軽妙洒脱(けいみょうしゃだつ)なミステリ短篇集、それも連作ではなく、ということになると近年は数が限られる。その貴重な一冊、『休日はコーヒーショップで謎解きを』(高山真由美編訳 創元推理文庫 1080円+税)は、作者ロバート・ロプレスティが、日本語の翻訳出版第一弾となった連作短篇集『日曜の午後はミステリ作家とお茶を』の好評を受けて、日本での第二短篇集(もちろん一冊の本としては日本オリジナル)である。
 収録九篇は多様性(バリエーション)に富んでいる。犯人当てあり、トリックあり、殺し屋あり、ギャングあり、生き別れの兄弟あり、職業探偵あり、人種差別あり、サスペンス(冒頭から初対面の人物に拳銃を頭に突き付けられている)もある。本書は、後味の良さ、その結末をわざとらしく感じさせない構成力、そして恒常的に洒落(しゃれ)ている台詞(せりふ)回しによって特徴づけられている。特に、独白を含めた台詞の影響は大きく、《安心してすいすい読める》状態と、《含蓄》とが綺麗に両立している。これぞ真の意味で気楽に気軽に読める逸品であり、休日に珈琲(コーヒー)片手に読むのが相応(ふさわ)しい。私もそうしました。

 では逆に、気楽にも気軽にも読めない逸品はあるのか? 今月はある。スチュアート・タートン『イヴリン嬢は七回殺される』(三角和代訳 文藝春秋 2000円+税)がそれだ。
 主人公《わたし》は、物語が始まった時点では記憶がない。だがアナという女性を助けねばならないという強烈な衝動を抱えたまま、森の中の屋敷《ブラックヒース館》にやって来る。その日、館では招待客を招いて仮面舞踏会がおこなわれていた。彼らは、悪徳銀行家、麻薬密売人、女たらし、急に暴れ出して監禁された男など、怪しげな人物が目白押しだった。使用人にも胡乱(うろん)な者が多数いる。しかも主催者のハードカースル家は、十六年前に館で起きた殺人事件により長男(イヴリン嬢の兄)を亡くしていた。話が進むにつれて、今回の招待客には、十六年前の事件の際に館にいた人物が多数いることが判明する。ハードカースル家は今になって何を企んでいるのか?

 このただでさえ錯綜(さくそう)した状況に、SF設定が炸裂する。《わたし》は、気絶したり殺されたりして意識を失うたびに、朝に時間が巻き戻り、別の人間(概(おおむ)ね招待客か使用人。通称:宿主)の中で目覚めるのである。そして黒死病医師の服を着た男は、《わたし》にこう告げる。夜に毎度必ず死ぬ、ハードカースル家の令嬢イヴリンの殺人犯を暴け、さもなくばこの日は何度でも繰り返される、と。しかも、《従僕》と称する人間が毎回、《わたし》を殺害しようと付け狙ってくるのだった。

 タイムリープの発想をベースに、古い屋敷、格式高い一族、上流階級の招待客といったクラシック・ミステリの構図を用意、ここに人格転移という別要素を注入している。しかも《黒死病医師》、《従僕》、アナらは、主人公の巻き込まれたこの特殊環境を正確に理解している。彼らは順に出題者、追跡者、コンゲームの相手に相当し、それぞれ独自の立ち位置を保持する。

 ことほど左様(さよう)に多要素がごった煮であり、果たして収拾が付くのか、私も読んでいた最中は不安で仕方なかった。しかしご安心を、本書はフェアプレイに徹した、見事な解決を用意してくれている。ポイントは、一人称主人公が、本来はあり得ない多視点から、同じ日を何度も繰り返し観察することである。《わたし》の人格が宿主の影響を若干受ける設定が上手く使われており、同じ出来事に対しても毎回見方が異なるので、結果的に読者へのヒントが分割されて提示されているのだ。

 個人的には、この物語が贖罪(しょくざい)の物語でもあったことと、それが明かされた後の主人公の行動が印象に残っている。人々の生々しい利害と情念がぶつかり合う混沌(こんとん)とした館内で、それは一服の清涼剤、一筋の光明となった。常時事態が急転しているような物語ではあるが、やっと解決が見えて来る終盤の展開は、それまでの絶望的な閉塞感と、美しい伏線の妙も相俟(あいま)って、近年なかなか見られないカタルシスがあった。