(最終更新:2014年11月5日)