二〇〇三年八月、アイルランド共和国のキルケニーで芸術祭が開かれた。そのときのパンフレットによれば、展示されたケアリーの作品はOBSERVATORY MANSIONS『望楼館追想』)の挿絵に使われたエッチング八点と手袋を使ったオブジェ、同書巻末にある「フランシス・オームの愛の展示品」のリストとその品物の一部、さらにALVA & IRVA『アルヴァとイルヴァ』)の舞台となった架空の町エントラーラの模型の上に佇む双子姉妹の塑像、そしてケアリー自身がキルケニー産の木材で作った等身大の小柄な女性の人形だった。その人形に付けられた名は「アンネ・マリー・グロショルツ」。後に、ロンドンで蝋人形館の主人となったマダム・タッソーである。このとき、マリーの物語はすでに胎動し始めていた。マリーが長身の腹話術師と旅をする物語のタイトルは、この時点ではSOLITARY WALKER(直訳すれば『独りぼっちの散策者』)だった。
 主人公や登場人物を絵や塑像などで作り上げなければ物語は始まらない、それが物語の世界に入り込む自分のやり方だ、とケアリーはインタビューやエッセイなどで再三述べている。前作〈アイアマンガー三部作〉の主人公クロッドとルーシーも、まずはその姿が紙の上に現れてから物語が始まった。本書『おちび』(原題LITTLE)もまた、文字に記される前からマリーの等身大の人形はすでにケアリーのそばにいて、語られるのをいまかいまかと待っていたのである。
 そもそもケアリーがマリー・タッソーという人物に興味を抱いたのは、子供の頃にタッソーの蝋人形館を訪れ、「恐怖の部屋」の恐ろしさに茫然となったときだった。二十代初めにはその蝋人形館で半年間、警備員として働いた。その体験が、『望楼館追想』の主人公が「不動」を身につけたときの描写として生かされている。

 謝辞にあるとおり、ケアリーは本書に十五年の歳月を費やさなければならなかった。なぜそれほどまで長い時間がかかったのか。
「エンターテインメント・ウィークリー」誌(二〇一八年十月二十三日号)のインタビューのなかでケアリーは、「舞台となるパリは実在の町であり、フランス革命は実際に起きた出来事なので、調べることがいろいろとありました。それから、マリーの声を探し求め、それを把握するのに時間がかかったのです」と述べている。
 また、何度も書き直しをし、長い物語にしたり短い物語にしたりし、手を付けずに長いあいだ寝かせておいてからまた戻り、新たな気持ちでとりかかったりもした。「いっそ、この小説を破棄してしまおうか、と思ったこともありました。でも、いつも必ずここに戻って来た。そうしなければならない小説もあるし、その必要のない小説もあるんです」
 十八世紀のフランスについて調べるうち、膨大な史実のなかで迷子になり、にっちもさっちもいかなくなった際に、蝋人形館で働いていたときの感覚を思い出した。「自分が味わっていたわくわくした気持ちが蘇ってきて、ようやく先に進められるようになりました」
〈アイアマンガー三部作〉を書いたのが大きな転機になった、アイアマンガーを書くという遠回りをしなかったら、本書の執筆を断念していたかもしれないとも、テキサス大学オースチン校の広報(二〇一九年八月三十日)では述べている。「あの作品が作家としての私を元の状態に引き戻してくれました。フィクションを書く楽しさを思い出させてくれた。作家なら好きなだけ行きたいところに行けばいい、ということを思い出させてくれたんです」
 フランス革命前後のパリの様子は、本書にも登場するルイセバスティアン・メルシエのLETABLEAU DE PARIS『十八世紀パリ生活誌』原宏編訳、上下巻、岩波文庫)から着想を得た、とケアリーは述べている。パリの人々の日常から雑然とした町なかの様子、下水の問題、川や通りの悪臭、いまでは想像もできない職業や結婚制度や捨て子のことなど、風俗や習慣全般について書かれたこの記録からは、確かに十八世紀のパリの様子、人々の暮らしぶりや熱い息遣いが伝わってきて、訳者もこの本にとても助けられた。
 たとえば、「ブルジョワの男の一生は、妻には虐げられ、娘たちには馬鹿にされ、息子たちからは愚弄され、召使いからは命令に背かれることで終わる。要するに彼は家の中にあってゼロなのだ。ストイックな忍耐の模範、もしくは無感覚の模範である」といった辛辣かつユーモア溢れる記述が続き、友人のジャンジャック・ルソーやその著書にまつわる文章もちょくちょく出てきて飽きることがない。

『おちび』について
 本書は、一七六一年にアルザスで生まれたマリー・グロショルツが八十九歳になって自身の半生を回想し、両親との別れや恩師との出会い、蝋の加工や人形制作の技術の習得、フランス革命時の類い稀な体験、傑出した人々との出会いと別れなどを自らの手で書いた作品で、本文中にある絵もすべてマダム・タッソーが描いたという設定になっている。したがって、本書はあくまでもケアリーの作り上げたフィクションである。
 幼いマリーは母親と共に、生まれ故郷の小さな村を出てスイスのベルンにやってくる。クルティウスという医師が家事をやってくれる人を求めていたからだ。そこで働くことになって初めて、マリーはクルティウスが蝋で人体の部分の模型を作っていることを知る。人骨と臓器が好きなクルティウスの仕事部屋には、あらゆる人体の模型や道具類が所狭しと置かれ、ガラス瓶の中には得体の知れないものが閉じ込められ、不気味な博物館のようだった。母親は死者の体の一部が病院から運ばれてくるというおぞましい状況に馴染むことができず、早々にマリーの人生から姿を消してしまう。孤児となったマリーにとって、頼れる大人はクルティウスしかいなくなる。女性が苦手なクルティウスも、自分が恐れることのない初めての相手であるマリーを受け入れ、知人に向かって、「この子が女の子であることをすっかり忘れるときがあります。性などないように思えるんです。あるいは、マリーという性なのか。男、女、そしてマリー、というふうに。この子は私のマリーです」と述べるほどの信頼を寄せる。
 マリーはクルティウスの仕事を手伝い、絵を描くこつを教わる。蝋の技術を身につけてからの人生は大きく変化し、フランス王女エリザベートの彫刻の教師となって宮廷の狭い戸棚のなかで寝起きし、フランス革命では王族(ルイ十六世やマリー・アントワネット)や政治家(ロベスピエール)の顔の型を取るまでになる。そしてそれから作られた?の顔が後のマダム・タッソー蝋人形館の礎となっていく。
 蝋人形にマリーが惹かれた理由は、「蝋は嘘をつけない」というクルティウスの言葉に要約できるだろう。傷や毛穴まで美しく修正できる肖像画や理想の姿を刻める彫刻とは違い、ありのままの真実を写しとる蝋をクルティウスはことのほか愛した。そのクルティウスをマリーは限りなく愛することになるが、クルティウスはパリの下宿先の主人の、やり手で計算高いピコー未亡人に夢中になる。さらにピコー未亡人のひとり息子エドモンがかかわってきて、四人の感情は徐々に激しく動き出すことになる。
 人々の細やかな心、理想を追いかける師弟の関係、ヴェルサイユ宮殿で味わう召使いの生活、宮殿の外に広がる貧困と病と死、王族の運命、民衆の怒りと絶望など、さまざまな出来事が次々にマリーの人生を彩っていく。宮廷に入っていたマリーが、やがて王族や貴族の生首を引き受けてデスマスクを作り、過酷な現実を乗り越えていく場面は圧巻だ。
 ナポレオンのお抱え画家として有名なジャックルイ・ダヴィドが描いたという設定のマリーの絵には、彼女の特徴である鼻と顎が描かれていない。しかし聡明で意志の強そうなその目は、はっきりと描かれている。本の紹介と書評の専門誌「ブックページ」(二〇一八年十月二十三日)でケアリーは、「彼女は自分のことを醜いと思ったことはないし、思う必要もないんです。彼女は自分を憐れんだりしません。世の中をとても公平に見ます。見た物すべてに心を奪われます。小さなものにもか弱いものにも価値を見出すような女性です」と述べ、インタビュアーに、「マリーは後悔ということを知りませんね」と問われると、「彼女は後悔しません。後悔とは恵まれた人の贅沢な感情かもしれませんよ。マリーの人生は生き残るための闘いでした。後悔という意味すら彼女はわかっていないかもしれない」と答えている。「あらゆる人に、あらゆるものに、特別な価値があるのです。どんなにちっぽけで壊れやすいものにも価値がある。価値のないものなどない、とマリーは思っているんです」
 本書は類い稀な人生を送ったひとりの女性、芸術家であり商才に長けた女性を主人公にした壮大な歴史小説である。そしてこれまでのケアリーの作品と同じように、物語のテーマは愛と喪失だ。いつも人のために働き、虐げられてきたマリーは、幼い頃から身内の死を経験し、長じては親しい人たちの死を目撃する。その人々への愛情がさまざまなトーンで語られる。とりわけクルティウスへの献身的な愛、エドモンへの純粋な愛、エリザベートへの無償の愛、さらに敵対してきた未亡人への慈愛の描写には、否応なく心を揺さぶられる。
 身寄りのない女性が激動の時代を生き抜いていく姿は力強い。師匠に蝋の技術を教えられ、好奇心という味方を得、本物の愛情を知り、革命の時代に頭をフル回転させて、まっすぐに生きようとするその勁さ、逞しさ、美しさはどうだろう。
 本書が出版されてからさまざまな紙誌で讃美の言葉が寄せられた。「ニューヨーク・タイムズ」「タイムズ・リテラリー・サプリメント(TLS)」「ガーディアン」「スペクテイター」などは、マリーの物語の素晴らしさとケアリーの才能を称えた。また、マーガレット・アトウッド、ケリー・リンク、グレゴリー・マグワイア、ナイジェル・スレイターをはじめとする多くの作家が「一度読んだら一生忘れられない作品」として本書の魅力を語っている。
 なお、本書は現在、イギリスの歴史作家協会が主催する「HWAゴールド・クラウン・アウォード」の二〇一九年度最終候補六作に残っている。

 世界史に詳しい方や、フランス革命が起きた時代に詳しい方には不要かもしれないが、大きな体制が壊れ、民衆が力を得て、混乱状態に陥った時代を理解する一助になればと思い、巻末に年表をつけた。

エドワード・ケアリーについて
 エドワード・ケアリーは一九七〇年にイギリスのノーフォークに生まれた。劇作家、イラストレーター、彫塑家でもある。現在はアメリカのテキサス州オースチンで暮らし、テキサス大学で教鞭を執りながら、執筆をおこなっている。妻は作家のエリザベス・マクラッケンで、夫妻のあいだに子供がふたりいる。
 これまでに長篇六作、短篇九作を発表している。

●長篇
OBSERVATORY MANSIONS (2000) 『望楼館追想』(二〇〇二年、文藝春秋)
ALVA & IRVA (2003) 『アルヴァとイルヴァ』(二〇〇四年、文藝春秋)
The Iremonger Trilogy 〈アイアマンガー三部作〉
 HEAP HOUSE (2013) 『堆塵館』(二〇一六年、東京創元社)
 FOULSHAM (2014) 『穢れの町』(二〇一七年、東京創元社)
 LUNGDON (2015) 『肺都』(二〇一七年、東京創元社)
LITTLE (2018) 本書 『おちび』(二〇一九年、東京創元社)以上、古屋訳。
●短篇
“In Our Town, Once” (客船クイーン・メリー?の建造によせて。二〇〇三年にフランスで発表される)
“Man with Goiter” (二〇〇八年イタリアで、エリザベッタ・スガルビの映画と共に発表)
“An Account of My Neighbors, Being the People Who Stop Me from Working”(Unstuck vol. 2,2012) 「私の仕事の魔をする隣人たちに関する報告書」(古屋訳、二〇一四年、文春文庫『もっと厭な物語』所収)
“Sawdust: Baucis and Philemon” (XO ORPHEUS, 2013)
“A Semi-Prehensile Lip”(Conjunctions: 61, 2013)
“Portrait of an Unnamed Man” (ラ・ミラネシアナ・フェスティバル二〇一六のために。Corrieredella Sera, 2016)
“Ernest Albert Rutherford Dodd” (ArtFiction: Ten Fictional Modernists from Texas, 2016)
“The Bird House” (二〇一六年、テキサス大学オースチン校の卒業式でおこなわれたスピーチ)
“These Our Monsters” (THESE OUR MONSTERS: THE ENGLISH HERITAGE BOOK OF NEW FOLKLORE, MYTH AND LEGEND, English Heritage, 2019)
 長篇はどの作品も、細部まで見事に構築された世界のなかで一風変わった孤独な人々が織りなす、愛と悲哀に満ちた綾織りのような物語である。ケアリー的としか言い表せないような、不気味でグロテスクだが不思議な魅力に満ちていて、どの作品にも「物」と「者」への一方ならぬ「愛」が貫かれている。弱者に対する優しさ、孤独な人々への慈しみの心、異端であることへの共感、それがケアリー文学の核となっている。『望楼館追想』では人の愛した物を蒐集するフランシス・オーム、『アルヴァとイルヴァ』では町の模型を作る双子姉妹が描かれ、〈アイアマンガー三部作〉では物と者とのあいだの秘密を握り、自由を求め、復讐を遂げようとする一族と、復讐よりも愛を選ぶ勇気ある子供たちの姿が描かれている。これまでのこうした作品のエッセンスのすべてが本書『おちび』に流れこんでいる。
 あるインタビューでケアリーはこう答えている。「子供の頃からいつも絵を描いていて、その絵にふさわしい物語を書こうとしてきました。私が最初に書こうとした小説は、ナショナル・ギャラリーに展示してあるカルロ・クリヴェッリ(一四三〇年頃~一四九五年)の祭壇画が生命を得て、ロンドンを大混乱に陥らせるものでした」)「TLS」二〇一九年五月七日)。題材が、気品ある作風で官能的ですらある祭壇画を描いたカルロ・クリヴェッリ? この早熟と美意識。早くからケアリーは、絵と物語の組み合わせによる世界の虜だったのだ。『ピノッキオ』の作者カルロ・コッローディの財団からケアリーに、ピノッキオにまつわるオブジェや絵を制作してほしいという依頼があり、二〇一八年の夏にイタリアのピノッキオ公園(トスカーナ地方のコッローディ村にある本のテーマパーク)で作品の展覧会が開かれた。そこでは「ピノッキオ」を作ったジェペットじいさんが大きな魚に?み込まれ、その暗い腹のなかで過ごした二年間のうちに作った作品、という設定でできあがったオブジェが出展された。オブジェができれば物語もできるのがケアリーなので、もちろん、その物語もすでに完成していて、二〇二〇年秋に発表される予定である。タイトルはFISH HOUSE(仮題『魚の館』)。
 現在執筆中の作品は、子供専門の恐ろしい病院を舞台にしたもので、病気が怪物の姿をしているという。「イタリアのフィレンツェにある実際の病院から着想を得ました。実在の病院はとてもよいところでしたが、本来の病院の姿とは正反対の、恐ろしい病院を書きたいと思いました。子供たちのための本であり、大人のための本でもあります」。なんと刺激的な物語だろう。期待しないではいられない。
 個人的には、先に挙げた短篇九篇のアンソロジーを編んで、日本で出版したいと願っている。

マダム・タッソー蝋人形館
 クルティウスの蝋人形館があったのはパリのタンプル大通りで、本書に描かれているようにとても広い通りを挟んでさまざまな娯楽施設が揃っていた。またマリーが船で蝋人形を運んでいった当時のロンドンも、多様な見世物で人々を喜ばせる一大娯楽都市だった。『ロンドンの見世物』(R・D・オールティック著、小池滋監訳、全三巻、国書刊行会)によれば、ロンドンにはたくさんの見世物小屋が建ち並び、珍しい植物から動物、骨や標本などが展示され、アメリカ先住民族の酋長も連れてこられて見世物にされていたという。とにかく大航海時代を背景に、世界中の珍品がロンドンに集められていた。
 蝋人形もすでにあって、さまざまな人物の人形をお金を取って見せていたが、マダム・タッソーのところはこれまでの蝋人形展とは違っていた。彼女の蝋人形が名声を博したのは、「新聞で大ニュースとなった人物をその都度かならず加えることにし」、絶えず新しさを演出していたからであり、人形を使い回しするようないい加減な態度は取らず、「本物らしさを追求」し、「事実」を重視していたからだという。「生きた人間から型を取るか、デスマスクから型を取ることができない場合は、いちばん本物に近い肖像画をもとにし」、しかも人形に相応しい衣装を着せるためには金に糸目をつけなかった。さらに、展示室が明るく豪華で、工夫を凝らした見せ方をしていた。マダム・タッソーはショービジネスがどういうものかわかっていたのだ。
 現在は年間二百五十万人が訪れるというロンドンの蝋人形館だが、ケアリーがそこの警備員として半年間働いていたことはすでに述べた。前述した「ブックページ」のインタビューで、蝋人形館での仕事について次のように語っている。
「実に変わった仕事でした。二十人ほどの人たちといっしょに雇われたのですが、それは生身の人間が蝋の人々に迷惑をかけないように見張るためでした。『触らないでください』と言うのが仕事だったのです。生身の人たちは本当によく蝋人形に触りたがります。雇われたわれわれは、基本的に一日の最初から最後まで、ひとりで蝋人形に囲まれているわけです。そうすると、否応なく蝋人形のことを考えてしまうし、蝋人形であるとはどういうことなんだろう、と思うようになります。動けるんじゃないのかな、動けるのに、ひどく頑固だから動こうとしないんだ、などとね。それで蝋人形相手に遊んでいる気になる。蝋人形には一種の哀愁が漂っています。人間そっくりに作られているのに本物の人間には決してなれない。これはひどく残酷なことですよ。何週間か経つと、どの警備員も自分が担当する展示室に愛着を持つようになり、蝋人形のふりをするようになるんです。微動だにせずに立っていて、入館者がやって来て、われわれを見て、人間にそっくり、と言ったりする。そこでわれわれが『触らないでください』と言う。みんな悲鳴を上げますよ」

 ロンドンの蝋人形館には、マダム・タッソーが自ら制作したヴォルテールやフランクリン、ルイ十六世、マリー・アントワネット、ロベスピエール、ナポレオンなどの古い頭部があり、ケアリーによれば「彼女の作った顔がほかの作品とは違って独特の精神を宿しているのは、彼女が歴史に触れていたからです。彼らを直接知っていたからなんですよ」ということだ。
「彼女の写真を撮った人はいません。それがまた私には完璧に思えますね。写真は彼女に相応しい表現ではない。彼女の表現は蝋なんです」
 なお、作中のマリーに「泥棒」と言われているチャールズ・ディケンズは、THE OLD CURIOSITY SHOP『骨董屋』)に蝋人形といっしょに地方を巡回しているジャーリー夫人を登場させている。主人公のネルとその祖父が一時期身を寄せることになる相手だ。マリーもイギリスに渡ってから三十年ほど、蝋人形を馬車に積んで地方を巡回し、ベイカー街に人形館を持ったのは一八三五年のことだった。
 ディケンズの影響は〈アイアマンガー三部作〉にも色濃く表れているが、本書にも、話の展開の仕方、孤児マリーの辛い境遇、個性的で忘れられない脇役たち、はかない愛の姿や貧しい人々の様子など、ディケンズ的なものが登場する。その語り口には優しさとユーモアが含まれている。『骨董屋』の最後の一文「. . . and so do things pass away, like a tale that is told !(語られる話のごとく、すべては消えゆくのみ)」が、ときには大きく、ときには小さく本書に木魂しているように思えてならない。

 ちなみに、ケアリーが二〇〇三年に作った木製のマリー・グロショルツ人形はいまもケアリーの居間に座っていて、ケアリー一家とともに日々を過ごしているという。

 本書の翻訳出版にあたっては、今回もケアリー作品を愛する大勢の方のご協力を得た。貴重な十八世紀パリの資料や建物と通りの写真集を貸してくださった方、ロンドンのマダム・タッソー蝋人形館へ赴いて資料を集め、たくさんの写真を撮ってきてくださった方、フランス語の発音やフランス革命について教示してくださった方々のご支援がなければ、訳者は十八世紀のパリについて平面的な理解しかできなかっただろう。心から感謝いたします。
 そして東京創元社の小林甘奈さんと、編集と細かなチェックとをしてくださった友人の鹿児島有里さんと大野陽子さんにはいつもながら大変お世話になった。ありがとうございました。
 最後に、訳者の質問にいつでも快く応じてくれ、優しく思いやり深いメールで励ましてくれたエドワード・ケアリーにもお礼を申し述べたい。ケアリーさんに出会わなかったら、この世界の色合いはだいぶ違ったものになっていただろう。どうもありがとうございました。

 二〇一九年 十月十日                       古屋美登里