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【東京創元社編集部より】
小森収先生の連載「短編ミステリ読みかえ史」は、創元推理文庫から好評発売中のアンソロジー『短編ミステリの二百年1』の書名に合わせ、前々回(2019年10月更新分)より「短編ミステリの二百年」と改題いたしました。引きつづきご愛読たまわればさいわいです。なお、今回は2020年3月刊行予定の『短編ミステリの二百年2』の作業と並行したため、更新が遅くなりましたことをお詫びいたします。



 今回は、この連載で読み返した作家の作品で、連載中に新たに翻訳されたものを、落穂ひろいしておくことにします。今回は12月のアップなので、次回新年からは、いよいよ、50~60年代の短編ミステリの黄金時代を支えた、実力のある作家たちを、ひとりひとり読んでいくことにします。
 ダシール・ハメットの遺作「チューリップ」は、ミステリマガジンのハメット特集と、その次の号に分けて翻訳されたのち、小鷹信光訳による最後のハメットの短編集で表題作となりました。ハメットを思わせるバップという男の一人称です。連邦刑務所に服役した経験のある、しばらく新作のない作家ということなので、私小説とみまがうばかりです。
 そのバップのところへ旧知のチューリップという男が訪ねてくる。チューリップは、バップに書くべき題材を提供できると言いますが、バップは聞く耳を持たず、会話ははぐらかされるばかりです。チューリップというのは、ニックネイムとしても奇妙ですが、それだけに、象徴的な存在――小鷹信光も指摘するとおり、バップとは対極にあるハメットの自我――としても読めて、私小説とか自己の心境の切り売りといった即断は許さないものがある。作中で唯一言及される過去の作品が「休日」――かなりの出来だが狙いのはっきりしない小品というのが自己評価――でもあって、ハメットにとっては、その「休日」と同様に、自身の体験のうちで小説化したいという欲求を持った、数少ない題材のひとつだったのでしょう。ここには、コンティネンタル探偵社員だったハメットは、影も形もありません。ただし、リリアン・ヘルマンのように、この遺作が結末を書き終えられていたと主張するのは、さすがにムチャだと思います。「最終的評価としては、この作品は一人の小説家の叫びでしかない」というウィリアム・F・ノーランの言に賛成するしかありません。

 副題に「キャンピオン氏の事件簿I」とついた『窓辺の老人』では、「ボーダーライン事件」が頭ひとつ抜けていることは、以前に書きました。「ボーダーライン事件」そのものが、従来は20年代の作品と考えられていて、それが、今回の『世界推理短編傑作集』で36年の作と改められました。第三章で見たように、20年代と30年代とでは大違いなのです。
 さて、「キャンピオン氏の事件簿II」として二〇一六年に出た『幻の屋敷』は、『窓辺の老人』以後、戦後に到るまでの短編を集めています。この短編集の中では、「魔法の帽子」「幻の屋敷」が出色の出来です。どちらも、不可解極まりない謎の提出とその謎の深まり方が、抜群の面白さなのです。
「魔法の帽子」は、キャンピオンがさる老嬢から、掘り出し物だという帽子をもらったというエピソードから始まります。知人の青年の恋愛相談に乗るところから本題です。思いを寄せる娘の父親は、成り上がりの金持ちですが、指南役ふうに社交界に顔の効く怪しげな男がついている。その男が、青年の邪魔をしているらしい。ついては「公爵か何かのふりをするのは無理ですか?」とキャンピオンに頼むのが、まず笑わせます。父親に会うと、いきなり事業の話が始まり、指南役の男は伯爵夫人を見つけては挨拶に出向く。残された娘の父親と会食が進むうちに、ふと、もらった帽子を取り出すと、突然、父親の態度が変わる。のみならず、店の待遇が段違いに良くなり、あげく、お勘定はいただきませんと言われます。後日、青年からは、父親の彼に対する態度が激変したと喜ばれ、キャンピオンが別の用事で行った別の店で、帽子を取り出すと、またも最高のサーヴィスを受け、お勘定はいらないと言われます。まさに魔法の帽子なのでした。
「幻の屋敷」も奇妙な話です。キャンピオンの大伯母シャーロットは、一族の誰も逆らえない族長ですが、しばらく留守にしていた自宅に、何者かが忍び込んだと、キャンピオンに訴えたのでした。ただし、盗られたものはなく、ただ、正体不明のレターペイパーが残されている。せっかちな暴君の伯母は、レターペイパーに書かれた住所と〈灰色小孔雀荘〉という名を手がかりに、州を越えてキャンピオンたちを伴いますが、その住所には、そんな屋敷など見当たりません。キャンピオンが、少々だらしのないシャーロットの息子(といっても、キャンピオンのはるか年上です)と酒場にいる、そこへ娘が飛び込んできて、〈灰色小孔雀荘〉へはどう行ったらいいのかと、訊ねます。しかも、誰も知らないそのお屋敷を知っているという人物が登場し、何がおかしいのか、大笑いしながら、道案内を始めます。それもそのはず、〈灰色小孔雀荘〉は、何年も前に取り壊されていたのでした。ところが、娘はつい最近、その屋敷に行ったばかりか、そこを借りる手配さえしているというのです。
 両作とも、こんなに魅力的な謎が設えてあれば、解決が、よほど無理やりだったり、インチキでさえなければ、成功は約束されたようなものです。アリンガムは、ともに、無理なく解決をつけてみせます。優劣をつけるなら、真相のシンプルさで「魔法の帽子」に軍配をあげます(ちょっと都筑道夫の『やぶにらみの時計』を連想しました)が、どちらも秀作です。とくに「魔法の帽子」は、キャンピオン自身に不可解な事態が降りかかるという意味でも、いささか破格です。「幻の屋敷」も身内の事件で、キャンピオンも安閑としていられませんが、それでも謎を解けと命令されて、その場にいるのです。この二編、強いて不満を述べるというか、肩透かしめいた感じを受けるのは、どちらも、キャンピオンの立場が、もっとも事態が不可解に見える位置にあるところです。とりわけ「魔法の帽子」はキャンピオンの立ち位置に合わせて、書割のように謎が組み立てられていて、しかも、問題の帽子がキャンピオンの手に渡ったのは、偶然のことでした。ただ、これを純粋に偶然と見るかは、いささか微妙な問題でもあって、上流階級の狭い範囲内であることを考えれば、キャンピオンの手に帽子が渡る確率は、案外高いとも言えます。
 この他、新聞が初出の「見えないドア」「キャンピオン氏の幸運な一日」「面子の問題」といった作品は、後述するイギリス特有の短いパズルストーリイでした。
 以前にも書きましたが、くり返します。『窓辺の老人』に特に顕著で、『幻の屋敷』にあっても「魔法の帽子」などにあてはまることですが、キャンピオンが相対するのは、プロの犯罪者であることが多い。そもそも「ボーダーライン事件」にしてからがそうです。デビュー当時、スリラー作品を書いていたアリンガムですから、当然と言えば当然なのでしょう。つまり、30年代の作品集ではあるものの、中身は名探偵キャンピオンの探偵譚。むしろ、シャーロック・ホームズのライヴァルというか末裔でしょう。アメリカのディテクションの小説が、30年代を境に、つまりクイーンとハメットの登場を境にして、プロットを展開させるにあたって、事件を論理的にフェアに解決することを重視する一派と、探偵の行動を追うことを主眼にする一派に二分したのに対し(注意してほしいのは、それがパズルストーリイとハードボイルドの二派ではないことです。後者には、ある種のパズルストーリイが含まれていました。同時に、両派ともに、展開の速度に腐心するという共通項がありました)、イギリスのそれは、ずっと伝統的な探偵の物語であり続けたようです。代表はセイヤーズでしょう。アリンガムの短編集は、そのことの読み取りやすい好例となっています。

 エドマンド・クリスピンの第一短編集『列車に御用心』は、二〇一三年に論創社から翻訳が出ました。巻末にEQMMに投じた「デッドロック」を据えて、それ以外は、新聞に掲載された短いパズルストーリイを集めています。巻頭はもちろん「列車に御用心」です。マージェリー・アリンガムやマイケル・イネスのところで、イギリスのパズルストーリイに、新聞掲載の短い作品が見られることは、指摘しておきました。適当な雑誌媒体がないため、そういうことになったものと思われますが、このあたりの制約が、イギリス流の名探偵+ワトソン役という流儀と結びつくことで、推理問題ふうの短編が書かれることになり、ひいては、アームチェア・ディテクティヴの短編を量産することになりました。もっとも、ワトソン役というのは、この場合、やや不正確で、物語の語り手をつとめることは、あまりありません。探偵役の相棒で、事件を提示する係と言った方が適切でしょう。クリスピンの場合は、この相棒が、ハンブルビー警部であることが多いのです。「列車に御用心」も、ハンブルビーが登場しました。
 クリスピンの「はじめに」という文章には、中の数編を、具体的にどれと示しながら、「新聞のクイズ欄に出てくる平均レベル程度の専門知識、もしくは専門に近い知識を少々必要とする」と、フェアに断っています。もっとも、それらの作品は、提出された謎に魅力がなかったり、犯人の見当はほぼついていて、その決め手に専門知識が出てくるといった具合で、専門知識が必要という理由以前に、平凡な作品でした。
 以前、ミステリマガジンに「〈悲愴〉殺人事件」の題名で訳されたこともある「人生に涙あり」も、登場人物を(ひいては読者を)錯覚させる犯行方法と、その解明は巧みなものの、決め手となる偶発事の出し方がもたついていて、惜しい気がします。同じようなことは「すばしこい茶色の狐」(これもミステリマガジンに既訳があります)にも言えて、アルファベット26文字をすべて使う短文から、思いついたものでしょうが、時間差を巧みに使うのは、クリスピンの得意とするところなのでしょう。ただ、この場合、恐喝の被害者が被害者になるという根本の不自然さが、気になりました。アンブラーの『ディミトリオスの棺』のラストと比べてみてください。
「人生に涙あり」「小さな部屋」のように、犯人は指摘されるけれど、罪を逃れているもの(同様のカテゴリーに「三人の親族」を入れてもいいかもしれません)や、ドメスティック・ヴァイオレンスを事件の背景に据え、知的障碍者の献身というディテイルも加味した「エドガー・フォーリーの水難」といった作品から、クリスピンが単純な推理問題としてのみ、パズルストーリイを発想しているのではないことは、明らかでしょう。そうした人間関係の綾が、見事に謎解きと結びついたのが「ここではないどこかで」ということになります。この作品のヴァージョンアップについては、以前に触れたとおりです。
 こうして読んでいくと、連載時にとりあげた「列車に御用心」「ここではないどこかで」の秀作二編を除くと、「喪には黒」が注目すべき作品ということになるでしょう。
 警官の見回り範囲が異様に広いイギリスの片田舎で、渡米を翌日に控えたジゴロの男が殺されます。巡邏中の警官が、田舎のさらに郊外の、その男の家の前で、死体を発見しますが、駅で目撃された時間から考えて、車で警官を追い越さないかぎり、先に帰宅するのは不可能なのに、警官を追い越した車どころか、道筋(一本道なのです)には一台の車も見つからない。しかも、死体は派手なジャケットに不似合いなブラックタイです。一本道の反対側は駅付近の踏切で、踏切版の老人の設定も工夫されていて、まずは秀れたパズルストーリイです。ここでも、時間差を巧みに利用するクリスピンの腕前が冴えていました。
 しかしながら、一本道で車が消えてしまうという設定で思い出す秀作が、実はもうひとつあります。ヒュー・ペンティコーストの「子供たちが消えた日」です。そして、解決そのものは「喪には黒」の方がきれいで面白いにもかかわらず、ここには「子供たちが消えた日」の、自動車が消えうせてしまうという謎と、その謎が深まっていく、ぞくぞくするような面白さがありませんでした。それどころか、これほど手際よく、状況と謎を説明しているにもかかわらず、それはクイズ問題の段取りのように見えてしまう。少なくとも「子供たちが消えた日」に較べれば。
 クリスピンの様々な試みや工夫にもかかわらず、アームチェア・ディテクティヴが短い紙数しか与えられないとき、それは避けられない制約となっているようです。それが証拠に、この形式が完成形を見たジェイムズ・ヤッフェのママ・シリーズを思い出してください。長めの短編もしくは中編といったヴォリュームを、それは必要としていたのです。

※ EQMMコンテストの受賞作リスト(最終更新:2014年11月5日)